「野良猫」著者:小川三郎
「寝たきりだったのに、ふと立ち上がって足を引きずってさ」と、おばあさん。
その潤んだ目を悪戯好きの少年のように初夏の風がくすぐる。
「子猫の頃は抱っこして哺乳瓶でミルクを与えたもんだ。何しろ私達夫婦には子供がいないもんだからね」
我が子を慈しむように育てた野良猫――その名は『男爵』だった。ペルシャ猫の血を継ぎ、エレガントな毛並みをしていたからだ。
けれど、どんなに高貴な位でも猫は知恵者で世渡り上手なのだ。おまけに彼には誇りも節操もなかった。一人前になると、召使いのようにかしずくおばあさんの目を盗んで夜遊びにふけり、ある日、妻と三人の子供を連れて凱旋した。
「あんた、その子供達ときたら母親似で三匹とも薄汚いわ、意地汚いわ、人の顔色覗うわで下品なのよ。すっかり男爵にも嫌気がさしちまってね。餌もあげずにほったらかしにしておいたら、ウチに寄り付かなくなったよ。家族一同引き連れて、どこかに行っちまった」
露骨に疎ましげな顔をするおばあさんに、『男爵』がカケルで私がおばあさんの役どころ――私達とよく似ていると思った。
カケルと初めて言葉をかわしたのは、バレンタインデーの翌日の小雪のちらつく早朝だった。
車の急ブレーキの音で目が覚めて、カーテンを開けて窓越しに見下ろすと、明るくなり始めた路上に黒塗りの高級車が停まっていた。ドアが静かに開き、出て来たのはサングラスをかけた坊主頭で、逃げていく新聞配達を追いかける。
ああ、アイツ、またバカなことをやらかしたなと、私はその逃げていく背中を目で追った。捕まらなければいいがとヒヤヒヤしながら。
そこは一方通行の狭い道なのに幹線道路の渋滞を避ける抜け道になっていて、特に朝夕は交通量が多く、その路地に住む者にとって車は迷惑至極だった。その車の前をわざとゆっくり自転車のペダルを漕ぐ新聞配達の若者を私はしばしば目撃していた。
傍若無人の車にアイツは頭にきてるんだ、相当の意地っ張りだろうなと苦笑しつつ、
ただいつかトラブルを引き起こすのではないかと気にはなっていたのだが……。
二人の姿が人しか通れない脇道に消え、しばらくして坊主頭だけが戻ってきた。
ちらっと見上げる坊主頭に慌ててカーテンを引くと、ガシャッ、ドサッと大きな音がした。
車の立ち去る音にカーテンを開けてみると、民家の塀に立てかけてあった新聞配達の自転車が横倒しになっていて、後続の車がそれを脇にのけた。
頃合いを見計らって戻って来た新聞配達の足元で、散乱した新聞が雪と車の車輪でグシャグシャだった。
それらの経緯を二階の窓から盗み見ていた私は、憐れな新聞配達につい弟を庇う姉のような気持ちになったのだった。
片思いのあの人に渡せずまま宙ぶらりんになった真っ赤なパッケージの高額なチョコレート――渡した後の後悔よりも渡さなかった後悔の方がずっと長続きすることを四十歳目前でアパートに独り身の私はしみじみ分かっている……。
そのチョコレートを手にすると、ネグリジェの上に毛皮のコートを羽織り、道路に出た。前夜に一人でハイボールを飲み過ぎて酔っぱらい、化粧を落とさずに寝てしまった顔が気になったけれど。
「えらい目に遭ったわね」と声をかけると、新聞配達は思いがけず不敵な笑みを浮かべた。
「なあにどうってことはないさ。こんなことをしたヤツ、いつか処罰してやるさ」
「処罰?」
「当たり前だろ、こんなことをしたんだから。自分で受けた辱めは自分でケリをつけるさ。俺は執念深いし、怖いものなしだから何でも出来る」
「でも、さっき逃げたじゃないの」
「あんなヤツと刺し違えるのは沽券に関わるからさ。それにしても嫌な人だな、ずーっと見てたのか。」
長身の身体は細身でヤワそうなのに、眼光だけは空威張りに見えなかった。
「これ食べる? 中身はチョコレートなの」と真っ赤な小箱を差し出すと、また生意気な口をきいた。
「貢物ならもらっておくよ。そうか、バレンタインデーか」
「違うわ。バレンタインデーは昨日よ」
どう見ても惨めな状況であるはずなのに、そのときの私の目には自転車を引きずりながら去っていく(散乱した新聞を片付けもせず)新聞配達の背中が、悲運を背負って落ちのびて行く貴公子のように見えた。それは彼の肩まで垂らした真っ黒な長髪と端正な顔立ちゆえだったに違いない。それと、耳にぶらさがった紫色をした勾玉のピアス!
その日の出来事がきっかけで、紆余曲折を経て、気がつけば私のマンションで同棲生活、新聞配達の若者――カケルの私は召使いになっていた。
やがて新聞配達を辞めて私に寄生し始めたカケルは、私が仕事(高給取りの服飾デザイナーだ)で留守の間、時々自作の詩集を売りに井の頭公園に出かけた。
「今どき詩集売りなんて流行らない。ましてや、駅ではなく公園だろ。買ってくれる人なんかいるものか。売れなくてもいいのさ。隣の桜の木の下で、真っ白な髭をたくわえたインド人の爺さんがシタールを奏でている。それを聞いてるだけで、俺は吟遊詩人か聖者になった心地だよ。帰りに深大寺に寄って、蕎麦を食いながら猫の背中を撫でる。野良猫上がりとはいえ、ペルシャ猫の混血だぜ。蕎麦屋のおばあさんが餌付けしてるんだ」
そのおばあさんなら深大寺の近くに住んでいた子供の頃によく可愛がってもらったし、今でもその蕎麦屋にはよく行くし、その猫も知っていた。深大寺の墓地に君臨している猫で、門前にあるおばあさんの店で赤い毛氈を敷いた客用の椅子で客がいようがふんぞり返っている傲然さが案外招き猫になっていた。
「あの猫、蕎麦汁の出汁がらの煮干しばかり食べてるけど、立派な毛並みね」
「実に見事だ。だから、『ノラ坊』と呼んでいたのを俺が『男爵』と改名してやったら、おばあさんは手を打って喜んだものだ。俺の詩なんてお遊びのガラクタだが、あの猫の名付け親になったことには満足している」
その猫のようにカケルもまた傲慢で自由気まま、何よりも恩知らずだった。
小遣いを渡すとバッカスを従僕にして吉祥寺近辺の酒場にでかけ、しばしば別の女の所に泊まった。
そんなある日、あろうことか赤子を抱いて帰って来たのだった。
「この子は?」と首を傾げる私に、カケルは白々しかった。
「母親が逃げちまったんだ。放ったらかしにしておくわけにはいかんだろう。誰の子か分からんが」
もしその赤子がタケルの子であったら、あるいはもっと器量良しだったら、気持ちは変わっていたかもしれない。けれど、タケルに似もつかない、不細工で浅黒い顔をした赤子に私はすっかり冷静さを失って、「出て行って!」と野良猫のようにタケルを放逐したのだった。
赤い毛氈を敷いた椅子に座って、おばあさんの話が続く。
「泣けたよ。すべてを捨てて一人、足を引きずり、引きずり、みすぼらしいジジイになって男爵が帰って来たときにはね。きっと死期を悟ったんだろうね。象の墓場のようにここが死に場所だったのね。一月程寝たきりの男爵を心を込めて私は介護したよ。それが半年ほど前の朝、私が店の掃除をしていると、男爵がヨロヨロ立ち上がってさ、この椅子に上がろうとしたんだが、力尽きてそのまま動かなくなったよ。猫は人目につかないところで死ぬというけれど、男爵は一人ぼっちが嫌いだったから、いかにもふさわしい死に方さ。――あんたとよく来てた若い男? そう言えば、男爵が死んでから一度も見たことはないね」
ちなみに男爵亡き後、放蕩三昧の日々を過ごす彼の妻と三人の子供を引き取ったおばあさんの髪の毛はペルシャ猫のようにすっかり真っ白になり、背中も猫のように丸くなった。
そして、私はと言えば、髪を茶色に染め、あてもなくカケルの帰りをぼんやりと待ち続けている。かしずかれるよりも、どのような仕打ちにあおうが私は召使い役が好きなのだ。カケルの頭を膝に置いての耳掃除、跪いて足の爪を切るときの快感を私は忘れることが出来ない。
小川三郎(千葉県柏市/65歳/男性/無職)