「割り箸に対する僕の機微」著者:金子朱里
都心の高校から調布駅に着いた後、布多天神を通り過ぎて、中央自動車道の下をくぐる。何かの境目のような小さな橋を渡ると都内にありがちな山を切り開いた住宅地。当時の流行に取り残されたままのまちまちな家の間を登れば、急に空気がひんやりする。蝉の鳴き声の密度が増して、人間様が威張っていた街はどこへやら、暗い木陰には何かが息をひそめているようにさえ思えた。緑はやけに青々とみずみずしくて、身を寄せ合うようにそば屋の赤提灯が並ぶ。ここへ来ると、茜は本来の姿に戻るのだ。
「おばちゃーん、ざる二つねー」
茜は夏服になったばかりの制服がしわになるのを気にすることなくごろんと畳に寝転んだ。本来の姿、といっても狐の耳が生えてくるわけではない。猫がはがれて、ズボラになるのだ。
「おい、花の女子高生、人前で寝転ぶな。」
「人前じゃないじゃん、そば屋の中じゃん。」
くああとのどちんこが見えるぐらいに大きなあくびをする茜を見て僕はため息をついた。
頬杖をついたまま寝転んで腹をポリポリ掻いている姿はまるでおっさんだ。
学校ではぴっちりアイロンがかけてある制服に身を包み、シャンプーの香りときれいなうなじにドキドキしてしまうポニーテールで、「茜ってかわいいよな」なんて噂されてる奴と同一人物なんて思いたくない。
「女子高生って初々しくて清楚でバラ色のほっぺをした、マシュマロのような存在だと思っていた僕の憧れを返して。」
茜はどっこいしょ、と起き上がってフンと鼻を鳴らした。
「え?ショータローの憧れとかどうでもいいから。」
そうですか。どうでもいいとかお前に言われたくないぞ、ズボラ女め。
「あれ、ショータロー、怒ったの?怒ったの?」
茜がにへらにへら笑いながら面白がって僕の顔を覗き込んできたから、僕は怒りで顔が赤くなった。茜はそれさえ目ざとく見つける。
「うわ、顔、真っ赤。」
「怒って赤くなってるんだ。近寄るな、ズボラがうつる。」
ひっぱがそうと茜の頭を押したら、思いのほかすんなり引き下がった。いつも空気を読もうともしない茜にしては珍しくてどうしたのだろうと今度は僕が茜の顔を覗き込む。おじちゃんの重い蕎麦切り包丁の音が聞こえた。
「ズボラ……か……。」
なぜかシュンとする茜。二つに束ねた髪はアンゴラウサギよろしくクタンと力なく垂れ嵯下がっていた。こいつがスキンケアとか絶対ありえないだろうに、咲いたばかりのクチナシの花を思い起こさせるしっとりと白く柔らかい肌は下を向いている。ヒグラシの鳴き声が哀愁を加えるから、なんだか僕が悪いことをした気分だ。がざがざと長靴を引き摺りながらおばちゃんがやってきた。
「なんだい、またケンカかい。さ、ざる二つ。さっさと機嫌直すんだよ。」
おばちゃんがゴトンとざるを置いた。途端に茜はレバーを全開にしたかのごとき笑顔になる。
「いただきまっす!」
この単純さに僕はあきれてしまった。心配して損した。ふてくされた僕はまるで恋敵ででもあるかのように箸で蕎麦をぶつぶつ切った。
茜はがざつよろしくいつものように割り箸をバリッと折るかに思えた。
だけど、今日は違った。
箸の先端から指十一本分数えて上にのぼるとそこでやけに慎重に箸を割る。
あ。
と僕は気付いた。こんなことがときたまある。
茜、好きなやつできたんだ。
「割り箸の先からね、好きな人の名前の文字の数だけ指で上にのぼって箸を割ってね、
きれいに割れたら両想いなんだって。」
茜にそう聞いたのはもう十年も昔の話だ。小学校が近いこともあってこのお寺の境内でよく友達と遊んでいたけど、僕と茜だけが鍵っ子なのでいつも最後はふたりになる。今日のように雨が上がったばかりで空気にぴしりと洗濯糊がかけられたような日だった。突然お参りしよう、と茜が言い出した。なんで、と僕は聞いた。線香の匂いが漂ってくる。
「ここ、えんむすびにいいんだって。」
茜はここにカッパのミイラがあるんだって、と明かすかのように僕に耳打ちした。僕はえんむすび、が何かはよく分からなかったけど、本殿の前で薄目を開けると茜が真剣に手を合わせていたから大事なお願いをしているんだなと思った。僕はいつもの境内になにかが潜んでいる気がして落ち着かなかった。
母さんたちが持たせてくれた小銭を握りしめて、僕らはどうしてか黙ったままおばちゃんの所で夜ご飯がわりの蕎麦を食べた。やけに慎重に箸を割ったあと、変な形に割れた割り箸の割り口を茜はしげしげと見つめて、もそりと陳腐な占いのことを話した。
茜、好きなやつできたんだ。
いつも、茜がこんな風になるとぼくは変な気持ちになる。十年前もそうだった。今だって変わらない。僕の長い名前を数える前に茜の細い指が箸を割ってしまうからだ。ジェットコースターで急降下した時に内臓がふわっとするあの感じとか、サウナから水風呂に飛び込んで全身が変に硬直する感じに似ている。自分のしたい表情と本当の感情との間で顔の筋肉がひきつれる。さすがに隠すのが上手になったけど、小さい頃は自分でも訳のわからないまま泣き出して茜を驚かせたこともあった。もう少し大きくなってからは茜がいくつの文字の人を好きになったか確かめて、必死に誰なのか特定しようとしたりした。
だけど今は、僕は自分の気持ちに気付いてしまっている。
茜は普段はだらしなくても学校ではなぜかきちんとしているし、男子とも女子とも気さくに話すから、時々茜が誰々に告白されたなんて噂を聞くこともある。意外な奴から「稲泉、お前茜と付き合ってんの?」なんて聞かれることもある。ただの幼なじみだと事務的に答えてやるけれど苦虫を噛み潰すような気分だ。急にふわんとした女子っぽい体つきになったのも危なっかしくてしょうがない。
それでも、誰か、を特定しようとしたりはもうしない。長い恋というのは変な自信になるものだ。考え事をしていてふと爪を噛んでいることに気付くように、毎日のふとした瞬間に茜は今何をしてるんだろう、何を考えてるんだろうと想像を巡らしてしまう。気付くと茜の一挙手一投足に僕にしか読み取れない意味を見出そうとしている。茜が誰かと付き合ったって結婚したってかまわない。それで幸せになれるとは限らないからだ。茜が好きになった人たちがみんな年をとって死んでしまうまで茜のことを好きでいる自信が僕にはある。誰がこんなに茜に執着できるだろう。初恋の人を思い続ける僕の恋は確かに一般的にみたら純愛かもしれないけれど、僕は密かにこの気持ちを恋なんて気まぐれで甘ったるい名前で縛らないでほしいと思っている。
茜は今も殊勝にもこのへんてこな割り箸占いを信じているらしい。だけどおかげで僕が茜に好きな人ができたことを察しているなんてちっとも気付いてない。
茜さえ知らない、僕が知ってる茜の事。
その一つが茜のこの癖なのだ。あれだけ僕を苦しめた、苦い思い出のある割り箸占いにさえも今は甘い優越感を感じている。
さて、今回の相手は十一文字だったが、まためったにないくらい長い名前だ。久しぶりに考えてみる。十一文字。十一文字……。
あ。
いないずみしょうたろう。
僕だ。
思わず、茜のはしを見た。ずぞぞぞとそばを鯨飲する茜が握った箸は、これでもかというぐらいにきれいに割れていた。
「……茜さあ、好きな人いるの?」
ごふっと一回目は本気でむせて、二回目は取ってつけたように咳払いしてみせて、茜は澄ました顔をつくった。
「マシュマロのような女子高生だもの、いたっておかしくないでしょ。」
まだ根に持っているんだ。僕は茜をかわいく思ってこっそりほほえむ。
「それってさ、」
さっきむせたそばが変な所に引っかかったのか、茜は涙目だ。綺麗に割れた箸に後押しされて僕は言葉を繋いだ。
「僕?」
ぴたり。茜の動きも、洗い物をするおばちゃんとおじちゃんの音も、外で小学生が騒ぐ音も、ヒグラシの鳴き声も、はまりの悪いガラス窓を揺らす風の音も、一瞬、全部が止まった。地球上の全ての音はロケットエンジンのように拍動する、僕の心臓の音だけだった。
ずぞぞぞぞぞぞ。
箸をつかんだまま固まっていた茜が突然蕎麦をすすりだした。あっという間に最後の一本まですごい速さで食べ終える。
「ごちそうさま!ショータローの奢りね。」
ぱっと籠から小鳥が飛び立つかのように茜は椅子を蹴って逃げようとした。
僕は咄嗟に茜の手を握った。奢ってたまるかという気持ちと、茜を好きって気持ちと、返事を聞きたい気持ちと、その他ありったけの気持ちを込めて。
「逃がさないよ。」
と僕は笑った。
金子 朱里(東京都八王子市/19歳/女性/学生)