<第8回公募・選外作品紹介>「すべてのことに時がある」 著者:T-99
月曜日の深大寺はどこか寂しい。
バスを降りすぐ目につく案内所は窓を閉め、土日に押し寄せた人の群れは一休みするかのようにまばらになる。山門に続く石畳の両脇に並ぶ店は半数ほど軒を広げ、いつもより本数の少ない旗が、勢いを取り戻すべく風と格闘していた。
砂利をかき分け聞こえてくるゴムの擦れる音。僕は反射的に声をかけた。
「深大寺植物公園はお休みです。駐車はかまいませんか」
「えー、そうなの」
助手席の女性が、ピンクのアクリルストーンで飾られた携帯を操作したまま驚く。
「いいすっよ」
同年齢ぐらいの男性が、千円札を差し出した。店のスタッフジャンパーにジーンズ姿の僕には買えない、マツダRⅩー8が歯ぬけた駐車場に止まる。しばらくして、ロータリーエンジン特有のモータ音が消えた。
男性が小銭と領収書を受け取る間、携帯から目を離さなかった女性が先に本坊に入っていく。
「山門は……」言いかけてやめた。
コイン式駐車場が増えた。次は携帯でお参りできるようになるかもしれない。
「商売も大変だよな」馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「圭介くん。休憩いっていいわよ」
駐車場管理の静代さんが、木陰で手をふっている。コンパクトを開き化粧直しをしながら、すれ違いざま「素顔を見ていいのは旦那だけ」茶目っけまじりに笑った。母さんと同年齢らしいが、歳は教えてくれない。
「わかりました」
自然に返事が大きくなっていた。
就職先が決まり仮免まぢか、高校卒業前に足りないのは車だけ、駐車料1台分の時給をこつこつ貯めている。
用水路を飛び越え本坊をくぐると、お気に入りの鐘楼はすぐそこだ。葉もないむきだしの枝が、血管みたいに張り巡らされた木々を抜けた。日に三度告げる時の音(ね)が、梵鐘から波紋のように広がっていく。僕はいつも通り地面に座り込んだ。
中古車情報誌につけたドックイヤーを素早くめる。メタルブラックのボディ、時速二百キロはゆうにだせるエンジンのピストン運動が、鐘の音と重なり心臓を激しく震わせた。ステアリングを握り、アクセルを吹かす。狙っているのは彼女と同じ名の車、セリカ。
芹香とは家が隣でよく遊んだ。四月生まれの芹香は、三月生まれの僕とひと回り違う。クラスでチビだった僕は、背の高い芹香に憧れていた。
くるくるした長い巻き毛を引っ張っては嫌がられ、「ジージー」鳴くセミを近づけては追いかけまわす。芹香は決まってブロック塀を隔てた自宅に駆けこんだ。僕は境界を簡単に乗り越えていけた。
「どうして、喋らなくなったのだろう」
一緒にいるだけでよかった僕にいつのまにか壁ができていた。男は男同士、女は女同士で遊ぶための壁。男女でいると冷やかされ、からかわれた。
冬の風が赤みがかったニキビに当たり頬にしみた。笑い声が響く。RⅩー8の男女が、ぴったり体を寄せ合い本堂で写メを撮っていた。僕は芹香の携帯番号もメールアドレスも知らない。ポケットからMP3プレイヤーを取り出す。気づけばイヤホンを耳に押しあてていた。
芹香に関する情報は、母親が上書きしてくれた。僕らの関係が小学生で終わっても、親同士の付き合いは続いていた。母にとって芹香は、僕の友達で娘のような存在。いつも気にかけていた。
「芹ちゃん。税理士になるため、簿記の勉強を始めたんだって」
フライパンで手際よく、にんじん・たまねぎ・ジャガイモを炒める母が、一方的に話しかけてきた。
税理士がどんな職業か僕は知らない。芹香の父親が○○士、だった気がするが○○に入る言葉が思い出せない。幼い頃の大切な記憶がだんだん抜け落ちていく。
昔みたいに話したい。きっかけを探していた。
「背丈が追いついたら」
初めて願掛けをした。バスケットボール部に入部し、練習で流す汗より多く牛乳を飲んだ。両親の身長は高くなかったけど、希望は捨てなかった。「頑張れば願いは届く」そう信じていた。
けれど、僕の身長は中学で止まったまま。
フライパンが、「ジュウ」と肉を焼く音に変っていた。
「高校に合格したら」
二倍以上離れた偏差値を縮めるため、寝る間も惜しんで勉強した。動機は不純だったかもしれない。でも思いは純粋だった。
「すべりどめもうけておけ」
心配する担任に耳を貸さず、芹香と同じ高校に進学する。それしか眼中になかった。合格すれば何かが変る気がしていた。
桜の花びらが舞い、制服に袖を通す。
関係は変わらない。芹香は進学コース。校舎が別々で同じクラスになることはなかった。いくら追いかけ、追いつけた気がしても、芹香だけが遠くに行ってしまう。
「そうそう、芹ちゃん。高校辞めるんだって」
「ふ~ん」情報が更新された。
テーブルに料理を並べる母はそれ以上何も言わない。冷静に受け答えしたものの、内心はドキドキしていた。カレーがのどを通らず。日曜日に欠かさず見ているお笑い番組が頭に入ってこない。月曜日を向える僕の心が、憂鬱な気分に浸食されていく。
母の言葉を聞いた翌朝。突然、芹香が現われた。違う制服を着ていた。茶色のブレザーに赤のタータンチェックのスカート、胸の校章は見たことのないデザインだった。長かった髪がバッサリ切られていた。
ショートヘヤーも、芹香は似合っていた。
「噂、ぜんぶ嘘だから」
変わらない声で訴えかけてくる。瞳がどこか悲しげに見えた。
「噂って?」
僕は噂を知っていた。男女の恋話なんて学校中にすぐに知れ渡る。噂は物凄い背びれや尾ひれを持っていて、校舎を猛スピードで泳いでいた。
男は「やった。やらない」を簡単に口にした。人より早く大人になることを友達同士で自慢する。真実はどうでもよかった。経験すれば「英雄」になってしまう。それだけ。僕は噂を信じていなかった。
黒鉄の門に置かれた芹香の白肌に、薄っすらと浮かぶ細い青筋がピクリと動く。
「知らないならいい。圭ちゃんには、信じてほしいと思って」
芹香を見つめながら、一方で噂を信じる僕がいた。男に抱かれている芹香を想像する。僕の知らない芹香。「妊娠」の二文字を打ち消した。
気持はずっと同じ。言葉にすればいいだけ、鼓動が加速した。体温が上昇し全身の毛穴から吹きだす汗で息が苦しくなる。渇いたのどに唾液と一緒に伝えるはずだった思いが流れ込んできたが。
眠っていた町が朝日を受け、徐々に失っていた色彩を取り戻していく。登校前のわずかな時間、僕だけ何も変わらない。
視線を外した芹香が玄関先に消えてゆく。一瞬、触れる距離にいた僕らに再び線が引かれる。境界線がはっきり見える。僕はその線を越えられなくなっていた。
中古車情報誌に光が揺れていた。黒い車体に輪郭のぼやけた僕の顔が映り込んでいた。目を細め、空を見上げた。雲の切れ間からもれた陽射しが降り注いでくる。思わず手で遮るとファルセットを使い苦しそうに歌い上げる声が耳に伝わってきた。友達が「おすすめ」と教えてくれた曲。
もうすぐ休憩時間が終わる。立ち上がり、ジーンズにつく乾いた砂を叩いた。少し窮屈になったバスケットシューズで境内を歩いていく。踏みしめた小石が土と混じり合い、再生を終えた曲にかわって、リズムを刻んでくれていた。
ふと授与所の前で足を止めた。透明のアクリルケースに並んだ、金色のタコと真っ赤なタコがはちまきを締め僕を見ていた。てのひらサイズの置物、オクトパス君。
「東北の復興とあなたの幸せ!」ポスターが貼られている。「合格祈願。置くとパス」洒落た文言が添えられていた。
時給に換算する癖がついた僕が、「二時間分」のお金を支払い、ポケットに思いを詰め込んだ。
びっしりとコケに覆われたトチノ木を通り山門を抜けていく。振り返ると腰を曲げた老木がお辞儀して、駐車場に向かう僕を送り出してくれていた。
T-99(東京都多摩市)