<第8回公募・選外作品紹介>「夏蜜柑」 著者:七雲 かで
「うまそうな夏蜜柑ですね」と僕は言った。
それは実にうまそうに見えた。ごつごつとした球形を成した橙色の果実は、木で作られたかごに四つ添えられていた。へたはスーパーやらで売られているようなヘソ型ではなく、二センチほど余分に茎が付いていた。それは売り物には見えなかった。けれども、売れ残りには見えなかった。
かごの中で丁寧に並べられているそれは、夏蜜柑にしてはすこし大きく、見た目もお世辞には鮮やかでなかった。お店に並ぶのは、綺麗な球形で、つるつるとした皮の夏蜜柑だ。それに比べて目の前にあるものは、いわゆる甘夏蜜柑と呼ばれるものの、ほとんど真逆をいくものだった。しかし、それは実にうまそうなのだ。
だからこそ、僕はわざわざ、声に出してうまそうな夏蜜柑だと言ってみた。
「昨日、田舎から送られて来たんですよ。いつも夏のこの時期になると、子どもの頃に実家でよく食べていた、この夏蜜柑を送ってくれるんです」と女性は言った。
七月。いよいよ熱が陸を支配し、生き物が茹だり始めるこの季節に、僕は調布市にある女性の家を尋ねた。僕はラルフローレンの淡い水色のポロシャツにチノパンという軽装だったが、女性は半袖のブラウスに黒いシックなプリーツスカートという正装に程近い服で僕を出迎えてくれた。
僕の、女性と吊り合わないラフな格好に、なんだか申し訳なく思ったが、微笑んで出迎えてくれた女性を前に、すぐにそのことは忘れてしまった。
居間に案内され、僕は椅子とお茶をいただきながら女性を待った。台所からかごをもって出てきたのはそれからすぐ後だった。
「この時期に夏蜜柑を?」
「ええ。ちょっと変わっていますよね」
夏蜜柑といえば、出荷の最盛期は五、六月だ。夏蜜柑の木は、秋に実を付けるが、それはとても酸っぱい。酸味が薄れて、甘さを増すためには、一年待たねばならないのだ。だから、結果的に青果店などに並ぶのは、一年越しの五、六月になる。最近は品種改良が進み、夏蜜柑の食べごろがもっと早まり、三、四月になっているものもある。
それを、七月に送ってくるというのは、何かの理由があるのだろう。売れ残りか、もともと七月にしか出荷しないのか。理由は図りかねるものの、何度も言うようだが、それは売れ残りには見えなかった。
「夏蜜柑が好きなのですか?」
「ええ。私が熟した酸味のほとんどない夏蜜柑が好きなので、わざわざ頼んでこの時期に送ってもらうんですよ」
「僕も、夏蜜柑は甘いほうが好きですね」
「どうぞ、遠慮なく」
女性は、かごを僕の方に寄せてくれた。僕は夏蜜柑を一つ取り、その肌触りを感じ、感触を楽しんだ。若干柔らかくなっている表皮に鼻を近づけると、ほんのりと香る甘酸っぱい匂いが、僕を安心させた。ひとしきり夏蜜柑そのものを楽しんでから、皮を剥いた。僕と女性がいるこの部屋に柑橘特有の匂いがあふれた。蜜柑を綺麗に剥いてしまうと、果実を一つ摘み、口へ運んだ。確かに、店で売られているものに比べたら、酸味は殆ど無かった。それでも夏蜜柑独特の酸味がほんのり残っていた。果肉が弾ける度に、頬がきゅーっとなった。
僕が夏蜜柑を食べたのを確認すると、女性はにっこりと笑って、夏蜜柑を一つ、手にとった。丁寧に皮を剥き、白い細い手で器用に維管束を剥ぎ、唇のように滑らかな果実を口にした。夏蜜柑がうまそうならば、それを食べる女性もまた、うまそうに食べた。そしてまた、僕と同じように強い甘味とささやかな酸っぱさを頬で感じていた。
「おいしいですね」
「この時期が、夏蜜柑の本当に美味しい時期なんですよ。五月の出荷を逃した夏蜜柑なんて、お店では見向きもされません。もちろん、需要がなくて商品にならないからです。置いたとしても売れ残ってしまうんです」女性は俯き加減に言った。「夏蜜柑は、酸味が強いほうがおいしいと思う人が多くて、家や知り合いが蜜柑を作っていないと、こういう熟した蜜柑は食べられないんです」
「この世の中は、そういうもので溢れていますね」
「寂しいことですが。熟した物のほうが好きな、物好きもいるのですけれどね」
「僕たちみたいにね」
女性は微笑んだ。しかしすぐに、表情を変え、女性のまわりにはしんみりとした空気が漂い始めた。気づけば僕は、女性のこの空気の扱い方が、至極気に入っていた。
「私はそういう、夏蜜柑のようなものです。ある時期を境に、見向きもされなくなった、売れ残りに近いものです」
「だからこそ、僕もここにいるのですけれどね」
女性はまた、微笑んだ。それは実に僕好みの笑みだった。
確かに売り物には見えなかった。けれども、売れ残りだと女性は自分を蔑んだが、僕には売れ残りにも見えなかった。売れ残ったのはむしろ僕の方だ。
僕たちは、互いに自分を夏蜜柑だと思っている。そしてまた、それは熟しすぎて売れ残ったものだと思っている。
「僕は、それでも七月の夏蜜柑を愛せると思います」
「私も」
それから僕たちは外に出て、バスに乗って深大寺へ向かった。歩いて行くつもりだったが、雨がしとしとと降っていたので、予定を変えたのだった。
深大寺に着くと、傘を差して暫く境内を散歩した。僕は雨天の日のお寺が好きだった。それも、激しい雨嵐などではなく、こういったおしとやかな、物静かな雨が降るお寺の雰囲気が大好きだった。やわらかな雨というのは、全てを優しく包み込み、一つの情緒的な雰囲気を作り上げてしまう。由緒ある縁結びのお寺、深大寺に、しんしんと降る雨は実にぴったりだった。
ひとしきり境内を歩きまわった後、僕たちは本堂へ向かい、参拝した。二人並んで、手を合わせてお祈りをした。僕は目を瞑りながら、いろいろなことを考えていた。夏蜜柑のこと、雨の降る深大寺のこと、そして隣にいる女性のこと。そのとき僕は、自分がいつの間にか幻想的な空間に紛れ込んでしまったかのような、そんな幸せな空気を肌で感じていた。
僕と女性は、満足すると深大寺を出て、近くの蕎麦屋に寄り、名物の蕎麦を啜った。そのあと、女性の提案のまま神代植物公園に行き、ちょうど見どころだった睡蓮を楽しんだ。そのあいだもずっと、僕は女性の家で頂いた、夏蜜柑の甘さとやわらかな酸味を、唇に忘れられずにいた。
日が沈み始めた頃になって、僕たちは帰ることにした。僕は女性を家まで送ることになった。雨はすでに止んでいた。僕たちはせっかくだからと歩いて帰路についた。
街並みなどを眺めながら暫く歩いていると、通りかかった自営業の酒店の敷地内に、立派な夏蜜柑の木を見つけた。五株くらいその敷地には植えてあり、青々とした葉っぱをつけていた。その酒店の店先には、樽いっぱいに夏蜜柑が入っていた。よく見ると、樽には「ご自由にお持ちください」と書かれた張り紙があった。僕たちは酒店に入り、そこの店主のおじさんに話を訊いた。
店主いわく、夏蜜柑を育てているのは、自分が焼酎好きで、酸っぱい夏蜜柑を絞って飲むのが夏の楽しみだからだと言う。けれど、独り身のおじさんには、敷地に生えている木から取れる夏蜜柑は多すぎる。だからこうして、余剰分をワイン樽に入れ、店先に置いて無償で配っているのだという。
「けれどもまぁ、もう酸っぱいのも飛んじまってるし、そろそろ処分しようとは思っているんだがね」と店主は言った。
僕たちは顔を見合わせ、にっこりと笑った。そして店主に言って、レジ袋いっぱいに夏蜜柑を詰めてもらった。ついでに焼酎も買った。
僕と女性は、女性の家まで夏蜜柑を持ち帰り、今度は二人で心ゆくまで楽しんだ。いつぞやかに失くしたと思っていた、甘酸っぱい時間だった。
やがて僕たちも更に熟していくのだろう。けれど、売れ残らずにこれからを過ごすことが出来る。そしていつかは、夏蜜柑を育てる側になるのだろう。きっと、夏蜜柑の素晴らしい味を知ったいまの僕なら、育んでゆける気がした。
七雲 かで(東京都/21歳)