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「そばでいいか?」著者:後藤武司

 こうやって深大寺の境内に来ると、いつも、もう一年経ってしまったかという気持ちになる。
それと同時に、また一年家族が息災に過ごせてきたことへの感謝がゆっくりと込み上げてくる。
 さすがに恥ずかしくて手までは繋がないものの、すぐ傍らには妻がそっと寄り添い立っている。
互いの存在を感じられるが、決して邪魔にはならない立ち位置。
二人で築き上げてきた絶妙な距離感である。
「また一年、経ちましたね」
 妻が言う。
「ああ」とだけ私が応える。
会話は数ではなく深さであると、これも二人で築き上げてきた関係性のひとつである。
連れ添ってすでに半世紀ほどを迎えるが、必ず結婚記念日には妻と二人でこの深大寺へ参拝に来ることにしていた。
 子供が小さい時は子供を連れて来たり、今でも子供達や孫達と一緒に来たりすることもある。
別に何をするわけでもなく、二人で、時には家族皆で本堂にお参りをして、馴染みの店で蕎麦を食べて帰る。
 本堂へのお参りが終わると、決まって私が妻に聞く。
「そばでいいか?」
 すると妻が控えめにこう応える。
「はい。おそばがいいです」

 妻との馴れ初めはお見合いだった。
縁談を勧められたのは会社の上司からであった。
当時二十代後半に差し掛かり、だいぶ仕事にも慣れてきた頃だったので、私もそろそろ所帯を持たなくてはと考えていた。
彼女の初対面の印象としては、正直、見た目は際立っての美人と言うわけではないが、派手でもなく、さりとて地味すぎるというのでもなく、小柄ながら質素で清潔感のある品の良い女

性だと感じた。
今にしてみれば、その落ち着きの中に隠されている芯の強さを見誤るほどに、大きな声では言えないが、いわゆるこちらの一目惚れだったのである。
 彼女と逢うのはもっぱらここ深大寺界隈だった。
私が勤めていた会社が深大寺に近かったことと、信州生まれの私の好物が蕎麦であったからに因る。
 当時から田舎者であり、口下手でもあり、金もなく、仕事以外にこれといって趣味らしいものもなかった私は、当然ながら女性を喜ばせる洒落た会話など出来るわけもなかった。
と言うわけでその時も、別に何するわけでもなく、黙って境内を歩いたり、辺りを散策したり、木陰に座って休んだりを繰り返すだけだった。
そしてお腹が空くと、「おそばでもいいですか?」と聞き、決まって控えめにそっと頷いてくれる妻と一緒に馴染みの蕎麦を食べた。
 何度か彼女とこのような拙い付き合いを重ねていくうちに、私はふと不安に襲われるようになった。
私は、完全に妻に入れあげていたため、彼女と逢えること自体が嬉しく只々毎日が有頂天になっていたのだが、果たして彼女は私と一緒にいて楽しいのであろうかという根本的な疑問が

突如として湧いてきたのである。
 私よりも垢抜けていて、女性の扱いに慣れた男達なんぞ、その頃の東京にも文字通り掃いて捨てるほどいた。
私同様、口数も多くなく、慎ましやかな彼女は、終始愛らしい笑顔は見せてくれているものの、今ひとつ本心が読めないところがあった。
 いったん疑心を持ってしまうと、そのことがかえって焦りとなってしまい、彼女の前での私を一層慌てさせた。
 焦れば焦るほど萎縮してしまい、会話の糸口がまったく見つからない。
頭を振り絞っても一つの気の利いた言葉も出てこずに、必死になっているからこそ相手の話しへの受け答えすらも疎かになってしまう。
 完全な空回りで、私はすっかり自分を見失っていた。
 しかも、さりとて直接、妻の気持ちを確かめてみる勇気もなく、一か八かの結婚の申し込みをする度胸なんてものも、その時の私にはなかった。
 薄氷を踏むような思いで彼女の優しさを試し、その笑顔に甘えることで、今想えば蛇の生殺しみたいにずるずるとそのあまりにも曖昧な関係を終わらせることなく、出来るだけ長く引

っ張ろうとすることだけに腐心していた。
 月に数回という頻度で、ここ深大寺での逢瀬を重ねて一年ぐらいが過ぎた頃のこと、明らかに妻の態度がこれまでと違う日があった。
 お面のように整った笑顔が表面には貼りついているものの、ひとつひとつの挙措や言動の端々に、笑顔には隠しきれていない苛立ちや不機嫌さが透けて見えるような気がした。
 この頃になると、私も彼女の性質の深淵に、第一印象から受けた控え目なものだけではなく、その芯に秘めている頑固さというか、ある意味の強さや激しさみたいな気質があることに

も気付き始めていた。
いよいよ彼女に愛想を尽かされるのではないかと、顔を合わせた瞬間から胃が痛くなったことを昨日のことのように憶えている。
 頭の中身を総動員してさえ、何とか妻の気を引く話題を、それでも断続的にしか提供することのできない私に、その日の彼女はいつもより口数少なげで、どこか投げ遣りに頷くだけだ

った。
 結局、妻の機嫌を少しも回復することが出来ないまま別れの時間が近付いてきてしまった。
仕方なく、敗北感に苛まれながらも最後、いつものように彼女を食事に誘ってみた。
「ごめんなさい。じゃあ、今日も、おそばでもいいですか?」
 すると普段はそこで軽く頷くだけの彼女が、思いっ切り首を横に振ってぴしゃりと言い放った。
「いいえ」
 突然の彼女の豹変ぶりに唖然としてしまい、私は何も返すことが出来なかった。
 すると彼女は大きな溜息のあとで、畳みかけるように捲くし立てた。
「いい加減にしてください」
 もはや妻の顔にあったのは笑顔ですらない。
「そもそも、なんで謝るの?」
 眼には凄味すら宿っている。
「でもってなんですか?」
 小さな肩がぷるぷると小刻みに震えていた。
 彼女の怒りの大きさを物語っていた。
 そして、妻は周囲も振り向くほどの大声で叫んだ。
「おそばが、いいんです!」
戸惑いながらも、「ん?」と首を傾げる私に、更に苛立ちを露わにする彼女。
「私は、あなたのおそばがいいんです!」
 眉が吊り上がり、顔は真っ赤に紅潮していた。
「いつまで待たせるつもりですか?」
 一歩一歩と私に詰め寄る妻。
「だから私を貰ってくださいとまで、私の口から言わせるつもりですか?」
 彼女の迫力に圧倒され、じりじりと後退りするしかない私。
「ずっと私のそばにいてください。結婚してくださいって、今すぐ言ってください!」
 あとから妻に聞いた話だと、彼女の方も最初に逢った時から私に対する好意を感じてくれていたという。
呆れるほどの不器用さを差し引いても、一生懸命で誠実なところを評価してくれたらしい。
それでもいつまでたっても煮え切らない私の態度には、いい加減堪忍袋の緒も切れたと、これは今でも何かあるごとに茶化される。
 こうして、表面上は亭主関白を装いつつも私が尻に敷かれる二人の生活が始まった。

 今日も、縁結びの感謝を込め本堂へのお参りを済ませると、後ろも振り返らずに私が妻に聞く。
「そばで、いいか?」
 すると妻の優しい声が私の背中にそっと降りかかる。
「はい。おそばがいいです」
 決して良いことばかりではなかった。
 時として激しい妻の性格を持て余したこともある。
 折につけ私の優柔不断なところにやきもきさせたこともあっただろう。
 よく衝突もした。
 喧嘩もたくさんした。
 それでもひとつひとつ二人で一緒に乗り越えてきた。
 そんな私たちは来年、金婚式を迎える。
 これからも、ずっとそばがいい。

後藤 武司(長野県松本市/40歳/男性/会社員)

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