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「新緑の頃」著者:中川泉

深大寺は一六年ぶりだ。深大寺そばを最後に食べたのはいつだろう。深大寺に向かうバスに揺られながら考えた。

私は都内のマンションに夫と息子と三人暮らしをしている、深大寺出身のイラストレータ。夫は会社員で出張が多く、土日も仕事をしていることが多い。息子は大学生となり、バイトに忙しいらしく、平日も土日も帰りが遅い。私はおこづかい稼ぎと趣味をかねて、イラストレータをしている。うれしいことに仕事はたくさんあり、毎日忙しい。大人の関係と言ってしまえば聞こえはいいが、家族はばらばらだ。
私は食いしん坊で、友達からよく食事の誘いがある。先週、中学の親友からメールがあり、またおいしいストランの誘いかと思ったら、仕事の依頼だった。親友は今でも深大寺に住んでいて、ローカル紙の副編集長をしている。
「深大寺をテーマにした記事を書くことになったの。深大寺のイラスト描いてくれない?」
依頼を受けた瞬間、この仕事は私にしかできない、と思った。私はすぐに返信した。
「OK。条件は?」
メールで手早く契約内容を確認し、翌日、深大寺へ絵を描きに行った。

午前中、新宿で仕事の打ち合わせをし、京王線に乗った。新宿で早めのランチをしてもよかったのだが、せっかく深大寺に行くのだから、そばを食べようと思った。今日はめずらしく夫も息子も家にいるという。ついでに夕飯用のそばを買って帰ろう。
行く店は決まっていた。店の前に立つと、変わらぬたたずまいにほっとした。店主やおかみさんの顔は忘れた。値段や味も忘れた。私はざるそば大盛を頼んだ。でてきたそばは味わいがあって、こしがあって、つゆの甘さと辛さがちょうどよかった。味は思い出した。これぞ深大寺そばだ。
店内には小さい子供のいる家族、女同士、中学生か高校生のカップルがいた。小さい子供のいる家族と女同士は水を飲みながら楽しそうにおしゃべりしていた。中学生か高校生のカップルはつきあいはじめたばかりだろうか、無言でそばをすすっていた。以前見たことのあるような風景がそば屋の中にひろがっていて、懐かしい気持ちになってきた。
腹ごしらえをして本堂にむかった。茶屋ではそば饅頭が売られている。茶屋の店員がだるまのきぐるみを着て踊っている。さすがに以前はきぐるみ店員はいなかったと思うが、通りのにぎわいは変わらない。山門は全然変わらない。本堂も鐘楼も。
線香を立て、本堂におまいりした。本堂から離れた場所に陣取り、絵を描き始めた。今日は天気がよく、新緑が美しい。私は深大寺の屋根のカーブした形が大好きで特に丁寧に描いていた。カーブの線を何度かなぞっていると、記憶がよみがえってきた。

かつて深大寺でデートをしたことがある。その時もあのそば屋でざるそばを食べた。
「つゆの甘さと辛さ、ちょうどいい。」
と彼は言った。いつも私は大盛りを頼むけれど、あの時は恥ずかしくて並盛にした。物足りなくて茶屋でそば饅頭を買って、歩きながら食べた。彼とうまくいくよう願掛けするために、だるまを買った。

山門を並んでくぐり、鐘楼に近づいてじっと眺めた。何度も深大寺に行ったことがあるから、私にとって鐘楼は珍しいものではない。少しでも彼と長くいるために、鐘楼に何か話すべきことが書いていないか探したのだ。
本堂のおまいりはとても長かった。私が顔を上げると、彼はまだ目をつぶっていたから、同じお願い事を繰り返した。顔を上げると、彼は本堂の屋根を見ていた。彼は私が顔を上げたのに気づき、言った。
「屋根のカーブした形おもしろい。うちの親父のおでこみたい。」
「ほんと、おでこみたい。」
私は彼のおでこを見ながら、彼の言葉を繰り返した。
彼が上に行こうと言うから、本堂の左手の階段をあがり、元三大師堂に行った。今度は少し長めにおまいりした。顔を上げると、彼は元三大師堂の屋根を見て、言った。
「こっちの屋根は、頭がとんがってて兜みたい。」
「ほんと、兜みたい。」
私は五月人形の兜を思い浮かべながら、また彼の言葉を繰り返した。
彼はまた上に行こうといった。元三大師堂の左手の階段をあがり、開山堂に行った。
日差しのつよい新緑の頃だった。開山堂のまわりは木が生い茂って日陰となり、風に吹かれて黄緑の葉がきらきら光っていた。開山堂まで来ると、人通りは少なかった。どのくらいそこにいただろう。何を話したかは忘れてしまったが、そこに暗くなるまでいた。

私は我に返り、手元のイラストが描きかけなのに気づいた。イラストを描いているうちに気持ちだけタイムトリップしたようだ。本堂を見ると、日差しの角度はそれほど変わっていなかった。ほんの短い時間の出来事だった。
「今は仕事中。集中、集中。」
自分に言い聞かせた。

本堂を描き終わり、私は元三大師堂に向かった。元三大師堂の前に立つとまた懐かしさがこみあげてきた。
思い出にひたっていると、元三大師堂の左手の参詣道から、そば屋で見かけた中学生か高校生のカップルが降りてきた。二人は手をつないでいて、そば屋でみかけたときよりずっと親しげに見えた。きっと開山堂の前でいろんな話をして、お互いの距離を縮めたのだろう。
私は急いで元三大師堂を描き始めた。左手の参詣道を歩くカップルも描いた。モデルはあの頃の私たちだ。

太陽が傾きかけてきた。早く絵を描き終えよう。そして早く家に帰って夕飯の支度をしよう。今度は元ボーイフレンドの夫と、夫にそっくりな息子をつれて来ることにしよう。 
この話をしたら、夫はどんな顔をするだろう、覚えているだろうか。私と同じように思い出を楽しんでくれるだろうか。息子は私たちの真似をして恋人と深大寺に行くだろうか。私は鉛筆や画帳をしまい、中学生か高校生のカップルと私たちの思い出を重ねながら、家路を急いだ。

中川泉(東京都世田谷区/42歳/女性/会社員)