「山門まで」著者:玖保アキ子
――東京の冬は寒い。
バスの扉が開いて、外に出る時、耳元で彼の声が聞こえたような気がした。
戸田瑶子は彼と付き合い始めて、二度目の冬を迎えようとしていたが、今、待ち合わせをしているのは、その彼ではなかった。
「戸田さん、ここ」
河合が微笑んで、片手をあげるのが見えた。こんな風に職場以外で会うのは初めてのことだった。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「こら。そっちから誘ったんだぞ」
河合の冗談めかした言い方に、河合の優しさが感じられた。瑶子も口角をあげて笑顔を作ってみせる。
職場の飲み会で、酔った瑶子が深大寺に行こうと河合を誘ったというのは嘘ではないだろう。河合が嘘をつくような男でないことは、入社してからのこの六年間でよくわかっていた。それよりもわからないのは自分の気持ちだった。去年、一人で過ごした年末年始の寂しさを、また今年も味わうことになることを恐れているのか、それとも自分のことを想っていると知ったことで、河合に甘えてしまったのだろうか……。
参道の石畳の上を参拝客達がゆっくり歩いていく。師走に入り、風はひんやりとしていたが、日差しは明るく穏やかだった。
「まずはぶらぶらしてみるか」
河合と肩を並べて歩きだすと、どこからか、微かに煙草の臭いがしてきて鼻を掠めた。瑶子は子供のころから、父親の吸う煙草の臭いが大嫌いだった。今でも他人が吐き出すその臭いは苦手だった。それなのに、彼が煙草を吸っている姿だけは好きだった。煙の匂いさえ愛しくなった。彼が瑶子のアパートの部屋から帰ってしまったあとでも、灰皿をそのままにした。何日も何日も吸い殻を見詰めながら、次に連絡がくるのを待った。そして、彼から電話があると急いで灰皿を洗い、棚の奥に隠した。
「見て、これ、面白いよ」
混雑した土産物店の中で、河合は手にした妖怪の図柄の手ぬぐいを振っている。その河合の姿がふっと自分の姿に変わる。店の入り口に面倒くさそうに立っている彼に、はしゃぎながら微笑みかけている自分の姿――。いつも不機嫌そうで、半分死んだ目をした背の高い男。休みの日に外でデートをしたことなど一度もなかった。いつも唐突な夜の来訪を待っているだけだった。一人きりの週末をもてあますようになった瑶子は、ふと思いたって子どものころ以来、行っていなかった寺や神社に行ってみることにした。一月の終わりに成田山に初詣に出掛け、湯島天神で白梅を眺め、目黒不動尊の桜を一人で見上げた。明治神宮のパワースポットと言われる井戸の水を手に浸し、行ける範囲のあらかたの寺社仏閣をまわったあとで、深大寺まで足をのばした。新緑の美しさと幸せそうな人々の行き交う参道にそれまでにないものを感じた。故郷に帰ったような心地がした。住んでいるアパートからかなり遠くはあったが、春から秋にかけて何度か、一人でこの森を訪れた。秋までは良かった。一人で歩いていても彼のことを思うたびに、幸せを感じた。付き合っている人がいる、心底好きな人がいる、それだけで瑶子は満たされていた。
「どうしたの?」
怪訝そうに河合が瑶子の顔を覗き込む。
「ううん、……なんでもない。あっちの店、行ってみましょう」
河合は、瑶子に付き合っている男がいることを知っていた。瑶子が職場で、そのことを隠さなかったからだ。そして、思いがけず、河合から、彼と別れて自分と付き合わないかと言われたのは、先月のことだった。もちろん、瑶子は即座に断った。
灯りの弱かった店内から外に出ると、まぶしさに目を細める河合の横顔が思ったよりも近いところにあり、瑶子は慌てた。
「昼飯、どこの店がいいかなあ。って、まずは先にお参りか」
「……お参りはあとにしてもいい?」
迷っていた。一年半という歳月が迷いを生じさせていた。これからくる冬が怖かった。河合となら温かな将来を思い描くことは簡単かもしれない。
「そうだな、まずは蕎麦だ、蕎麦」
河合の肩越しに野点傘が見えた。冬の白っぽい陽光の中で光の粉を撒いたかのように傘の表面が輝いている。その下の赤い日陰の中、小さな女の子を真ん中に挟んで若い夫婦が腰掛けているのが見えた。
去年の夏、友人に誘われて仕方なく見に行った小さな劇団の舞台が終わり、出待ちをするという友人に先に帰るからと告げ、通りに出た途端、土砂降りの雨が降り出した。バッグから取り出した折り畳み傘を広げて差すと、後ろから走ってくる足音が聞こえた。いきなり男の手が伸びてきて、傘の柄を持った。ぐっと傘が高くなった。舞台に出ていた男だった。
「入れてってよ」
低い声だった。瑶子が驚いて仰け反り、男を見上げると、男は無表情なまま剥き出しの腕で瑶子の肩を抱き寄せた。
「濡れちゃうよ。――腹へったな」
男は瑶子の部屋に来て瑶子の作ったものを食べ、眠り、そして、翌朝帰って行った。その日以来、瑶子は自分がそれまでとは違う女になったような気がした。
手にしたメニューの向こうから河合の声が飛んできた。
「俺、天ざる。――ほら、早く決めないと。それでなくても嫁き遅れてるんだからさ」
「ひどーい」
河合の冗談に瑶子は笑った。
「それにしても、あんなに酔っぱらっちゃうとはね……」
「たまにはそういうこともあるの」
「……俺のほうが、本当の戸田さんをよく知ってるかもよ」
河合が真剣な眼差しで瑶子を見つめた。 不意打ちをくらって、瑶子はたじろいだ。元々は生真面目な性格だった。普段真面目な分だけ、酔って本音を吐露してしまったのかもしれない。それとも、河合にだから、気を許してしまったのだろうか。そう思いたかった。
河合の顔から視線を外した先で、年配の男がポケットから煙草とライターを取り出すのが見えた。「ここ、禁煙か」と呟き、手持ち無沙汰にライターの蓋を開いたり閉じたりしている。独特の金属音が店内に響いた。その音につられるようにして、またひとつの記憶が過る。
煙草に火を点ける彼の指先を瑶子はじっと見ている。自分が誕生日にあげたライターを「失くした」と言い、誰かにプレゼントされたに違いない真新しいジッポーを「拾った」と平気な顔をして言った――。そういう男だった。
恋とは一体なんだろう。いつだって一番好きな人には本気で好きになってもらえない。
蕎麦を食べ終えて、二人は店の外へ出た。参道は短く、小川を挟んで山門が見えた。小さいながらもふっくらとした茅葺屋根を載せた風情のある山門だった。
十段ほどの階段を上がりきったところで、瑶子は足を止めた。
「どうしたの」
河合が向き直る。
「私……」
見上げると山門が瑶子の心の底を射抜くように思えた。他の男のことばかり考えながら、二人を天秤にかけている――。罪悪感という言葉が心に浮かんだ。何も言えずに瑶子は俯いた。河合は瑶子の気持ちを察しているようだった。わざとおどけたような声で言う。
「お寺の門って、山になくても全部、山門っていうんだな。――ここから先は神聖な場所だから、不埒な心のやつは足が止まってしまうんだな、きっと」
「そう。私、嘘つきだから……」
込み上げてくる言葉を堪えて、唇が震えた。嘘をついているのが辛かった。
「彼と……、彼とここに来たかった――」
「知ってる。あの時、そう言ってたから」
瑶子は驚いて、河合の目を見た。今まで見たことがないほど強い光がその瞳にあった。
「だけど、もうやめたほうがいい」
「……」
「君がしているのはいい恋愛じゃない」
「恋愛に、いいも悪いも――」
「ある。……あるんだよ」
河合の声は深く穏やかだった。
「いちばん来てほしいところに一緒に来てくれないような人はいい恋人じゃない」
涙が零れ落ちていく。
河合が行き過ぎる人に見えないように瑶子の頭を肩に引き寄せた。
「彼のこと考えるのは、もうここまでにして」
瑶子は小さく頷いた。
「さあ、行こう」
河合が瑶子の手をとる。
温かな手だった。
玖保アキ子(東京都)