「バイク・シンドローム」著者:渡邊菜奈花
私にはありふれた秘密がある。
それは不定期で突然やってきて、私の日常を少しだけ崩していく。
夢を見るのだ。バイクに乗って私を迎えに来る、高校生のままの元彼の夢。見つけて手を振ると、大きく手を振り返して、私の前にバイクを停める。私は迷わずその後ろに乗り込んで、元彼の少しぷにっとしたお腹をつかむ。元彼のふくれっ面を見るまでが、いつものルーティンだ。
元彼、楓はそんなにいいやつではない。日本人とイギリス人のクォーターだかなんだか知らないが、いつも女の子に囲まれて、高校生なのに女の先輩と飲みに行った、などとほざくとんでもない馬鹿野郎だった。なぜそんな馬鹿野郎と付き合ったかというと私の動機も不純で、初彼氏と別れた直後でひどく傷心していたからだ。結局、楓とは半年もたたないうちに別れたのだが。
夢に楓が現れるようになったのは、今の彼氏と付き合いだして一年ほど経った頃だ。
夢の中の楓は、私をバイクの後ろに乗せて颯爽と走る。夢の中だから、法定速度なんてない。風みたいに、びゅんびゅんバイクがうなりをあげる。何もかも忘れて、私は叫ぶ。バイクの音と楓の声が、セッションみたいに重なってくる。楽しくて、楽しくて、息が止まりそうになる。それなのに起きてから最初に浮かぶのは、いつも楓の不安そうな顔だった。何度思い出そうとしても、バイクに乗っている楓には顔がない。
その日も楓の夢を見た日だった。彼氏とデートの約束をしていた、確か八月の日曜日だ。
「葵、早く起きなさい!あんた今日出かけるんじゃなかったの?」
リビングから母の声がして、私は慌ててベッドから飛び起きた。実家暮らしというのは何もかも筒抜けで、大学生になったばかりの頃はひとり暮らしを始めた友達がうらやましかった。けれど三回生にもなると、将来この生活の気楽さから抜け出せるのか、逆に不安になる。
「げっ、もう九時半じゃん」
十時に調布駅に集合だと言ったのは私だった。板橋に住む彼はもう用意を済ませて家を出た頃かもしれない。
クローゼットを開けると、ピンとくる洋服がなかった。いつも前日にデートの服を用意しておくなんてことはしないけれど、それでもなんとなくはあれを着ていこうかな、と決めていたりする。お気に入りのワンピースを引っ張り出して、まじまじと眺めた。紺地に、茶色や黄色で花の模様があしらわれている。今の彼氏、勇輝はあまり服装に関心がない。別に反応を求めているわけではないのだが、なんだか今日はかわいい服装をする気分ではなかった。ワンピースを着て、思いっきり女になりきるのは、夢の中だけで良い。ワンピースを着たままバイクに乗る、おかしな夢ではあるのだが。
結局、白いブラウスにスキニーという至ってシンプルな服装を選択し、急いで化粧を済ませた。リビングを横切ると「朝ご飯は?」という母の声が背中に聞こえたが、「いらない」と返事をして家を出た。
家から西調布駅までは歩いて五分ほどで、走れば二分もかからない。勇輝と違って、調布駅までたったの一駅なのも救いだった。
調布駅に降り立つと、待ち合わせ場所にまだ勇輝はいなかった。時計は九時五十分を指す。勇輝はいつもぎりぎりにやってくる。もうすぐ三年になる私たちの間には確かな安らぎがあって、同時に何をしなくても一緒にいられるという、少しの気の緩さも目立った。
「ごめん、ちょっと遅れた」
息を切らして勇輝がやってきたのは、十時を少し過ぎた頃だった。
「いいよ、そんなに待ってないし」
日曜日ということもあり、「深大寺行き」と書かれたバス停には長蛇の列ができていた。深大寺に向かうには、この行列に並び深大寺行きのバスを待つか、隣の乗り場から吉祥寺駅行きのバスに乗り、深大寺入り口で降りる方法がある。私たちは比較的空いている隣の乗り場に並んだ。ほどなくして、「吉祥寺駅」と表示の出たバスがやってくると、案外すんなりと順番が回ってきた。
深大寺は、朝から参拝者で賑わっていた。境内にはたくさんの人が並んでおり、皆順番に手を合わせていく。中には手をこすり合わせながら、長いこと目を閉じている熱心な参拝者もいた。
「そんなに、叶えてほしいことがあるのかな」
何の気なしにつぶやいた言葉だったが、勇輝は不思議そうにこちらを見た。
「葵はお願いしたいことないの?」
お願いしたいこと、そう聞かれるとなかなか思いつかない。いつも、お寺に行くときは家内安全とか無病息災とかありきたりなことを願う。
「お願いかぁ。お金持ちになりたいとか?」
笑いながらそう言うと、勇輝も同じように笑ってくれた。
「いや、ここ縁結びで有名なお寺でしょう」
そうなんだ、といいかけて慌てて口をつぐんだ。深大寺に行きたいと言ったのは私だ。御朱印集めが趣味の私のために、勇輝はいつも人気のお寺や神社を探してくれる。最初はその優しさに感動したものだが、今となっては改めてデートスポットを考えるのが面倒で、お寺巡りがスタンダードになっている。
深大寺も、勇輝が探してくれたお寺から、私が適当に指定したものだった。しかし、選んでくれた勇輝に対して、お寺のことを何も調べていないのはあまりにも適当すぎる。
「あ、そうだったね。でも、ここでお願いを言っちゃったら叶わないんじゃないの」
勇輝の期待している答えを言いたくなくて、私は少しひねくれたことを言った。これからも一緒にいられますようになんて、願わなくてもいい。私の日常はいつも決まった枠の中にはまっていて、自由なようで、そこから抜け出すことはできない。自分で決めた枠に自分から飛び込むしかない。皆そうやって、少しずつ将来を定めて、大人になったふりをしているのだから。
「そうだね。お互い秘密にしておこうか」
勇輝はいつものにこにことした笑顔で私を見つめた。彼は気がついているのだろうか。それとも、わかったうえで知らないふりをしているのだろうか。小さな枠の中で幸せを感じている自分を思うと、あまりにも哀れだ。だから私たちは、その枠に気付かないふりをして、井の中の蛙になりきっているのかもしれない。
長い参拝者の列を横目に見ながら、私たちは先におみくじのある方へ向かった。普通のおみくじのそばに、花みくじやだるまみくじといった変わり種が置いてある。そういえば、深大寺入り口から境内まで歩く間にもだるま屋が目立った。どうやらこの辺りはだるまが名物らしい。
せっかくだからと、だるまみくじに手を突っ込む。包装を剥がすと、中にはおみくじとだるまの説明書き、それとオレンジの紙に包まれた小さなだるまがあった。包みを開くと、桃色のだるまが顔を出す。説明書きには、『諸縁吉祥』『良縁達成』の文字があった。
意外だった。桃色のだるまなのに、恋愛成就ではないのだ。
良縁達成とは、いい縁を結んでくれるという意味だろうか。それとも、今ある縁を――勇輝との縁を、全うするという意味だろうか。
隣から勇輝が桃色のだるまをのぞき込む。顔のないだるまを見るのが初めてだったのだろう、笑顔が一瞬固まったのがわかった。
ふと、夢の中の楓が脳裏に浮かぶ。顔のない楓。顔のないだるま。
ああ、そうか。
バイクに乗った楓は自由だった。不安そうな表情をするのは、いつも私をバイクから降ろした後だ。今にも泣きだしそうな顔で頭をなでて、私を日常に置いていく。
楓はだるまだったのだ。自由でいると顔がない。現実を見据えた途端に、頼りない姿形で現れる。
私は、現実が怖かったのかもしれない。
「これからどうする?」
勇輝の声が頭の芯に響く。手のひらにある小さなだるまが、私を試そうとしていた。
渡邊 菜奈花(岡山県倉敷市/21歳/女性/学生)