「薔薇の下にて」著者: 荻野マキ
ばあちゃんに薔薇を観に行こうと誘われたのは、例年より十日ほど早い、五月の半ばのことだった。大学入学と同時に、吉祥寺の実家を出て一年が経つ。待ち合わせ場所は、実家からバスで三十分の距離にある神代植物公園。薔薇園が見渡せるテラス席に着くと、不機嫌なばあちゃんがすでにイスに座っていた。
「遅い」
ゆるくパーマをかけた白髪に、銀の丸縁メガネ、菫色のカーディガン。ここ数年、オレが目にするばあちゃんはいつも変わらない。けれど、その姿が去年よりひと回り小さくなっていることに気づき、胸の奥がしんとする。
「ひとり暮らしは慣れたか、樹」
「……それ毎回言うけどさ、大丈夫だってば」
毎年、この季節には薔薇展が催されている。今年も例に漏れず、園内には狂ったように薔薇が咲き乱れていた。広大な敷地いっぱいに広がる、赤、ピンク、紫、白、黄の花々の海。そのなかにぽつんと作られた細い道を二人でゆっくりと歩く。オレが小学五年生のときに、ばあちゃんの誕生日にふたりでここを訪れてから、今年で十年めになる。
ふいに、ばあちゃんが花壇の前で足を止め、しゃがみこむ。視線の先には、濃いラベンダー色の大ぶりな花弁の薔薇があった。風にのって、甘い香りが漂う。ブルーリバー。ばあちゃんのいちばん好きな薔薇だ。
「なんで今年に限って早いの?」小さく丸まった背中に問うと、「今年は約束があってな」。 背を向けたまま、ばあちゃんがつぶやく。
「なぁ、樹。ずっと隠してたけどな、私はこの薔薇園に秘密がある」
口は悪いけど、根は乙女なばあちゃんのことだ。結婚前にここでじいちゃんとデートしたとか、薔薇のアーチ前でプロポーズされたとか、秘密といっても微笑ましいものに違いない。軽い気持ちで「なに?」と訊ねると、
「浮気しとった。よくここで逢い引きしてな」
予想外の答えに、オレはあぜんとした。
ばあちゃん曰く、相手も家庭のある人で、つき合いは十五年ほど続いた。お互いに既婚者であることは知りつつも、出会いは運命であり、恋に落ちる気持ちは止められなかったという(思いっきり不倫のくせに、なんでやたらと乙女チックなんだ?)。ただ、ばあちゃんの弁を信じるなら、「一緒に薔薇やらつつじやら梅やらを見て、お寺さんに詣って、蕎麦を食べる。一日中、カメを眺めてたこともあったな」というじつに清らかな交際だった。
「……それって、そもそも浮気なの?」
いまどき中学生でもしない、ピュアなデートの内容に疑問を感じてたずねる。
「心はあの人にあった。まぁ、じいさんにも相手がいたから、おあいこだな」
ーーじいちゃんも浮気してたのかよ。
予想外の展開にげんなりしながら、「いまも会ってるとか?」と恐る恐る訊くと、「十年前に姿を現さなくなって、それっきり」。
寂しそうにつぶやくばあちゃんの横顔に同情しつつ、心の底からほっとした。「墓まで持っていく話だからな。ほかのやつには秘密」
「……まだその人を好きなの?」
ばあちゃんは答えず、すました顔で薔薇の香りを嗅いでいる。その横顔を眺めながら、
ーーなんでよりによって、オレに話すかな。
こっそりため息をついた。
数日後、ばあちゃんが死んだ。朝、母さんが様子を見に行ったときには冷たくなっていたという。死因は心臓発作だった。心臓に持病なんてなかったのに。あっけなさに、オレも家族も悲しみを忘れて、ぽかんとしていた。
「形見分け、好きなのもらっていけ」
通夜や告別式がひと通り済み、下宿先に帰る準備をしていると、親父に声を掛けられた。荷造りもそこそこに、ばあちゃんの部屋のドアを開ける。ラベンダー色のカーテンが陽に透けて、部屋全体が淡い紫に染まっていた。
ベッドに文机、小さな本箱がひとつ。それらは生前と変わらぬ様子で、きちんと整頓されていた。文机には、ばあちゃんが愛用していたパーカーの万年筆が、行儀良く置かれている。手にとると、ずしりとした重みがてのひらに伝わる。これをもらうことにしよう。
本箱に視線を移すと、本の合間に見慣れたモロゾフの四角い缶が置かれていた。ガキの頃、ここにお菓子が詰まっていて、よくばあちゃんにもらった。懐かしさに駆られて、蓋を開ける。中身を見て、ぎょっとした。
下着だった。菫色の上下のセット。精緻な模様を幾重にも重ねたレースで作られたそれは、古びて薄く埃が積もっていた。ふいに、ブルーリバーの紫が目前によみがえる。そして、少女のように無邪気なばあちゃんの笑顔。目の前の下着との落差に、目眩がした。
下着の下には写真が数枚あった。指先で下着をつまみ、ベッド上に置く。写真の中には薔薇のアーチを背景に若かりし頃のばあちゃんらしき女性と端正な顔立の男がいた。余白には「Iと薔薇園にて」。浮気相手に違いない。
ーーこの下着を着て、逢い引きしてた?
ベッド上で死んだように、ぐにゃりとしている下着に目を向け、何とも言えない気持ちになる。写真は全部で十五枚あった。一九九一年からはじまり、毎年一枚ずつ、日付はすべて五月二十七日。ばあちゃんの誕生日だ。毎年、男に会いに行っていたのだろう。オレと出掛けたのはアリバイ作りのためだったのかもしれない。鼻の奥がつんとした。
不思議なのは、途中から二人の間に少女が写っていることだ。初めは中学生くらいだった少女は毎年成長し、二〇〇五年、二十歳頃で写真が終わっている。ちょうど、不倫相手が現れなくなった時期だ。
文机の上のカレンダーに何気なく目をやり、気がつく。明日は五月二十七日。生きていれば、ばあちゃんの六十一歳の誕生日だった。
「そういえば、今年は約束があるって……」
薔薇園での言葉を思い出す。あれは、どういう意味だったのだろうか。
ーー明日、薔薇園に行ってみようか。
ばあちゃんが最後にオレにだけ秘密を打ち明けた理由が、わかるかもしれない。
翌日、正午。薔薇のアーチ前で、オレは目の前に現れた陽炎をぼんやり眺めていた。炎天下のもと、ここに立ち続けてもうじき二時間になる。ばあちゃんの浮気相手どころか、園内に人の気配はない。暑すぎるのだ。
あと五分待って帰ろう。熱気で茹だった顔を腕時計に向けたとき、「笹原樹さん?」。
か細い声に振り返る。立っていたのは、三十歳くらいの黒髪の美しい女の人だった。
植物公園の深大寺に近い出口を出てすぐ、山の中腹にぽつんと一軒だけある蕎麦屋で、オレと女の人は向かい合っていた。
「ご紹介が遅れてすみません。水尾香子です。芳乃さんの恋人だった男の娘です」
目の前の女性、香子さんが深々と頭を下げる。オレも慌ててお辞儀を返した。
「笹原芳乃の孫の樹です。じつは、祖母は数日前に亡くなって、今日はオレが代わりに」
香子さんがうなずき、艶やかな黒髪をかきあげた。髮の合間に桜色の爪が見え隠れする。
「このたびは御愁傷様でした。立場上、ご焼香にも伺えず申し訳ありません。父もすでに十年前に他界していて。私も代理なんです」
裏切られたわけじゃなかったんだ。安堵したオレの顔を見た香子さんがくすりと笑う。「樹さん、大人っぽくなりましたね」
「オレ、あなたに会ったことがあるんですか」
驚いて訊ねると、香子さんは無言のまま微笑む。ふいに写真の少女が脳裏によみがえる。
「あなたと芳乃さんのことは、よく知っています。この十年間、毎年見ていたもの」
黙り込んだオレを、香子さんがじっと見つめる。そして、「とうとう話す時が来ちゃったか」とつぶやくと、静かに語り出した。
「父と芳乃さんが知り合ったとき、二人ともすでに家庭のある身でした。そのせいか、終止、清い交際のままだった。たとえば、年に一度、芳乃さんの誕生日に薔薇園で会うというような。昔、待ち合わせする父を尾行したことがあります。二人はこの坂を上って」
香子さんは、目前に伸びる坂を見つめる。
「人気のない山頂で父は何かを懇願していた。でも、芳乃さんは悲しそうに首を振っていて。その横顔が、ため息が出るほど美しかった」
「……昨日、祖母の部屋を整理していて、その、古い下着を見つけたんです。祖母が好きだったブルーリバーという、紫色の薔薇の、」
「父が贈ったのでしょう。父は家庭を捨てて、芳乃さんと一緒になりたがっていた。芳乃さんは承知しなかったようですが」
香子さんは悲しげに微笑んだ。
「下着と一緒に写真も見つけたんです。二人と一緒に少女がいた。どんどん大きくなって」
「ある年に尾行がばれてから、三人で会うようになったの。何度も嫌いになろうとしたのに、最後まで芳乃さんを憎めなかった。それどころか、年に一度会うのが待ち遠しくて」
懐かしげに目を細める。
「今日、なんでオレに声を掛けたんですか?」
「約束したんです。芳乃さんと、薔薇の下で」
そう言って、香子さんがオレの頬に触れる。
「亡くなった父のかわりにあなたたちを見守る。けっして声をかけない。そして、芳乃さんが亡くなったら、今度は私があなたに会う」
指先から香る薔薇の甘い匂いに目眩がする。
「やっと、あなたに触れることができた」
「では、また」とお辞儀した香子さんがバス停の方角に歩いて行く。夕闇に淡く溶ける後ろ姿を見送りながら、一年後、オレは再びこの薔薇園に来ることになるのだろうと思った。
荻野マキ(東京都)