「コバルトの海で」著者:雪野きりん
男が口を開いたとき、そのことばは音を介してではなく、まるで空気のように私の内面に直接流れ込んできた。
「悪いけど、ツケにしてくれないか」
空中に漂う、眼には見えない呪文や怨霊や何か悪意に満ちたものを飲みこんでしまった。
男の声はそう思えるほどに聞き取りにくく信じがたい内容でもあった。
レジの前の私は固まった。
大学に入ってから両親の経営するこのそば屋を手伝っているが、今日まで二年間そんなことは言われたためしがなかった。深大寺境内にあるこの店「つかさ」は味と伝統を受け継ぐ格式あるそば屋なのだ。私はずりおちてくる黒縁のメガネをきちんとかけ直した。
「いいわよぉ、タマコぉ」
母が野太い声が座敷の奥から聞こえた。せわしなく出たり入ったりする客たちの対応をしたり、テーブルの上を片付けたりしながら、話の内容はきちんと聴いていたらしい。一応、厨房へ眼を向けたけれど、父は麺を茹でたり盛り付けたりと走り回っている。
私は改めて目の前の男を見た。真夏のうだるような暑さの中長袖長ズボンのつなぎを着ている。よほど洗ったためかもともとそうなのか青とも緑とも言えない微妙な色合いだ。頭は短髪なのにところどころくせがついている。髭はもう何日もあたっていないようだ。埃と汗が混ざったような臭いが鼻をつく。
この人、日雇い労働者かなにかかな…
このまま人のいい母の言いなりになって、無銭飲食の片棒を担ぐことになっていいのか。自分の背中に白いTシャツがじっとりと張り付いているのがわかる。
「なぁ、いいんだろ」
男は引き戸に手をかけ、今にも店を出て行こうとしている。「ちょっと、待って下さい」
とっさにレジの上にあったメモ用紙を男に押しつけた。名前と住所、連絡先を書くように迫ると、男は素直に従った。
昼の最後の客が店を出ると、私は店ののれんを下げた。母が近寄ってきて
「さっきのお客さんさ、最近よく来る人でしょ。大丈夫よ。きっとお財布忘れただけよ」と私の肩をポンと叩いた。
それは私もわかっている。あの人は店に来るといつもまずそばがきを頼む。そばがきを食べながら日本酒を飲むときもある。それから盛りそばを頼んで、帰りにそば粉を必ず買って帰るのだ。よほどそばが好きで家でもそばを打って食べているのだろうか。
おそば屋さんをやりたくて修業しているんじゃないの? 母がなぜか嬉しそうに吹き出した。そうかな。ただの日雇い労働者だよ、あの風貌は。先ほど男が残していったメモに目を落とす。それは強い筆圧で書かれていた。何それ。母が私の手から紙きれを取り上げる。あの人の名前と連絡先。鬼怒川? 鬼怒川っていうの、あの人? 母が甲高い声を上げた。名前は上の姓だけが書かれていた。住所もきちんと書いてあるから偽名ではないと思うけど…。住所は深大寺元町…、この店のすぐ近くだ。母はエプロンを外した。これから鬼怒川カツさんの新盆に行くんだけど、この人、孫のダイちゃんじゃない? 誰? うちのおばあちゃんが仲良くしていた近所のおばあちゃん。うちのおばあちゃんとは父方の祖母の司栄子で、三年前に他界するまでこの店で働いていた。カツさんは今年一月に亡くなったの。それで初めてのお盆だからお参りに行くの。確かダイちゃんって孫と一緒に暮らしていたと思ったけど。もうだいぶ前の話だしね…。とにかく、あんたも一緒に来なさい。は? ほら、もしホントにダイちゃんだったらお線香あげに来るかもしれないでしょ。そしたら今日中に売上げ回収できるじゃない。レジ係として最後まで責任もってやりなさいよ。
へ? 言いたいことは山ほどあったが、黙ってついていくことにした。
薄っぺらな板に白い布をかけただけの間に合わせの仏壇にお線香をあげると、ほの暗い小さな部屋一帯に独特の香りが広がった。菊がこんもりと入った大ぶりの花瓶が仏壇の両脇に飾られている。日本酒や羊羹のようなものも供えられている。その羊羹は深い青の色をしたガラス製の四角い器の上にちょこんと飾りのようにのっていた。光の反射のせいか、羊羹は青く光って見えた。
「こちらへどうぞ」という声がして、母と私はとなりの和室に通された。茶飲み友達だったという近所に住むおばあさんがお茶を入れてくれた。話は生前のカツさんの様子や思い出話から自然とその孫でカツさんに育てられたという男の子の話になった。
「あー、あのダイちゃんねぇ、まだ小さいときに親がふたりとものうなってぇ、カツさんがひとりで育てたんだわ。最近は全然見かけんかったけど、さっきひょっこり来たんだよ。今はなんて言ったかな、アート、アートなんとかって、とにかくガラスでなにかを造っているんだわ。あの仏壇に飾ってあるねぇ、そばがきと、お酒飲むおちょことかいろいろ持ってきてね。そばがきもダイちゃんが自分でこさえた、っていうんだから大したもんだぁ。あ、いっぱいあるから、今もってくるから」
どこの地方の出身なのか、おばあさんの話し方には独特のイントネーションがあった。
おばあさんはお皿にそばがきをのせてもってきてくれた。そばがきはキラキラと輝き、箸を入れるとプルンと揺れた。口に入れるとしっとりとした食感が心地よく、そばの香りが鼻腔をすうっと通っていった。
「カツさんは海が好きでねぇ、昔は海女やってたから。あとお酒ね。そいでそばがきはダイちゃんがまだ小さいときにおやつによくあげてたみたいなんだわ。」
私は仏間にもう一度戻った。羊羹だと思っていたものはそばがきだったのか。そばがきも重厚感のあるガラスの器もみんなあの人が造ったなんて。さっきまでここにいてカツさんを想いながらお線香をあげていたのだろうか。あの図体のでかいつなぎを着た人が祖母の新盆のために準備をしていた。うちで買ったそば粉を使って自宅でそばがきの試作を何度もしていたに違いない。店に来てはそばがきの味を自分の下で確かめて…。
ごつごつとした青い器を手に取ってみた。当初から私が彼に抱いていた先入観は既に吹き飛んでいた。かわりに胸の奥の方に、なにかあたたかいものが流れるのを感じた。
店に戻る途中、風が強くなりだした。
夜の最後の客が店を出ると、私は店ののれんを下げた。そのとき強い突風に煽られてのれんがバタバタと暴れた。思わず手を離しそうになった。大きな影が頭上から覆いかぶさってきて、のれんを押さえつけた。
「あ……」一瞬開いた口が止まった。その影は鬼怒川氏だった。店の引き戸をきちんと閉めてから「これ、返しにきました」と、茶封筒を差し出した。彼は昼間のつなぎ姿ではなく黒のスーツを着ていた。髭もきれいに剃られていた。彼は今までは年齢不詳だったがこうして見ると歳は三十前後かな、と私は頭の片隅で思った。母は中身を確認して、封筒を捧げるように持ってお礼を言った。
「ご丁寧に、ありがとうございました」
「それから、これ」
鬼怒川氏はスーツの内ポケットから短冊型の紙を取り出した。
「展示会のチケットなんですが、よかったら」
口の中でぼそぼそいう話しかただった。
私は黙ってチケットを受け取った。
‐コバルトの器展‐
~ガラス・アーティスト鬼怒川大介の世界~
カツさんの仏壇にあったあの青い器をパステルで描いたような挿絵が目に留まった。
「そばがき、美味しかったですよ」
背後から母の声がした。
「鬼怒川カツさんの新盆に今日行ってきたんですよ」
彼は硬い表情を解いた。それから、自分が海外にいたためにカツさんのお葬式に参列できず、それをずっと気にかけていたこと、新盆に向けてコバルトガラスの作品を造ったらそれが思いのほかたくさんできたので展示会で発表することにした、と何か悪いことをしてしまった子供が告白するときのように俯きがちに、ぽつりぽつりと話した。
「展示会は明日からなんですが、ばあさんの家に行ったあと打ち合わせがあって…。遅くなってすみませんでした」
彼は頭を下げてから、店を出て行った。
外では風が一層強く吹き荒び、深大寺の大木の葉ひとつひとつが重なり合い大きな音となってあたりに響いていた。
鬼怒川氏が店を出て行ったあと、母は私の顔を見て、大笑いした。
「ガラス・アーティストだって。全然そんな風に見えなかったねー。けどスーツ着たらけっこうイイ男じゃん」
誰に照れているのか、私の肩をバンバン叩いた。私は棒きれのようにその場に突っ立っていた。右手に握りしめていた少し皺になったチケットを広げてみる。「昼間はちょっと急いでて、…悪かったね。展示会、よかったらおいでよ」去り際に言った彼のことばが耳の奥に染み入っていた。明日、自分が展示会に行くことを想像してみる。彼が黒のパリっとしたスーツ姿で出迎えてくれる。よく来てくれたね、と私の肩を優しく抱く。私は、どんな格好をしているだろう。クローゼットに眠っている久しくお目にかかっていないピンクのスカートを思い浮かべた。いや、シックな印象の水玉のワンピースがいいだろうか。そうだ、コンタクトも用意しないと。一瞬のうちにあれこれ考えている自分に気恥ずかしさを感じながらも妄想は止まりそうもなかった。
その夜、風はいつまでも強く鳴っていた。
雪野きりん(東京都府中市/39歳/女性/主婦)