「ふたえの恋語り」著者:山田夏蜜
この白い空間が、僕との呼吸を圧迫する。
僕だけがふくらんで部屋いっぱいになっているのか、新居が僕を飲みこんでしまいそうなのか。
最後の関係者に電話をかけて、その人に居心地の悪い声で励まされたあと、ようやく僕は僕の孤独から解放された。
独りになってしまえば、存在の単位は「ひとり」でも「孤独」ではない。
これから結婚するはずの、好きな人のとなりにいるときがよっぽど孤独だ。
理解していると思いこんでいるとき。
笑っているからと安堵しているとき。
ふたりの隙間から、やがて突然「破談」が顔をのぞかせ、僕がうろたえている間に、恋人は消えた。
引っ越し日である今朝、彼女は姿を見せず、代わりに女友達だという人が手紙を持って現れた。
他に好きな男がいて、実は何年も片思いで、その男とは結ばれることはないが、あなたとも結ばれるわけにはいかない、やっぱり結婚できない、ごめんなさい、という内容が短く書かれていた。
こんな役目嫌なんですと言って、女友達はさっさと帰ってしまった。
引越し屋のトラックがアパートに到着するまでの間、僕はのべっとした表情で、ひたすら残りの荷造りをした。
鏡を見なくとも、自分がどんな顔をしているか気味悪いくらいわかった。
むしろ感情が揺れすぎて針がふっ切れた状態だったのだと思う。
これから二人暮らしをするはずで、落ち着いたら入籍するはずで、そうかあ、結婚前に同棲したほうがいいって聞くけど、こんなふうになるんなんてなあ。彼女のモノなんて少ないから、新居で処分するか。ああ、結婚するって言っちゃったよ、親だろ、後輩たちだろ、あと会社のチームと上司。ばあちゃんにもだ。なんてやっかいなんだ。
僕は頭のなかで、ぶつぶつと、とめどなくひとり言をしゃべる。思考の壁の内側に、言葉があふれかえって行き場を失いみるみる腐っていく。
新居に完全に荷物と自分がおさまるまで、それは続いた。
そうして、最後の連絡を終えた今、頭のおしゃべりがようやく止んだところだった。
連絡したのは上司だった。
こっちでうまく説明しておくから、お前は休暇を一週間に延ばして休めと告げられた。
素直に「はい」と返事をして、ケータイの通話終了ボタンを押すと、新居全体が沈黙した。僕を圧迫する感覚もなくなった。
僕は、とりあえず布団だけを床に広げ、疲労と眠気とを抱いて、ひたすら眠った。
別れた彼女は、夢に現れなかった。
ひどく深い眠りだったようだ。
一晩と半日以上眠って、ようやく僕はこの部屋で暮らすために「目覚め」た。
夕暮れが間もなくやってくる。
ふたりの収入で家賃を払っていけるマンションで暮らす、という選択が、今は痛いだけだが、僕はしばらくがんばってみようと思っている。それがささやかな抵抗あるいは自分への罰のような気がする。
休暇三日目にして、ばあちゃんから手紙が届いた。実際には実家に届いた手紙を、母が僕に届けてくれたのだが。母に様子を見に行かせようとする、ばあちゃんのテである。
「ここでやっていくって決めたんなら、それでいいんだよ。しっかりね」
母は多くを僕に尋ねることなく、乾物の食材やインスタントラーメンなどを置いて帰って行った。
「ばあちゃんも母さんも似ているよな」
僕はつぶやきながら、片づかない2DKの居間で、ばあちゃんの手紙を読み始めた。
前略
連絡をもらって、すぐこれを書いていま
す。電話じゃうまく言えないためです。
あなたの住むところを電話で聞いたとき
から、映画のように思い出しています。
私は本当は、二十歳そこらで終わる人生
でした。調布で生まれて、調布の暮らし
を愛でながら、婚約者となる方とも出会えました。
ところが病弱な私はある病気を発し、婚約したまま時間だけが過ぎゆきます。私は手術を決意しました。術後命がもたないと医者から告げられても、手を尽くさず死ぬ日を延ばすのだけは嫌でした。
入院の数日前、私は婚約者に連れられて深大寺に行きました。(あなたの新居から近いところにあるお寺です)広い散策路は身体が辛く歩けません。山門のところで、私はかなり年上の彼に、婚約解消を申し出ました。最期のあがきの前に、彼を自由にしてあげたかったのです・
彼は、
「お寺におられる神さま仏さまが、もう君の本当の願いをきいてくださった。生きたいという願いだ。どうしても別れようというのなら、退院した君にもう一度出逢おう。自分はもう一度、君に恋をするよ」と言ったのです。
私が今あなたの祖母でいるということは、私に奇跡が起きたからです。深大寺に延命地蔵があると知ったのは彼が亡くなったあとでした。あの日急に深大寺に行こうと誘ったのは彼のほうでしたから。
命拾いして、いよいよ結婚できるとなったとき、今度は彼が永遠に彼方の人となりました。運命を恨んだのは当然です。
だけど、あなたはあなたの運命を恨まないでください。
まだ、彼のような人に出逢っていないだけです。私はその後もうひとりの運命の人と結婚しましたが、あの恋心はずっと鮮やかに胸にあるのです。
草々
綾介様
僕の乾いた胸いっぱいに、慈雨がしみこんでいくようだった。
こんな話、母さんからも聞いたことがない。
きっとずっと秘密にしてきたことだったのだ。
お寺に連れて行ってくれた婚約者と結婚していたら、母さんも僕も生まれていなかった。
ばあちゃんの人生もまったく別のものになっていたかと思うと、つくづく人生が奇妙で、絡まった糸のように感じる。生涯、その糸をほどいて一本にしていくような感覚。そして、複数の糸を撚りあわせて太くしていくようなものだと。
深くため息をついたところで、腹が思いっ切り鳴った。
「腹が減ったな。ははは、腹が鳴って恥ずかしいや」
僕は空腹の底から笑いがこみあげてきて、それがおかしくて笑った。
夕食を食べに行こう。牛丼がいい。
僕はばあちゃんの手紙をなくさないよう、仕事の鞄にしまっておくことにした。
休暇の最終日、僕はすっかり整った部屋の写真を撮り、母さんの携帯にメールと一緒に送った。もう大丈夫だから、という証拠に。
本当はまだ、終わった恋愛と始まらなかった結婚生活のことをしょっちゅう考えてしまう。
休日の間何度も読み返している手紙をまた読んでいたら、ふと深大寺に行ってみよう、という気持ちになった。
明日から仕事が再開するし、チームのみんなと顔を合わせるのが辛いけれど、お寺のお守りでもあればいいかも知れない。
さっそく僕はアクセスを調べて出かけた。
ばあちゃんの言うとおり、それほど遠くではなかった。
手紙にあった山門……本物を目の前にすると妙にどきどきした。
ここで、ふたりは、互いの気持ちを重ねたんだな。
思えば、「もう一度君に出逢って恋をしたい」なんて、ものすごい告白だ。
僕にはそんな覚悟ができるだろうか。
あっ。そうか。
僕らには、覚悟が足りなかったんだ。
僕も、別れたあの娘にも。
不意に沸いた「答え」を、僕は静かに握りしめた。後悔も悲しみも、全部握りしめた。
それから、ばあちゃんが歩けなかったという散策路を歩いた。
さすがに疲れて、お堂近くの木陰で涼んでいると、見たことがある顔が横切った。
「あっ、立川さん!」
僕は思わず彼女を呼び止めた。
「えっ、あっ、先輩! びっくり!」
「会社のときの君とずいぶん違って、びっくりしたのはこっちだよ。今日は日曜日だもんな。お寺めぐり?」
「はい。えと、あの、休めましたか?事情はなんとなく……聞いてます」
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ」
僕は涙声を隠して返事した。
「先輩、おそば食べに行きましょう。深大寺そばって有名なんです。ね! 行きましょ!」
彼女は僕の腕をひっぱって、元気に歩き出した。彼女の笑顔も、その強引さも心地よく身体に響く。
でも、この心地よさがこの先ずっと続くのもいいな。僕は都合よく考えてしまう自分さえも、今は許そうと思った。
山田夏蜜(北海道札幌市/36歳/女性/フリーランス)