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「おみくじトレード」著者: 波野發作

「うわ。本当に椅子に座っている」
「だから言ったでしょ」
 鋳造の小ぶりな仏様は、胡座ではなく、椅子の様なものに座って背筋を伸ばしていた。こんな仏像見たことない。想像もしなかった。僕の敗北だ。彼女の圧勝。
「仕方ない。お昼はご馳走しますよ」
 やった、とササキさんは少女のように笑顔を弾けさせ、礼をするように改めて仏像を拝んだ。仏様を賭け事のネタにするなんて罰当たりなことだが、なかなか奢らせてくれない年長の女性を攻略する口実になるのであれば、お慈悲も頂戴できるのではないかと思う。
 彼女と知り合ったのは、同業者の交流会でのことだ。彼女は僕よりも遥かに業界に精通していて、機械に関する理解も知識も深かった。また、顧客トラブルを解決した実績では僕などは足元にも及ばない。自信家で粋がっていた僕は、彼女に出会ってから考えを改めた。仕事で何か決めるときは必ず彼女の顔や声が頭をよぎり、それで本当に良いか再考するようになったのだ。お陰でいくつかの事故案件を未然に防ぐことができたし、周囲からの評価も変わった。以前の僕は同僚に当たり散らす、イケ好かない人物だったそうだが、最近は柔らかくなったと言われる。彼女と出会って僕は変わることができた。恩人なのだ。
 お堂の奥からご祈祷を受けている声が聞こえる。低音のお経のような響き。波動で魔物を追い払うのだろう。お香の香りと相まって、厳かな雰囲気を醸し出している。賽銭箱がある階段の脇には木製の仏像が鎮座していた。だいぶあちこちすり減っている。
「これって、触ったところが良くなるのよね」
「ああ、そんな感じですね」
 彼女はお賽銭を入れて、腹のあたりをていねいにさすりだした。僕は脇にある張り紙を眺めていた。どうやらこの寺はおみくじというもの自体の発祥の地であるらしい。彼女と出掛けるとこういった知見がどんどん深まる。それが実に楽しい。僕はこの人が好きだ。
「ササキさん、おみくじ引いていきましょうよ」
「あ、そうだね」
 僕たちは階段を上がり、めいめい箱からおみくじを引いて、中身を出した。さて。
 第一番。愛。愛する人を第一にせよ。あなたの人生はその人をどこまで愛せるかで価値が決まる。運勢・吉。願望。思うより早く叶う。仕事。やりがいを大事に。実績が上がれば評価もあがる。健康。心配ない。すべてうまく行く。金運。借金するな。堅実にいけ。恋愛。意中の人と相思相愛。今が告白の好機。学業、旅行、出産。全部良好。
 これはまずまずの内容ではないだろうか。彼女をちらりと見る。じっくりと真剣におみくじに見入っている。サバけた性格のようでいて、意外と信心深いところもある。誰からも美人などと言われるタイプではないが、強い意志を感じる表情は僕にはとても美しく見える。どうかな。惚れてしまったからそう見えるだけだろうか。彼女と出会った交流会は、いつしかただの飲み会となり、人数が減って二人だけになった。なんとなく別れ際に次の予定を約束して解散するパターン。前回の約束通り、今日は蕎麦を食べるために来た。
 境内から参道に出ると、脇の水路に人だかりができていた。なんだろう、と小走りで飛び出した彼女を追って、僕も水路を覗き込んだ。子供たちははしゃいでいて、大きなカメラを向けてシャッターを切りまくっている人もいる。
「なんなんです?」
「オニヤンマの産卵だって」
 大型のトンボが垂直に跳ねるように飛び、尾を水面にちょんちょんと点けている。器用に飛び続けて、繰り返す。それで卵を産み落とすのか。こんな光景見たことない。
「こりゃすごいな。昆虫が好きなんですか?」
 いや、あんまり、と本当に嫌そうな顔で振り返ったので思わず吹き出してしまう。
「でも、自然の生命力って感じで、すごいね」
 そういうものをそういう目で見られるって素敵だなと、抱きしめたくなるのをぐっとこらえて、僕らは水路を離れた。僕はまだ抱きしめる許可をもらっていない。
 老舗の蕎麦屋で、彼女は普通のざるそばを、僕は天ざるを頼んだ。食後には珈琲を。少し遅めの時間だったせいか、僕らの小部屋には他に客がいない。思いを伝えるチャンスと言えなくもない。だが、僕は彼女のプライベートな情報をそれほど知らない。恋人がいるのかもしれないし、実は結婚しているのかもしれないし、子供だっているかもしれない。これまでずっと、仕事の話か、食べ物の話しかしてこなかった。それはただ、ただ、単に、真相を知るのが怖かっただけだ。月に一度ほどの逢瀬すら失うかもしれない。その勇気が僕にはなかった。だから今日も、取るに足らない薀蓄を傾けながら、注文の蕎麦が届く前の時間を、むやみに過ごした。当たり障りのない会話。付かず離れずの距離を保ちながら、触れることもなく、触れられることもない、他人の関係。それでも、視界に彼女がいることが、今の僕にとっては至福のときであった。出てきた蕎麦を味わいながらも、ずっと僕は彼女の唇を見ていた。薄く引かれたルージュ。いつか触れることがあるのだろうか。
 ランチのあとは珈琲を愉しむほどよいまどろみ。二人きりの食堂で、僕らは一定の距離を保っていた。だが、均衡は彼女の方から破られた。それはまさに奇襲だった。
「来週手術するんだ。がんの」
「しゅ? え?」
 僕は医学には詳しくないが、腹部を指す彼女のジェスチャーでだいたい察した。
「そんな。出歩いて大丈夫なんですか?」
「まあ、普段はなんともないから」
「食べ物とかは?」
「消化器系じゃないんでとくには」
 僕は、はあなるほど、としか答えられなかった。どこまで尋ねていいのかわからない。ただ、彼女の気まぐれで吐露される情報を、ただ、キャッチするしかなかった。仏像の腹をずっと触っていた理由、トンボの産卵を見ていた横顔。おみくじにもなにか不安を煽るようなことが書いてあったのかもしれない。そうだ。僕は財布からおみくじを取り出した。
「ササキさん。これ、交換しましょう」
「……交換って、そんなのありなの?」
「知りませんが、駄目とも書いてませんし」
 彼女の出したおみくじを取り上げて、開けてみる。案の定、凶だ。この寺のおみくじは凶が出やすいことで知られている。と、さっき張り紙で知った。健康欄には、危険。十分に注意せよ。などと記されている。こんなタイミングでなんという御仏託だ。
「これは僕が引き受けます。ササキさんはそっちを使ってください」
「使うって、おみくじってそういうもんだっけ?」
 仏様もノーとは言うまい。とにかく、僕は彼女の不安を取り除きたいのだ。ちょっと反則でも良いじゃないか、と思う。減るもんじゃなし。
 彼女は僕から受け取ったおみくじをしゅるしゅると開き、一瞬、目を見開く。そうだ、それはただの吉だが内容は悪くない。とくに健康欄は最高に良い。
「吉は実は一番良いらしいですよ。大吉より上という説もあります」
「――チノくんごめんね。ちょっと、ちょっとだけ待ってもらっていい?」
 おみくじをまじまじと見ている。あ、しまった。おみくじには出産欄とかもあるな。なんて書いてあったか思い出せない。余計なことが書いてなければ良いが、裏目だったか。
 彼女は手を拝むようにして指におみくじを挟んで、じっと黙っていた。やはり、手術の不安があるのだろう。実は出歩ける容態ではなかったのかもしれない。それを無理に連れ出してしまったのだろうか。申し訳ないことをした。心なしか顔色が悪いようにも見える。息が荒い。ため息のような長い息も吐いている。体調が悪化しているのではないのか。
「あ、あのね。すんごい悩んでるんだけど、もうなんだか自分でもよくわかんないから言っちゃうけど、わたしねチノくんが大好きなので、それは知っておいてほしいんだけど、病気がどうなるかわかんないときに、そんなこと伝えるのも申し訳ないじゃん。だから言わないでおこうと思ったんだけど、いま言わないともう言えないかもしれないし、正直ちょっと手術も怖かったりするんだけど、知っててくれる人がいるだけでもよかったんだけど、これ言ってよかったのかな」
 彼女は笑顔で泣きながら、僕におみくじの恋愛欄を指して見せた。僕はおみくじごと彼女の手を握り、唇で応えた。彼女の唇は珈琲の香りがした。大丈夫。僕がいます。

波野發作(東京都江戸川区/48歳/男性/自営業)