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<第8回・最終審査進出作品>「息子の結婚、私の離婚」 著者:関口 光司

調布駅北口から、今はまだ夫の菅原大輔が出てきた。会うのは一年半ぶりだ。安物の綿パンに皺だらけのブルゾンを羽織っている。息子の結婚相手とその父親に初めて会いに行く格好ではないが、まあ、いい、どうせ壊しに行くのだから。
大輔はすぐに車の運転席の私を見つけ、駆け寄ってきた。
「いやあ、早い呼び出しだな。名古屋駅で始発の新幹線に乗り遅れそうになったよ」
「相手はおそば屋さんだから、昼食時の混雑前に来てほしいって、良太が言うのよ」
 大輔と私は、二五年前に大手の損害保険会社に入社した同期生で、結婚と同時に私は専業主婦になった。三年前、大輔は、実父が胃癌になったのを機に、実家のある名古屋への転勤希望を出した。本来であれば、私も随行すべきであったかもしれないが、ひとり息子の受験を理由に東京に残った。大輔は、父親の家から、名古屋支社に通勤していたが、同じ職場の二十歳年下の女性と恋仲になった。事態が発覚し、居づらくなったのか、大輔は会社を辞め、実兄の経営する零細企業に移り、実家で彼女と同棲を始めた。父親は半年前に亡くなったが、私は葬儀に参列していない。調布市の自宅を私がもらうことを条件に私達は離婚する約束になっている。
私は車を走らせ、武蔵境通りを北上した。
「親父の遺産相続、兄貴と話がついたよ。来週、家のローンを期限前返済して、綾子の名義に変えるようにするから」
と言って、大輔はポケットから紙を取出した。
「これ、離婚届。綾子の方を記入して市役所に出しておいてくれないか」
「うん、わかったわ。ダッシュボードに入れておいてよ。お父さん、残念だったわね。でも、最後はあなたと若いお嫁さんにお世話してもらえて幸せだったんじゃない」
「あいつとは別れた。いっしょに暮らし始めてひと月で親父と喧嘩になって、出て行った」
「へえ、そうなの。別れたの」
 しばらく沈黙が続いた。車が中央道の高架下を通り過ぎたところで大輔が本題に入った。
「なあ、俺達が離婚するからって、良太の結婚話までぶち壊すこと、ないんじゃないか」
「私たちの離婚とは関係ないわ。大学辞めてそば屋の婿になるなんて、あの子、アルバイト先の娘とオヤジに騙されているのよ」
 良太は一浪して早稲田大学に入り、今は三年生。ふた月後に就職活動入りを控えた十月になって、突然、大学を辞めて、深大寺のそば屋の娘と結婚し跡を継ぐと言い出した。これから大輔といっしょに、相手のそば屋に挨拶というか、良太を奪還しに行くのだ。
「就職や結婚は、本人に任せたほうがいいよ」
「あなたはそんな甘い認識だから、仕事も結婚も失敗したのよ。私が言うのも変だけど」
 私達は深大寺正門近くに差し掛かかり、そば処『だるま屋』の駐車場に車を入れた。
 準備中の札のかかった扉を開ける。「いらっしゃいませ」の声がして若い女が出てきた。
「菅原っていいます。良太の母親です」
「はじめまして田野倉美咲です」
 如才ない笑顔で彼女は出迎えた。美人とは言えないが丸顔で愛嬌がある。
店は、小上がりに三卓、テーブルが五席と決して広くはないが、全体が渋い和風の設えで落ち着きがあり、掃除がよく行き届いている。姑のような目で店内を見ていると、大輔が驚いたように声を上げた。
「このだるまさん、左目に字が書いてある」
「はい、深大寺では、毎年三月にだるま市が開かれて、開眼所で目入れをしていただくのです。それ梵字の『阿』なんですよ」
と美咲が応えていると、良太と五分刈りでゴマ塩頭の店主が和帽子を頭から外しながら出てきた。白いズポンに『だるま屋』の刺繍の入った襟なしの白衣をお揃いで着ている。似合っている。本当の親子のようだ。
美咲の父親の田野倉周三は、来店の礼を述べ、良太と美咲の結婚、店を継ぐことの許しを丁寧に求めた。職人肌のガサツな男を想像していたが、腰の低い紳士的な態度に少し戸惑い、奪還作戦の機先を削がれた気がした。
「父さん、母さん、今日は僕の作ったそばをご馳走するよ。うまいから、沢山食べてよ」
と、良太は美咲と目を合わせ微笑んだ。
 私は、良太の作るそばの味など、どうでもよかった。席に座ると、すぐに本題に入った。
「良太、おそば作りが上手になるのは結構なことよ。一生涯の趣味にしたらいいわ。でもね、大学を中退して、その歳で結婚してそば屋になるなんて、子供じみてないかしら。もっと自分の将来を真面目に考えなさいよ」
「母さん、僕はきちんと将来を考えて、決めたんだ。父さんも母さんも大学で優秀な成績とって、一流企業に入って、職場結婚して、でも、今、幸せなようには見えないけどね」
 いきなり結婚に反対されたことに腹が立ったのか、いつもはおとなしい良太が過激なことを言った。私は援護射撃を大輔に求め、横を見た。ここまで馬鹿にされたのだから、大輔は良太を殴り倒すかと思ったが、腕を組んだまま、睨めっこのようにだるまを見ている。
「ご主人、世間知らずの学生を娘の婿にして、商売の跡を継がせようなんて、姑息じゃないですか。勝手なことしないでください」
 私の剣幕に対して、田野倉氏は黙ったまま俯いている。美咲が涙声で言った。
「ご免なさい。私がいけないんです。妊娠なんかしちゃったから」
「妊娠って、何よ、外堀を埋めようってこと。冗談じゃないわ。堕しなさいよ、そんなの」
「そんなのって、母さんの孫だぞ。ふざけるな。もういいから、ふたりとも帰れよ」
「このままじゃ帰れないわよ。あなた達を別れさせなきゃ」
私と良太は睨みあった。
「良太君、そろそろそばを茹で始めたほうがいいよ。美咲も手伝いなさい」
 田野倉氏がふたりを厨房に行かせた。
「お怒りはごもっともですが、美咲には菅原の姓を名乗らせますし、お母さんのお宅に同居させて、お世話をさせていただきます。あの娘は五年前に母親を亡くしましてね。高校の授業が終ると店の手伝いをして、卒業してからは大学にも行かず、ずっとこの店で働いています。花嫁修業もさせていないです。でも、頑張りだけは他人に負けません。お母さん、美咲をうんと叱ってやってください。きっとお母さんの気にいる嫁になります。どうか二人の結婚を許していただけませんか」
 田野倉氏は深々と頭を下げた。
「妊娠の件は、良太にも責任のあることですから、お嬢さんをキズものにして結婚から逃げるとか、そういうことを申し上げるつもりはありません。でも、大学まで辞める必要はないですわ。ふたりともまだ若いですから」
「大学は辞めるなって、私も言ったんですが。良太君、私が生きているうちにそば作りのすべてを学びたいってね。そう言ってくれて」
「生きているうち……」
大輔が初めて口を開いた。
 田野倉氏は、気恥かしそうに苦笑いした。
「実は、私、胃癌が転移し始めていましてね。あと半年から一年らしいです。それで、良太君は、美咲と結婚してそば屋を継ぐって言ってくれたんです。しかも、私に孫の顔を見せてやりたいって、避妊をやめてしまったみたいで。良太君の親御さんにお話しするようなことじゃないですが」
「じゃ、妊娠は良太が意図的に」
私は頭が混乱してきていた。
「美咲が良太君のような誠実な人と結婚して店を継いでくれて、孫が生まれて、深大寺さんにお参りできたら、もう思い残すことはありません。それで、つい良太君の言葉に甘えてしまいました。これは私のエゴです。ご両親にはお詫びの言葉もありません」
田野倉氏は半泣きで頭を下げた。
大輔がしみじみと言った。
「良太の奴、成長したな。綾子、お前、偉いよ。良太を立派な人間に育ててさ」
 私は横面を叩かれたような痛みを感じた。大輔は、父親の癌を知って本社での出世を諦め名古屋支社へ転勤した。きっと私に同行してほしかっただろう。でも、私は舅の介護から逃げた。それが大輔と私の破綻の端緒だったような気がする。良太は幸せのあるべき姿を知っている。周りの人々が幸せでなければ、自分の幸せも危うくなることを。
 ふたりがお盆を抱えて厨房から出てきた。
「さあ、僕の打ったおそばを食べてよ」
「今日はめん汁も良太さんがダシを取って自分で作ったんですよ」
美咲が自慢げにセイロを並べ始めた。
「父さん、今日は少し寒いから熱燗でも出そうか。天婦羅や板わさも用意するからさ」
「このそば、ホントに良太が打ったのか。腰があってうまいな。あ、酒はヌル燗がいいな」
大輔は料理を並び終える前にひとりだけ先にそばを食べ始めている。田野倉氏が言った。
「私もお酒をもらおうか。今日は良太君と美咲に店を任せたぞ」
 美咲のお酌ですっかり上機嫌の大輔は、田野倉氏と古くからの友人のように世間話に浮かれている。別れた若い彼女の話までして。
 昼時になり来客が多くなり始めたのを機に、名残惜しそうな大輔を車に押し込んで、だるま屋を出た。調布駅に向かっている。
「田野倉さん、お宮参りまで元気でいてくれるといいわね」
「ふわー、深大寺はお寺だから、お宮参りじゃなくて、お初参りって言うんだよ」
 酔った大輔は、欠伸をしながら、もっともらしく田野倉氏の請売りを言う。
「どうする、私達の離婚届。お初参りが終るまで市役所に出すのを待ってみようか」
 私のさりげない問いかけに大輔の返事はなかった。小さな寝息が聞こえてきた。

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<著者紹介>

関口 光司(東京都世田谷区/52歳/男性/会社員)

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