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「割り箸を割ると」 著者:ナシカヲル

割り箸を割ったら、笑われた。
私の目の前に座る進藤が、どこか人を食ったような顔で笑ってきたのだ。どうして笑われたのかわからない。おまけに初めて進藤と目が合ってしまったものだから、変な汗をかいた。進藤はあのことを知ってるんじゃないか、と思った。いつだって完全犯罪でやってきたから、彼に気づかれてるなんて信じたくない。けれど、気づいていないのはじぶんだけで、進藤はとっくに私の秘密を知っていて、それでいて口には出さずに、私を見て笑ってきたのかもしれない――。
そんな不安がめぐってきて、せっかくのお蕎麦もゆっくり味わえない。
「相原さん、一味使う」斜め向かいに座る所長に訊かれた。けっこうです、と応えて、ちらと正面に座る進藤をうかがった。彼は夢中で蕎麦をすすっている。食べ方を見て、あんまり慣れていないな、と思った。
「一味、入れた方がおいしいのに」所長が頬をふくらませながら言ったが、私は無言で首を振った。気を取り直し、鴨せいろをすする。
所長がたまにはランチに行こうと言うからついてきたのだ。ちょうど進藤の新規契約が成ったというところで、たまたま所長のデスクに書類を置いていた私も誘われてしまった。
進藤とは業務上の会話以外、話をしたことはない。いま、こうして正面から顔を見たのも初めてかもしれない。いつも私は進藤の背中ばかりみている。彼は一列前のデスクに座っているから、私の視界には広くて大きくて少し猫背の背中だけが映っているのだ。

私は進藤のデスクを勝手に物色している。誰もよりも早く出勤して、カーテンを開いてポットを洗って、お湯を沸かす。そして周囲を見渡す。フロアにいるのは私ひとりだ。
たしか、初めて彼の引き出しを開けたのは、進藤が私のフロアにきて二週間ほどしたころだった。もちろんまさかとは思っていたが、手をかけたらするっと開いてしまった。ふだん、スーツもきっちり着こなして髪型もこぎれいなくせに、デスク周りだけは無用心な奴だと思った。彼女の写真や何かが入っている事を期待していたが、そんなものはどこにもなかった。ざっと物色して、目にとまったのは芯のいらないホッチキスと消せるボールペン。もの珍しかったし、これが意外と優秀だったので、たびたびデスクから拝借した。あとはチョコレート。進藤もお菓子を食べるんだと思ったら、顔がにやけてしまった。ふだんコンビニとかスーパーではみかけないチョコレートで、二段目の引き出しの奥にいつも忍ばせてあった。進藤は意外と甘党なのだった。ひとつだけと思って頂いたら、すごく美味しくて、そのあと何度も――たぶん七八個は――食べてしまった。
お礼じゃないけれど、引き出しを閉じたあとは、机の上をきれいに片付けてあげている。

所長と進藤は、深大寺の蕎麦はやっぱり一番だね。とか、水がいいんですよ。とか話していた。とにかく異様な居心地の悪さのせいで、食事にも会話にも集中できない。
「相原は地元だよね。実家はこの辺なの」突然、進藤が訊いてきた。初めて名前を呼ばれたが、呼び捨てだ。所長でさえ「さん」付なのに、なれなれしい。進藤は私より年上だが、入社したのは私の方が二年も早い。
「深大寺元町一丁目ですけど」私はしごくぶっきらぼうに答えた。「それから小学校は――」進藤から次の質問が来る前に、私はじぶんの履歴が半径二キロ圏内でおさまることをとくとく述べてやった。所長がそうなのぉ、といいリアクションをとってくれた。
「じゃぁ、あとで案内してよ」進藤が言う。
「どこに」
「深大寺」
「なんで私が」
「だって、庭みたいなもんなんでしょ」進藤は蕎麦つゆを飲み干しネクタイに手をあてた。そして私を見てさっきと同じ顔で笑った。やっぱりあのことを知っているのだ、と思った。
手癖が悪いのは昔からだった。幼稚園のとき、従弟の裕介の帽子を盗った。べつに帽子が欲しかったわけではない。祐介が泣く顔を見て、私は笑っていたのだ。その時は叔父さんにこっぴどくしぼられた。中学生になって、クラスの三田くんという男子の傘を隠したことがある。昇降口で、傘を探す三田くんを私は背後から眺めていた。彼は自分の傘がないことが分かると、どしゃぶりの中、パーカーのフードを被って校門へ駆けていった。
その手のイタズラは何度もしてきた。当時は、その衝動が何から生まれるのかはよく分かっていなかった。気になる男の子に意地悪すると、なぜかしら心が落ち着いたのだ。

会計は所長が持ってくれた。私と進藤がお礼を言うと、所長はジャケットを羽織りながら、自転車にまたがった。会社に戻る前に得意先に寄ってくる。そう言って所長は颯爽とペダルを漕いで行った。蕎麦屋の前で進藤とふたり、ぽつんと残された。
横にいる彼の顔を見上げた。進藤は背が高いのだ。すらりと伸びた手に大きな腕時計が光る。時刻は一時を過ぎた頃だった。
「じゃぁ、俺らも会社へ戻る前に寄っていくか」進藤が言った。口からふわりとつゆの香りが漂う。仕事がまだあるからそんな時間ないです、と私は答えたが、進藤は意に介さず、私の手を取って店を出た。彼に促されるように、深大寺通りを東に歩いた。なるようにしかならない、しばらく彼の言動を観察しよう。肚を決めた。
ふたつの影がアスファルトに伸びている。周囲の木々が少しずつ色付き始めていたが、まだ寒くはない。鬼太郎茶屋を横切り参道に入った。門前町で進藤は店先に立つのぼりや店頭の饅頭の湯気ひとつひとつに、へぇだのふぅんだのと感心していた。進藤の背中越しに参道を眺めながら、ふっと幼い頃のこと――たしか小学生の頃、その日はだるま市だった――を思い出した。私は人ごみの中、祐介と叔父さんの姿を探しながら泣いていた。土産店ではぐれてしまったのだ。迷子になって、大人たちの脚をかきわけ、私は泣いた。広くて大きな参道で、金色の法衣を纏った僧侶の列が見えた。涙でにじむ視界から、僧侶の列は消えていった。ふと、後ろから声をかけられた。若い夫婦だった。泣きじゃくる私は、旦那さんに抱き上げられ、肩車をしてもらった。すごく背が高かった。山門の向こう、境内の中まで見えそうだった。やさしく私の脚を支えてくれた手のぬくもりが、じんと伝わってきた――。
「ここを上がれば本堂なの」進藤が訊いた。
「そうだよ。正面に見えるのが本堂で、左手にあるのが元三大師堂」
「こんなに会社が近いのに、今までもったいなかったな」
「もったいないって、何が」
「いや、ずっと来たかったんだよ。都内でも有数の古刹だろ。雑誌とかテレビで観るだけだったから」進藤はゆっくりと石段を昇りながら言った。「ふたりで来るなんて、なんだか不思議だよな」
「どういう意味」私は訊いた。進藤は涼しい顔で山門を見上げている。
「俺さ、相原の秘密知ってんだよ」
そう言って、進藤がこっちを振り返った。蕎麦屋で見せたあの顔をしている。脳みそにあらゆる言い訳が駆け巡った。周囲の枝葉が風に揺れて、しゃらりしゃらりと音を立てた。
「相原って、割り箸を割るのヘタだよな」
「え」彼が何を言ってるのかわからない。
「昼飯のとき、いっつも割り箸割ってるけど、上手に割れてない。片方の端が裂けたり、ささくれみたいになったりしてるじゃん」
「なんでそんな事知ってるの」
「パソコンのディスプレイにさ、相原が映るんだよね。席が真後ろだから。会社の弁当食べる時の相原をいつも見てる」
いつも見てるって、そうか。いつも見られていたのか。言われてみると確かにそうだ。私は割り箸を上手に割れた例がない。
「さっきも蕎麦屋で上手く割れなかっただろ」進藤はそう云うと、くるっと背を向けて、境内に入っていった。会社のフロアで見ているいつもの背中がそこにあった。
「進藤くん、あのさ」背中に声を掛ける。チョコレート、ごめんね。と思わず言葉が出かかって口をおさえた。進藤が不思議そうな顔をして振り返る。私の顔はみるみる紅潮してきた。何が何だか分からず、とりあえず、笑顔を作った。
「笑ってた方がいいよ、相原」ふいに進藤が言った。
「何それ。からかってるの」
「会社じゃいつも難しい顔してるからさ。笑顔の方がいいよ」
「だって仕事中に笑ってたら変じゃない」
「そりゃそうだけど。言われて悪い気はしないだろ。お前のいいところを発掘してあげてるんだ」
「いやなやつ。それ、上から目線」
でも、うれしかった。じぶんを見てくれていることに悪い気はしない。ほら、いくぞ。進藤が言った。彼にまた腕をとられた。境内には抜けるような青空が広がっている。
「進藤くん。もしさ、雨の日に置いていたはずの自分の傘がなかったらどうする」私は訊いた。
「傘? 何だよ突然」
「だから、もし傘立てにあるはずの傘がなかったら」
「他人の傘を持っていくわけにもいかないしな。そういう時はあきらめて、濡れて帰るよ」
進藤は笑って答えた。
彼のことが、もっと好きになった。

ナシカヲル(千葉県松戸市/35歳/男性/公務員)