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「ルリオトシブミ」著者:福虫登

 紗香は真剣な眼差しで、ルリオトシブミにレンズを向けていた。体長二ミリ程度のカシルリオトシブミの雌が、産卵のためケヤキの葉を念入りにチェックしていた。ようやく、その中の一枚に目星につけると、葉の端に切込みを入れ折り目をつけ巻き始めた。最終的に葉は俵型へと整形され、後に地面に落ちる事もある。この巻き方が落とし文(オトシブミ)の名の由縁だ。まず、葉を葉巻状に二巻き程度した所で表面に穴を開け卵を産み付ける。産卵後、その穴を塞ぐように再び葉を巻き上げ、仕上げに巻いた葉が戻り広がらないように内側の葉を引っ張り出して、その葉を反転させ蓋のように被せ完成となる。こうして雌が一人で必死に作業する中、雄はというと、ただ惚けたように傍でじっとしているだけだった。
 「ああ、やはり結婚などせず正解だった。」
 アラフィフで未だ独身の紗香は、そんな独り事を呟いていた。様々な職業を兼務しながらも五〇を前に、ようやく昆虫写真だけで食べていけるまでになっていた。
 紗香が虫達と深く関わる切っ掛けとなったのは、その幼少時代にあった。高度経済成長で世の中が活気づき、日中国交回復でパンダブームに沸いていた時代だ。だが、彼女の家では両親が離婚し、まだ二歳だった紗香は施設行きは逃れたものの、引き取られた先の祖父はというと、定年したばかりで五〇代の恋人の家に転がりこんでいたのだ。その家は、市が母子家庭用に貸し出した低家賃物件である事から、周囲が紗香や祖父を見る目は冷たく、幼い彼女の肩身は酷く狭いものだった。そんな中で紗香が見つけた自由な世界。それこそが虫達の世界だったのだ。パンダは見られずとも、彼女は近所の雑木林に白黒模様のオジロアシナガゾウムシを見つけては、パンダに見立てて一人遊びに興じたものだった。
 出来たての揺籃の前で、紗香は虚しさを感じずにはいられなかった。幼い頃から人間関係が不得手で、両親の愛情にも恵まれず一人で生きてきた。これでいいのだと言い聞かせてきた。だが、こんな小さな虫けらでさえ子孫を残すために、然も無い顔で立派に卵を産み残すのだ。それに比べ自分は何て無能なのか? 最近では生理も不規則になって来ている。これからもずっと一人で生き、ひっそりと誰にも涙されずに土へと還るのか?
 何度か結婚話もある事にはあった。学生時代には他の女子同様恋もした。だが、なぜか今一歩踏み出せないまま今に至っていた。結婚話が出る度に、彼女の脳裏をある記憶が過り、目の前の現実が、とても陳腐な物に思えてならなくなるのだ。今でも鮮明なその記憶とは、小学校の卒業式の事。ある男子生徒から深大寺の近くの深沙堂で虫捕りをしようと誘われた。深沙堂の裏には湧水池があり、そこには意外な掘り出し物たる虫達が存在したのだ。虫捕りと聞いて、彼だけでなく他にも沢山友達がやってくるものだとばかり思っていた。だが、待ち合わせの時刻に深沙堂を訪れると、河野博之君一人だけが、堂の前で虫捕り籠も網も持たずに立っていた。
 「あれ? 他の人は?」
 「僕一人だよ。」
 「一人?」
 「僕だけじゃ嫌かい?」
 「別に、いいけど。じゃあ池に行こう!」
 「ああ。」
 裏の湧水池の周囲には、春の訪れを知らせるオトシブミの揺籃が、それは沢山落ちていた。紗香は、その一つを手に取り得意満面と博之君にオトシブミの生態の説明を始めた。揺籃の葉を開き、中の卵を覗き込んで、これはゴマダラオトシブミという種類の卵に違いない等と演説ぶったのである。ひと通りの紗香の演説を聞き終えると、博之君は彼女の掌の上のオトシブミの揺籃を静かに手に取り、ポケットから何やら取り出して、それと交換したのである。
 「あっ! これ私が欲しかったやつだ!」
 「お前、由美ちゃんのパンダのリングみて、欲しそうにしてたもんな。」
 「ありがとう。でも、なんで私に?」
 「この前、上野の動物園に行ったから。」
 「でも、どうして?」
 「・・俺、紗香ちゃんの事が好きだ!」
 「えっ。」
 そう言うと、彼は不器用に私を引き寄せ、そっと額にキスをした。何が起こったのか解らず彼女は固まってしまった。抱きすくめられた彼女の耳には、彼の物か自分の物かすら解らない誰かの激しい心臓の鼓動音だけが響いていた。紗香という少女が恋を知った瞬間だった。博之君は小学校を卒業すると、父親の転勤で新潟の方へと引っ越さねばならなかった。自由に会えない二人は、それは頻繁に手紙のやり取りをした。一日一通では足りずに、日に二通も三通も書く事もあった。しかし、互いに、それぞれの中学にも馴染み、一年もすると手紙の数は激減し、二人の淡い恋は、あっけなく終わりを遂げたのだ。

 彼女は仕事で、ある雑誌社を訪れた時の事。一通の彼女宛てのファンレターを渡された。雑誌の脇役でしかない昆虫写真家にも時折、子供や虫マニアからファンレターが送られてくるのだ。今回も、そうした人達からかと、いつものように、その場で手紙の封を切ると、そこに書かれていた内容に息を呑んだ。
『近藤紗香様
  突然の失礼をお許しください。私は河野博之の息子で和之と申します。父は離婚後、男手一つで僕を育ててくれていましたが、四十代で認知症を発症し、もうすでに先が長くない状態にあります。数年前、家の売却のため整理していた父の私物の中に、あなたと父が交わした四百通以上もの手紙の束を見つけ、何度かあなたにお手紙を書きましたが、出せず仕舞いでした。しかし、もう父には時間がありません。もし、お時間が許されるなら一度だけでも父に会って貰えませんでしょうか? 僕には、もうこうした事しか父にしてあげられないのです。突然の乱暴な申し出である事は承知しております。昔から父に、あなたの名前は聞かされておりました。あなたのお撮りになった昆虫写真の図鑑を見て僕は育ったのです。入院先は、東京RT病院の東棟三〇五号室です。お返事をお待ちしています。
               河野和之』 記されていた彼の入院先は、意外にも紗香の住んでいる場所にとても近い場所だった。彼に会って見たいという気持ちで久しぶりに心躍る一方、不安も大きかった。彼女の記憶の中の博之君は、まだ十二歳のまま、彼だって記憶の中の紗香は十二歳のままの筈だ。そう思うと浮き立った気持ちが一気に萎んだ。しかし、手紙には彼は、もう長くないとある。仕事をしていても何をしていても、紗香は彼の事で頭が一杯で、仕事もままならなかった。意を決し、明日は彼に会いに行こうと鏡の前に立った時の事だ。久しぶりに鏡の中の自分の顔を見て紗香は驚愕した。口周りの皺、長い撮影生活での日焼けジミ。鏡の中には、誤魔化しようのない孤独な生活に酷く疲れた老婆の顔があったのだ。
 こんな自分が会いに行っても彼を絶望させるだけに違いないと、彼女は悲痛な思いで返信を書いた。『申し訳ないが仕事の予定が詰まっておりお伺いできない。』と。だが、手紙を投函した後も彼の事が脳裏から離れない。紗香は博之が入院しているという病院に電話をし、わざわざ病院が混んでいる曜日と時間帯を聞きだした。患者や見舞い客で混んでるという金曜日の午後三時過ぎに病院を訪れ、彼女だと知られないように、影から彼の様子を見ようと思ったのだ。金曜日の午後三時過ぎ、午後の外来診療も始まる時刻で病院は人でごった返していた。病院の東棟に着き三〇五号室を探すと、そのドアは幸運にも開かれていた。静かに中の様子を伺いながらドアの前を通り過ぎて見た。すると病室の奥で、大学生らしい若い男性が、ベットの上の老人の手を制止しながら、こんな言葉が聞こえてきた。
 「父さん、もうこんな紙玉を作るのは止めないと、又看護婦さんに叱られるよ。」
 見ると老人は、ベットの上で上半身を起こし何やら夢中で作業していた。紙玉? 紗香は、その言葉にハッとして我を忘れ、彼の名を口走ってしまった。
 「博之君・・」
 すると老人は、囁くような紗香の声にも拘わらず顔を上げると、舌足らずな口調で彼女にこう返したのだ。
 「ゴマダラオトシブミ・・・ゴマダラオトシブミ・・。」
 老人の脇の若者が驚いたように、病室の入り口に立つ紗香に頭を下げた。
 彼は、彼女が見舞った日から数日後、静かに息を引き取ったのである。そして、彼の残して行った膨大な数の紙玉には、子供のような文字で、こんな言葉が記されていた。
 『深沙堂で待つ。』
 紗香は、彼の残して行った紙玉を、まだ全て開けきってはいない。あえて、確認せずにいるのである。彼の俵型に丸めた紙玉は、まさにオトシブミの揺籃だった。それも紗香にとっては、ルリオトシブミの揺籃だ。ルリオトシブミの雌は、他のオトシブミと違い、その後ろ足に共生菌を持っている。彼らは卵を産みつけた葉の揺籃に、この菌を仕込む事で卵から孵った幼虫の食糧となる葉の栄養価を高める事ができる。彼女は時折、彼の残して行った紙玉を握り締め、深沙堂の湧水池の畔に立つ。そして天を仰ぎながら、彼を想うのである。

福虫登(茨城県)