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「たまには、雨の話でもしましょうか」著者:トクロンティヌス

 ある夏の日、「地元の大師様で厄除け祈願したい」という妻の要望に応えて、私は初めて深大寺に来ることになった。夜勤明けの妻よりも先に到着した私は、一人、辺りを散策する。七月になったばかりの心地良い風が吹いて参道の木々を揺らすと、地面に映る影が何かの模様のようにゆらぎ、それに呼応するように門前の店先で風鈴がチリン、チリンと二回鳴る。目的の元三大師堂や深沙堂を回って少し歩き疲れた頃に、釈迦堂近くの蕎麦屋に入ると、さすがは名物といったところか、入り口の椅子で順番を待つことになった。
十分ほど経っただろうか、さっきまでの青空が嘘のように、ぽつぽつと雨が落ちてきて、気づくとそれが銀色の糸のように連なっていく。
「えー雨? どうしよう傘持ってないのに。雨なんて大嫌い」
 自分の前で待っていた二人組の、十代くらいの女性がぶつくさと文句をたれている。それを、三十代くらいだろうか、もう一人の女性が少し困ったような、どこか特徴的な苦笑いをしてやさしく見守っている。長く艶のある黒い髪を後ろで結い、落ち着いた様子の眼鏡のその人は、「ふふっ」と今度は何かを思い出したように小さく笑い、こう続けた。

「たまには、雨の話でもしましょうか」

 私もその二人組も自分の席について、それぞれ深大寺そばを注文した後で、少し後ろめたいとは思いつつも、「雨の日って、昔の話をするのに都合がいいのよね。特にハッピーエンドではない恋愛話とか」という彼女の話に耳を傾けた。
 彼女の初恋は中学二年生の頃で、相手は一つ年上の同じ部活の先輩。まるで典型的な少女漫画のような展開を彼女が話すと、連れの若い女性がきゃぁきゃぁと反応している。
「日向瀬(ひなたせ)先生は、その初恋の人と結婚されたんですか?」
 テーブルに運ばれてきた蕎麦に箸を運ぶこともそこそこに、若い女の子が女子トークというのだろうか、ずけずけと踏み込んでいく。日向瀬と呼ばれた彼女は、またどこか儚げな苦笑いを浮かべて、左手の箸をそっと置く。その薬指には鈍い銀色の光が見える。
「まさか。夫とは大学のときに知り合ったのよ。それに――」
「それに?」若い女性は興味津々で聞き返す。
「こう言ってしまうと私がおかしな女に聞こえてしまうかもしれないのだけれど、その彼と付き合っていた頃にね、私、片思いしていたのよ。別の同級生の子に」
 驚いて「ええ!」と大声を出した若い女の子と同じく、私も思わずむせて蕎麦を吹き出してしまう。二人組は大声にびっくりしてむせたのだと思ったのだろう、私に向かって「……すみません」と小さく謝る。うしろめたさを感じながら、私は小さく会釈で応える。
彼女の話はゆったりとしながらも、途中で澱むことなく続いていく。急な大河ではなく、いつもの道端にひっそりとあって、ゆっくりと流れていく野川のように。
途中、私の携帯電話が鳴り、妻から『調布駅に着いたけど雨が降っているから、コンビニで傘を買ってからバスに乗る』とメッセージが届く。どうやら妻の到着までもう少しかかりそうなので、深大寺ビールに口をつけながら、引き続き彼女の話に意識を寄せる。
「……でも、日向瀬先生くらいの美人が片思いって何か意外かも」
「そんなことないわよ。何度もふられたし、お付き合いしても、すぐにお別れしたり。今日のミキちゃんみたいに深沙堂(じんじゃどう)で縁結びのお祈りしたこともあったかしら」
「あ、そうか。先生も調布出身でしたね……で、どんな人だったんですか、その想い人」
 私は店の庭にある小さな池の水面がゆらゆらと円形に動くのをぼんやりと眺めながら、きっと彼女はまたあの困ったような苦笑いをしているのだろうと考えていた。
「その人はね、小学校の頃から同じ学校で、陸上をやっていて、都大会では――」
 話す声がほんの少し高くなって、抑揚のリズムがさっきまでと比べて、より鮮明になっていく。まるで自分の恋の物語を音楽に乗せて歌うように(cantabile)。
――ああ、きっと彼女は〝まだ〟その想い人のことを想ったままなのだ。例え、当時の初恋が破れ、その後でいくつもの恋愛を経験して、今は結婚しているとしても、当時のまま、寸分も色褪せることなく。
おそらく同じことを感じているのだろう、さっきまでは相槌の声が大きかったミキという若い女性も、今はただただ目の前の、十代の乙女のように恋を語る日向瀬の言葉を静かに聞いている。
「その人はとにかくカッコよくて、何というのかな、凛としているというか……」
「みんなのリーダーみたいなタイプだったんですか?」
「そうね。実際、小学校の時も、中学校の時も生徒会の副会長をしていたのよね。二回とも『副』だってことに怒っていたのを覚えてる」
 まるで少女のように無邪気に笑う日向瀬の姿に、嬉しくなったのだろうミキもいつの間にか笑顔になって聞いている。
「……仲よかったんですね、その人と」
 ミキの言葉に、日向瀬は一瞬びっくりしたような表情を浮かべた後で、またあの困ったような苦笑いを浮かべ、今度はいつもの調子で答える。
「まさか。小学校と中学校で二回も同じクラスになったけど、直接二人で話したことなんてないのよ、ただの一度も。さっきの怒っていたというのも、みんなの前でそうしていたのを見ていたから……」
 バツが悪そうに「ごめんなさい」というミキに、日向瀬は「なんでミキちゃんが謝るのよ」と、またあの困ったような顔をする。
「……そうだなぁ、一度だけちゃんと話したことがあったかも」
 会話の続きを話し出すきっかけを掴めずにいたミキに、優しい顔をした日向瀬の言葉がふわりと――夏風に舞った木の葉が地面にそっと降り立つようにふわりとかかる。
「学校の社会科の授業でね。私たちの班は、この深大寺のことを調べることになって、その人の班もたまたま同じように深大寺のことを調べていて……」
 下げられた蕎麦の膳の代わりにテーブルに置かれた珈琲を口につけて、日向瀬は、一拍、息をつく。ミキは自分の珈琲カップを両手でもったまま、何も言わずにじっと聞いている。
「結局、二つの班で一緒に調べものをしているうちに、深沙堂の縁結びの話になってね。そういうのに一番興味のある頃だったし、じゃぁみんなで恋愛成就のお願いしていこうってなったのよね。それで、その人と隣になってお祈りして」
 日向瀬は優しい表情でそう言うと、冷たい珈琲のグラスを空ける。
「なんかいいですね、そういう思い出……あ、でも何で『雨の話』なんですか?」
「……その日もちょうど今日みたいに突然雨が降ってきてね。その人が、『もっとこっちに来ないと、濡れてしまうよ』って私を抱き寄せてくれたの。相手からすればただの善意なのだけど、私、その日は何も食べられなかったくらいにどきどきしちゃって。でも、その後どうなるわけでもなくて、だから、これはただの『雨の話』……っと、もう雨も上がったみたいだし、そろそろバスで帰りましょうか」
 そう言って二人が立ち上がると同時に、私の携帯がもう一度鳴り、妻から『バス停着いたから、山門のところで待ってて』とメールが届く。二人組がすでに店の外に出たのを確認した後で、自分の伝票をもって立ち上がろうとしたその瞬間――私は雷に打たれたようにハッとなって、あることに気が付く。
 調布の小学校、中学校、陸上の選手、都大会で表彰されて、二度の生徒会の副会長――調布には縁もゆかりもない私が、何故かこの人物に心当たりがあるのだ。ごく身近に。
現実は恋愛小説や少女漫画のようにはいかなくても、深沙大王の導きなのだろう、その十数年前の二人が、今、まさにこれからバス停から山門までの短い参道ですれ違うのだ。その想い人の姿にきっと日向瀬は気づくはずだ。そして、声をかけることもなく、通り過ぎていくその人をただ見送る。日向瀬のずっと秘めた彼女への想いは、きっとこれからも誰にも明かすことなく秘めたまま続いていく。あの困ったような苦笑いと一緒に。

「誰かとすれ違ったかい?」
私は深大寺の山門で、到着した妻にそう尋ねる。
「何のこと? 観光客ならいっぱいいたけど。それより急がないと受け付け終わっちゃう」
 そう急かす妻の明るい声に、私はあの困ったような苦笑いを思い出していた。確かにこれは、何気ない日常にほんの少しの変化を与えてくれる――『雨の話』なのだ、と。

トクロンティヌス(鹿児島県鹿児島市)