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「一目見たときから」著者: 蜂峰アメ子

 後ろ姿を一目見て、私はうわぁと胸中で顔をしかめた。
 前に並んでいたその彼は、御朱印帳を受け取ると、そのまま本堂の方に向かってしまった。その後ろ姿をなんとなく目で追いながら、私は朱印所の人に御朱印帳を渡した。東京の調布市にあるこの深大寺は、茶屋だの蕎麦だの栄えているだけあって、御朱印の種類も色々あるらしい。無量寿、白鳳仏、元三大師……七福神の毘沙門天なんかも貰えるようだ。一つ五百円。私は少し悩んで、白鳳仏の御朱印をお願いした。どういう意味かはよく知らないが、なんだか字面がかっこよかったのだ。全部の種類をお願いする人もいるらしいが、ケチな私には無縁の話だった。五百円でも惜しいくらいなのに、そんな贅沢できなかった。
朱印所の人は、さらさらと「白鳳佛」の文字を書いていく。連休や正月だと、混雑しているからすぐには書いてもらえないらしい。しかし、幸い今日は平日。あっという間に御朱印帳は帰ってきた。私はついているようだ。朱印所の人に礼を言い、さあ帰ろうと振り返ったら、本堂でお参りをするさっきの彼が目に飛び込んできた。
 そうか、そうだよね。ちょっと近くに寄ったからと、スタンプラリー感覚で御朱印をもらいにきた私だが、本来寺社とは神とか仏を祀る場所だ。尊い存在が宿っている場所なのだから、お参りするのが礼儀だろう。
 私は本堂へ向かった。さっきの彼は、手のひらを合わせ、なにかを願うように軽く頭を下げている。長め前髪がお辞儀に合わせてサラリと揺れた。私はそんな彼を見て、またモヤァとした気持ちになった。
 最近多いよな、ああいう髪型の男の子。マッシュヘアとでもいうのだろうか、前髪を目の上ギリギリに切りそろえて、キノコのカサみたいに丸く仕上げるあの髪型。ああいう髪をしたヤツはセンスがいいみたいな顔をして、イケてるメンズを装っているが、実際のところ隠しているだけだろう。のっぺり顔に埋もれている主張の薄い小さい目を。特徴のない青白い顔を前髪で半分埋めているだけだ。別に彼の顔とかどうでもいいけど、その浅はかな見栄の張り方が、なんだかちょっとモヤモヤするのだ。
 私は彼の横に立った。一礼し、パァアンと手を合わせ、目を瞑る。まぶたの裏を見た瞬間、私は自分が犯したしくじりに気づいた。
 やってしまった。ここは寺だ。参拝するとき手は鳴らさない。
恐る恐る目を開けると、視界の隅にこちらを見ている彼がいた。胃が急にしまって腹痛がする。風が一陣強く吹いて、ムクロジの枝を揺らした。カサカサと鳴る葉の音が、私を笑っているみたいだった。叩いた手のひらが熱い。さっき強く叩いたせいだ。耳の先もなんだか熱い、これはきっと、風が涼しいせい。
 大丈夫、相手は他人。私のことなんかどうとも思ってないはず。
 決めつけた私は、思い切って隣に顔を向けた。しかし、件の彼はもう隣にはいなかった。黒いニットの袖を振り、手水舎の脇を抜け、石畳の階段を登っていく。折り返したチノパンの裾から、ちらりと細い足首が覗いた。
 なんであんなに袖が余っているのだろう。そんなに手を隠したいのか。手の甲に世界の秘密でも刻まれているのだろうか。逆になんでズボンの裾はちょっと短くしているんだ。足首は見せびらかしたいのだろうか。
 思うところは多かったが、私の興味は彼が向かった場所の方に注がれていた。
 あちらの方に何かあるのだろうか。あったとしたらどんなものか見てみたい。せっかく来たのだから、いろいろ見て回った方が得だろう。境内を見るだけならお金はかからないし、交通費分のもとはとっておきたい。
 私は、彼が消えて行った石階段へ向かった。薄く色づいた紅葉の枝が階段に屋根を作っている。軽い足取りで登っていくと、待っていたのはお堂だった。案内看板には元三大師堂と書かれている。年季が入った建物は、本堂と比べると少し小さいが、佇まいは堂々としたものだ。屋根の形が格好いい。思わぬ出逢いに感激しながらお堂を眺めていると、ちょうどお参りを終えたのか、本堂の前にいた彼が振り返った。丸いレンズ越しの瞳が、私の目線と一瞬ぶつかる。その瞬間、私の胸はまた渦巻いた。
 でた、あの眼鏡。最近流行っているらしい、レンズの大きい丸いメガネ。芸能人もこぞってつけるお洒落人のマストアイテム。なんでも、眼鏡のレンズが大きいおかけで相対的に顔が小さく見えるらしい。はあ、そうなのか。よくわからないが、三十年前にあんなものをかけていたら、野暮ったいと髪の毛を引っ張られそうだ。センス云々はよくわからないが、わたしには、アラレちゃんのコスプレにしか見えなかった。
 彼がこっちを見ていた気がしたので、私は慌てて目をそらした。
 危ない危ない。アラレちゃん眼鏡なんてかけるやつだ。目があった瞬間、「んちゃ」と軽率に吹き飛ばしてくるかもしれない。
 慌ててそらした視線の先には、絵馬掛所があった。山門に入って左手にも同じようなスポットがあった気がするが、こっちにも設置してあるらしい。気になったので近づいてみる。吊り下げられたたくさんの絵馬には、それぞれいろんな願いが書かれていた。学業成就や厄除けが多かったが、恋愛成就や縁結びについて書かれている絵馬もちらほらあった。
 縁結びか。インターネットで見た気がする。確か深大寺には、人の恋愛を取り持った神様が祀られていると書いてあった。そういえば彼も結構熱心にお参りしていたが、もしかして縁結びが目的なのだろうか。
 彼のことを思い出した私は、辺りを見回し、あの忌まわしいファッションを探した。しかし、彼の姿はどこにもなかった。お堂の周りをぐるっと回って見ても、彼は見つからない。開山堂に続く山道の階段や、仏像が展示してある釈迦堂の方まで見に行ったが、結局彼には会えなかった。それでも私は、釈迦堂で御朱印帳に書いてもらった白鳳仏が見られたので結構満足していた。いや、そもそもあんないけ好かない男のことなんかどうでもいいのだ。なんでこんなに一生懸命探しているんだ私は。
 私は釈迦堂の出口側の階段を、ゆっくりとした足取りで降りた。そのまま本堂の方に向かっていくと、左手に、竹の柵で囲まれた池が見えた。木々の織りなす紅葉と、青々とした水草のコントラストが気になって、私は池に近づいていった。柵から池を覗き込む。深い色の水面に、朱色に染まったカエデが一段と映えている。池の周りの景色が、鏡のように水面に映っていた。わかりやすく華美な景色ではないが、しみじみと心が落ち着く空気感がある。涼しい風が私の頬を撫でた。池の方から吹いてきたのか、少し水の匂いがする。風が水面に波紋を作った。その波が池のどこまで伝わっていくか、私はぼうっと眺めていた。しかし、不意に聞こえた足音に、全ての意識が奪われた。
 彼だ。本堂の方から歩いてきた彼は、何を思ったのか私の隣で足を止めた。そのまま私と同じように、池の景色を眺め始める。
 予期せぬ再会に、私の心臓はドクドクと嫌な音をたてる。さっきまであんなに波立っていた水面が、今はやけに静かだ。冷えた鏡のように黙って景色を反射している。それがなんだか腹立たしかった。彼は私のことなんか気にもせず、池をじっと眺めている。そうかと思ったら、突然背負っていたリュックを漁り始めた。背中が余る小さめのリュックだ。使い古した筆箱とか、茶渋がついた水筒とか絶対入ってなさそうだ。一体何を取り出すのだろう。夢と希望しか入らないだろそのサイズ。もしかしてあれか、文庫本か。私は知っているぞ、この手の格好をした男子は、大抵読書が趣味だということを。好きな作家は太宰治、人間失格は人生のバイブルとか言い出すのだ。恥の多い生涯を、てか。お前の眼鏡の方が恥ずかしいわ。
 と、胸中で悪態付いたが、彼がリュックから取り出したのは、ただ携帯端末だった。その板切れを横に構えた彼は、端末のカメラを池の方に向けると、カシャリと一枚写真を撮った。画面をタップして写真の出来を確認してする。そして、その出来に満足したのか、画面の光を落とすと、すっとリュックにしまった。
 そのまま彼は行ってしまった。私のことなんか気にも止めず、山門の方に向かってしまった。
 あんなに鳴っていた心臓が、コトリと静かになった。そのかわり、激しい後悔が私を襲った。口の中に苦いものが広がる。池の水面は相変わらず静かだった。
 仏の顔に四度目は無いという。チャンスの女神に後ろ髪はないという。では、神と仏に見放され、絶好の機会をみすみす逃した人間は、一体何に縋ればいいのか。
 私の足は授与所に向いた。縁結びの御守りが急に欲しくなったのだ。その御守りが一体いくらか知らないが、野口二枚くらいなら飛ばしてやってもいいだろう。

蜂峰アメ子(埼玉県)