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<第8回・最終審査進出作品>「咲く 奏でる」 著者:サカナ 霧

グラウンドを横切って、小学校の校門を抜けた。深大寺通りの歩道を正樹は駆け下りた。
随分と前に、走る俊の背が見える。かなうはずはない。彼はクラスの男子達の中で一番、体育の成績がいいのだ。
 不動堂から斜めに、細い道へ入る。脇に並ぶ蕎麦屋や土産店を尻目に駆ける。
正樹にとってお寺はダサくて退屈な所だ。代わりにゲームをやりたいし、家で漫画やアニメが見たい。それにクラスの人間に会うとからかわれるから、なるべく避けたい。だが母親は休日になると「お寺まで散歩しよう」と言い出す。昼食を蕎麦で済ませて楽をしたいという魂胆だ。そして花がきれいとか、紅葉が美しいとか……大人の感覚は不可解だ。
 正樹は山門の前に到着すると、「待てよ、そんなに慌てなくてもいいだろ」とぼやく。
「待てるわけ、ないだろ」
 と、頭上から声がした。石段を見上げると、俊が山門の下で腰に手を当てて立っていた。
正樹は来た道を見た。
「なあ、やっぱり止めようぜ」
だが俊は石段を降りてきて、
「今更、なんだよ? お前だって、稲城アヤネの弱点を知りたいだろ?」
と、にやりと笑った。

稲城アヤネのことになると、俊はむきになる。彼女の澄ました顔を見るたび「あの長い髪の尻尾を掴んでやりたい」と憎々しく言った。
稲城アヤネは4年3組の中で目立つ女子だ。生意気で、男子全員の敵だった。
クラスの誰よりも身長が高くてすらりとしている。男子の誰かが女子をからかうと、関係ないのに出てくる。正義感が強くて口喧嘩も強い。下級生の世話もするし、運動や勉強もできるから、担任の長谷川も彼女のことをよく褒めた。ちなみに男子は長谷川に「先生」をつけないことにしている。長谷川は男のくせに、女子達の味方ばかりするからだった。

昼休みの教室で、稲城アヤネはいつものグループでおしゃべりをしていた。正樹達は漫画を読み回すふりをしてそちらに耳を傾ける。
あのさ、と稲城アヤネが女子達に聞く。
「お寺の絵馬って、やったことある? 縁結びって……効果、あるのかな?」
女子達は「さあ?」とか「私は信じる」とか答えた。稲城アヤネは少し困ったように「そう」とだけ言った。
正樹達は同時に顔を上げた。ピンと来た。彼女には好きなやつがいるのだ。
「やっと、あいつを泣かせるときが来た」
俊がにやりと笑った。そして正樹の耳元に顔を寄せると「深大寺、行くぞ」と言った。
正樹は頷いた。

山門をくぐって左手に朱印所がある。試しに女子が絵馬を求めに来たかと聞いてみたが、今日は見ていないと教えてくれた。
手持ち無沙汰に、カウンターに並ぶ五角形の絵馬に触れる。厄除け、開運、そして良縁。カランッと絵馬同士が軽い音を立てた。
俊が、
「そう言えば、長谷川も彼女と願いごとを書いたって言っていたな。ああ、彼女じゃねえな。婚約したんだから婚約者って言うんだ」
俊はにやにや笑って正樹を見た。
「なんて書いたんだろうなぁ」
「興味ねえよ」
正樹は突っぱねた。山門から下を見た俊が、
「やばい!」
と、声を上げた。そして正樹のランドセルを引っ張って鐘楼の陰に逃げる。しゃがんで山門のほうを覗いたが、観光客が来ただけだ。
「違う、本当にいたんだ!」
 俊は慌てて言う。正樹は「あ」と言った。
「もしかして、奥に行ったのかもしれない。縁結びのお堂は向こうなんだ」
「でも……絵馬は?」
「あっちには掛ける所があるけど……」
 正樹が説明すると、俊が「追いかけようぜ」と嬉しそうに立ち上がった。
 山門へ戻って、右へ折れる。確かに、ランドセルを背負った髪の長い女子が向こうへ行く。背が高く、足が長く、大人みたいにすたすた歩く。
「先周りをしよう」
正樹は深大寺通りに一度出た。案内所を右に走る。俊はその後ろをついて来た。
信号のある交差点を曲がると、参道に戻るのだ。だが少しだけ遅かった。彼女はすでにお堂へ手を合わせていた。
正樹達は、慌てて赤い花に縁取られたツツジの生垣に身を隠す。
稲城アヤネは絵馬掛けの前に立った。彼女の白くて細長い右手が、絵馬に触れる。
カラカラカラ……。
右から左へ。一番下の段が終わると、その上の段を鳴らして歩く。まるで不思議な楽器を奏でているようだ。正樹は息を飲んだ。
柔らかい音色の中、彼女はぴたりと歩を止めた。そしてランドセルから何かを取り出す。
ハサミだ、と気付いたとき。
彼女は静かにハサミの刃を閉じた。
ガコンッ!
と、絵馬が落ちる。
「えっ?」
声を上げたのは二人同時だった。
しまった、と思ったが遅かった。稲城アヤネは振り向くと、今まで見たことがないほど目を見開いた。そして彼女は、参道へ飛び降りるとなりふり構わず逃げ出した。
正樹は地面に残された絵馬を覗き込む。そのサインペンの文字は、毎日教室の黒板で見ているものと同じだった。

 夕食が終わった頃、稲城アヤネと彼女の母親が家に来た。
 母親は若くてとてもきれいな人だった。正樹は居心地悪く玄関に立った。
稲城アヤネはギュッと母親の腰にしがみついていた。母親の背中におでこを押し付けているから顔は見えない。だが、酷く何かに脅えているようだった。
「お寺で、何かをなくしたみたいなの」
と、稲城アヤネの母親が言う。
「でも何なのか、聞いても教えてくれないの」
正樹はごくりとつばを飲む。そして、
「おれは知らない」
「俊くんは、正樹くんなら知っているって言っていたわ」
あいつ、と舌打ちしそうになったが、
「おれじゃない。誰かが拾ったんじゃないの」
と、稲城アヤネに向かって言ってやった。
彼女は声を殺して泣いていた。母親に「これで納得した?」と言われると、小さく唸る。「じゃあ、月曜に」と言って二人は帰った。
正樹はリビングに戻ると、投げっぱなしだったベコベコの汚いランドセルから長谷川と婚約者の絵馬を出す。ハサミで切断された橙色のひもは、申し訳程度に残っていた。
テレビをつける。楽しみにしているアニメなのに、正樹の頭からは絵馬の落ちる姿が消えなかった。

 翌朝は早く起きた。母親は「休日なのに」と驚いていたが、ご飯を頬張るとすぐに外に出る。なるべく早く絵馬を捨てたかった。
 交番のある交差点を曲がって、坂道を下る。
 今日は信号の交差点から参道に入って、直接、深沙大王堂へ向かう。
足が重くて、まるでヘドロの中を歩いているみたいだ。試しに稲城アヤネの歩き方を真似してみる。足をできるだけ、遠くに、遠くに。だが5歩もしないうちに耐えられない。
 お堂が見えてホッとした正樹だったが、ツツジがガサガサッと動いて足を止めた。その傍から姿を現したのは、稲城アヤネだった。
 彼女は正樹を見つけると、
「笑いに来たの?」
 と、見下すようにあごを少し上向かせた。
「違うけど」
 正樹はそう言って、お堂への石段を上がる。そして一緒に探すふりをした。
彼女は腰を屈めてお堂の下を覗き込んだり、ツツジや草むらに首を突っ込んだ。そのたびに一本に結んだ髪は地面に着いた。
「なんで、稲城は……長谷川の」
「長谷川先生」
 稲城アヤネは冷たい声で言った。
「稲城は、長谷川が好きなのか?」
正樹は聞いた。稲城アヤネは顔を上げたが、服や髪についた赤い花の残骸を払うだけで何も答えなかった。
正樹はポケットから絵馬を出す。そして彼女に差し出した。彼女はハッとして立ち上がった。胸の中でちりっと何かが痛む。
彼女は一度、口元に絵馬を当てると目を閉じる。そして斜め掛けのポシェットから大量のリボンを出した。赤いものを選ぶと、絵馬に通して、切れた橙色のひもの代わりにした。
赤いリボンでくくりつけた絵馬は他と違って目立った。これは大丈夫なのか、と正樹は心配になって隣の稲城アヤネを見上げる。
彼女は静かに両手を合わせていた。
目を閉じると、まつ毛が長い。昨夜は寝むれなかったのだろうか。妙にその横顔が大人っぽくて、正樹は慌てて目を背ける。
稲城アヤネは「はい、あげる」と短く残った橙色のひもを正樹に押し付けた。
「自分で捨てろよ。いらない」
正樹が言うと、稲城アヤネは普段の澄ました顔からは想像出来ないほど、目を細めて笑った。そして彼女は軽やかに走り出す。
追い着けるはずがない。わかっていたが、正樹は長い髪をなびかせて走る彼女を目指して、石段を駆け降りた。


サカナ 霧(東京都世田谷区/29歳/女性/自由業)

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