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「僕たちの行方」著者:柊硝

 都心から電車で数十分、更にバスに乗って数十分、彼女が僕を連れて行った先は、深大寺という場所だった。
 春と夏の間の季節、抜けるような空の色を見上げて、湿気と濃い緑の匂いでむせ返る。
「悠君のお父さんとお母さんがね、私と一緒に遊んでおいでって」
 そう僕に話しかける彼女は、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「行こう」
 そう言って、彼女の腰ほどしか身長のない僕に手を差し伸べる。僕はその掌に触れていいものかしばし悩み、撫でる様にそっと繋ぐ。  
 すると彼女はぎゅっと握り返して来て、少し意表を突かれた。
「いっぱい楽しい事しようね」
 緩やかに、しかし力強く僕の手を引かれた。
彼女のさらさらとしたロングヘアと白いワンピースが揺れる。僕はしばらくそれを見つめながら歩いた。
 ふと「全部知ってるよ」と言おうと思ったが、彼女の微かに震える声に気付いてしまい、言葉を飲み込んだ。きっと、優しい人なのだ。
 彼女はころころと表情を変えながら話しかけてきた。
「悠君、お花が咲いてるよ」
「悠君、あっちまで競争だよ」
「悠君、はぐれちゃ駄目だよ」
 彼女は僕が寂しくないように沢山の言葉をかけてくれた。手が離れたら繋ぎ直してくれた。決して表現が豊かな訳ではなかったが、大人達に静かに嘘を吐かれ続けていた心には、裏表のない言葉が心地よかった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 日が高くなった頃、彼女が少し恥ずかしそうに笑った。そろそろ御飯時である。彼女が指差した先には、蕎麦屋ばかりがぎゅっとひしめき合っていた。
 それぞれの違いが分からず、彼女を見上げる。彼女はさっと幾つかの店先を見た後、その内の一つに入る事を決めた。
 店員に促され、窓際の席に着く。
「そろそろ長袖じゃ暑いね」
 と頬を膨らませ一息ついた後、何を頼むか聞いてきた。外食なんて久しぶりの僕は、勝手が分からずに
「同じものでいいです」
 とぶっきら棒に答えてしまった。
 彼女とぽつりぽつりと話していると、注文の品が運ばれてきた。微かに、蕎麦粉の素朴な香りがした。
 誰かと出かけて食事をする。その尊い凡庸さに、当てられてしまったのかもしれない。 
 それは、本当に突然だったのだ。
 この季節には嬉しい、さっぱりとした味を堪能していると、突然鼻の奥がつんとした。
 ああ、不味い。
 そう思った時には既に涙は目に溜まり、溢れ落ちるのを待つだけだった。
 最初に感じたのは羞恥だった。両親でもなく、親しい友人でも無い彼女の前で泣くのは、幼いながらに恥ずかしいの一言だった。
 凄まじい勢いで考えた結果、蕎麦をすすりながら、鼻をすする音を誤魔化すことにした。
それが幼かった僕に出来た、プライドを守る唯一の術だった。
 しかし、細やかな抵抗虚しく、どんどん視界は揺れていく。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めて我慢しようとしても、涙は次々に溢れてきて、遂に箸を置いて手の甲で拭わなくてはいけなくなった。
 正面に座っていた彼女は、何かを言おうと口を開け、しかしそのまま閉じてしまった。
 僕は情けなくて、恥ずかしくて、とうとう自分の膝を見たまま顔を上げられなくなってしまった。
 どれくらい時が流れただろう。隣の席が微かに軋む音がした。
 はっと顔を上げると、いつの間にか彼女が隣に腰掛けていた。そして腕を広げ、そのまま僕の頭をそっと抱いてくれた。
 喉の奥から、何かがせり上がってくる。確かな震え。暗い感情。涙を、もう止めることはできなかった。
 誰を責めることも出来なかった。誰を責めれば良いのかすら分からなかった。
 お父さんとお母さんのどちらについて来たいかと言われた。三人で一緒にいたいと言えなかった。
 新しいお家は広いよと言われた。狭くても良いからこのままが良いと言えなかった。
 言えなかった言葉を吐き出す様に、僕の身体はしばらく嗚咽と共に震え続けていた。
 ぽんぽんと、彼女が僕の頭を叩く。彼女の白いワンピースの胸元に、僕の涙が滲んでいった。
 心が張り裂けそうだった。明るい未来なんて来ない気がした。それでも僕の元に、明日はやってくる。暗くのし掛かってくる現実を思い、今この瞬間だけは彼女に縋った。
 彼女の悲哀を帯びた瞳が、下を向く僕を見下ろした気がした。
 
 彼女に縋った僕の心の意味は、その時はまだ分からなかった。深大寺が縁結びで有名と知ったのは、それからずっと先の事である。

 いくつもの季節が流れて、僕は再び深大寺に訪れた。
 あの頃とは名字は違うが、心はあの頃に戻ったようだった。
 今思えば、この深大寺から数駅先に行った所には賑やかな観光名所が幾つもあった。そちらへ連れて行かなかったのは、家族に対して神経質だった僕への、彼女なりの配慮だったのだろうか。
 彼女との待ち合わせは、境内の中である。
「悠君、久しぶり」
 彼女は僕よりも目線が低くなり、顔に残っていた幼さが無くなっていた。すっきりとしたセミロングの髪と、ネイビーのタイトスカートがよく似合っている。
 僕を見る眼差しは、ただただ真っ直ぐだ。
「お久しぶりです」
「うわ、声低くなったね」
「もう子供ではないので」
「そっか、そうだよね。私も歳をとるよね」
 あはは、と軽く笑い、少し俯く。
「そろそろ行こうか。いっぱい楽しい事しようね」
 そのまま、あの頃をなぞるように共に歩く。
「悠君、お花が綺麗よ」
「悠君、あそこまで走ってみない」
「悠君、余所見してはぐれないでね」
 もう子供と呼ぶには難しい年頃の僕を、あの頃のまま名前で呼ぶ。彼女の言葉も当時の様だった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 少し悪戯っぽく笑いながら、彼女は聞いてきた。
 ひしめき合っているお蕎麦屋さんの中から、今度は僕が一件を選び、席についた。
「どれにしますか」
「うーん、悠君と同じので」
 少しぶっきら棒に彼女が答える。
「…からかわないで下さい」
 明るい印象の彼女だが、根に持つタイプらしい。
 ほのかな蕎麦の香りを堪能し、箸を手に取った所で、僕はなるべくさりげなく言った。
「ご結婚、おめでとうございます」
 自然に、けれどしっかり言おうと思っていたのに上手くはいってくれなかった。喉はいつの間にか乾いていて、最後は掠れてしまった。それを誤魔化すように、急いで蕎麦に手を伸ばす。
「ありがとう」
 少し間を置いて返ってきた、その言葉を聞いた途端、目の前の景色が歪み始める。やがて、僕の目尻から零れ落ちていく。
 鼻をすする音を、蕎麦をすする音で誤魔化す。プライドの護り方が、何も変わっていない。
 彼女は真っ直ぐな眼差しで僕を見つめてくる。彼女はもう、僕の隣には来てくれない。
 彼女は確かに今僕の前にいるのに、これから先、彼女の隣にいるのは、僕ではない誰かなのだ。あの時僕の頭を撫でてくれた指には、シンプルな指輪が光っている。
 仕方ない。
 幾ら縁結びの神様だって、十二歳の年の差と、過去の事とはいえ親族という間柄には勝てないのだ。
 彼女が僕をまだ名前で呼ぶのは、名字の変わってしまった僕の扱い方に、少々戸惑っただけの事なのだ。たった、それだけのことなのだ。
 彼女はいつの間にか、窓の外を眺めていた。
きっと僕に気を使い、どこでもないどこかを眺める事に決めたのだ。
 髪型が変わっても、服の好みが変わっても、眼差し変わっても、その少しだけ悲しい優しさだけは変わっていない。
 窓から入ってくる風に、彼女の短くなった髪が揺れる。
「僕は髪の長いあなたも好きですよ」
 そう言いたかった。言ったら何かが変わったかもしれない。勿論、何も変わらないかもしれない。けれど、言えなかった。
 言いたい事が言えないままなのも、苦しいくらいあの頃のままだ。僕の弱さも、変わっていない。けれど、この涙は自分で止めなくてはならない。
 風と共に、緑のむせ返るような匂いが流れてくる。遠くでセミが鳴く声が聞こえる。
 ああ、今年も夏がやってくる。

柊硝(東京都/23歳)