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<第8回・最終審査進出作品>「風速十メートルの恋」 著者:橘田 賢

どこからともなく吹いてくる風が、わたしの頬を撫でて、髪を揺らして、そしてまたどこかへと吹き抜けていく。
初夏の深大寺は陽光に煌いていて、ここには希望ばかりが溢れているように感じられる。五年前にここを訪れたときも、同じように希望に満ちた光景だったのだろうと思う。
しかしどう記憶を手繰っても、当時の情景は浮かび上がらない。
それもそのはずで、当時のわたしたちは結婚を間近に控えていて、目の前の自然よりももっと高揚すべき出来事が控えていたのだ。
その幸福感は今でも、よく覚えている。
「どうしたの? にやにやして」
夫が、もうすぐ夫ではなくなる彼が、そう尋ねる。
「思い出してたの」
「いい思い出?」
わたしはそれには答えず、ただ微笑み返してみた。
 五年前、まだ吉祥寺には伊勢丹があった。ちょうどいいサイズの、デパートだった。そこで洋服や指輪を見て歩いた。わたしは参考までに、と前提を置いて眺めていただけなのだが、ピンク色の石がさりげなく、行儀良く収まった指輪に魅入ってしまった。
「いいよ? 予定変更して買っちゃう?」
 彼はそんな大胆な言葉を発した。
「だめよ。これから恐ろしいほど出費するんだから」
「恐ろしいほど?」
「そう。結婚指輪に結婚式。もちろん新婚旅行。これだけでもわたしたちの貯金は弾けるんだから。ビッグバンみたいに」
「ビッグバンみたいに?」
 彼はわたしの言葉にいちいち反応した。たしかにわたしは少しおかしな言葉遣いをするが、逐一反応する姿は可愛らしくもあった。
 伊勢丹の二階にあったカフェ・コムサという喫茶店に入って、冷静さを取り戻した。彼はブラックコーヒーで、これ以外のものを注文するところを見たことがなかった。
 それだけではない。彼はイタリアンに行けばたらこパスタ。中華料理ならあんかけ焼きそば。定食屋ならアジフライと、人生についてずいぶん細かい設計図を作っているのではないかと、そう疑いたくなるほどぶれない人だった。
 きっとこの人は女性もひとりに決めたら、とことんその人を愛するのだろうと感じた。そしてそれはわたしだと気づき、顔を赤らめてしまった。
「やっぱり衝動買いしなくて良かった」
「慎重だねえ」
「そうよ。その代わり結婚指輪はダイヤモンドにプラチナ。これ鉄板」
「鉄板?」
「そうよ。てっぱん」

 

この五年間で様々なことが起きたし、様々なことが起きなかった。例えばわたしたちは順調に貯金を貯めて、中古ながらも瀟洒なマンションを購入した。また、なぜだか分からないが、子どもには恵まれなかった。
わたしたちの間に確かにあった愛情は、燃え盛るような情熱から安寧となり、そして恒常的な何かに変容する前に、溶けてしまった。
強固な結晶だとばかり考えていた愛というものは、実は砂糖のように、脆いものだったのかもしれない。ふと目を離した瞬間に、なんらかの弾みであるいは外からの力が加わって、熱湯によって溶けてしまった。
「綺麗だよなあ。木々が」
夫は目を細めている。五年分歳をとったような、まるで変わらないような、陽光の中の彼はどちらとも言えなかった。
「お寺ってやはり落ち着くわね。それか身が引き締まる、かなあ」
「うん」
「永遠っていうのはとても残酷なことだと思っていたけれど」
名も知らない鳥が、影となって舞っている。鳥たちは悩みもなく、爽快だろうと考えるのは、きっと人間の身勝手な発想なのだろう。
「けれど?」
「憧れているのよね、きっと」
「永遠?」
「うん。ないと分かっているから、憧れているけれど、きっと窮屈で退屈なものだと割り切ろうとしているのよね。もう絶望的なくらいに」
「絶望的? 割り切りが?」
 わたしは笑うことで返事とした。子どものように言葉を繰り返す彼は、相変わらず可愛らしかった。
すらすらとわたしは話すが、特に根拠があって言っているのではなかった。ただ口から出てくる言葉たちを、フィルターにかけずに流していただけだった。
「波を永久に起こし続けるのが作業だとしたらさ」
「それは苦痛。もう、せっかくセンチメンタルなことを言ったのに」
「台無しだったね」
夫は笑いながら立ち上がって、「本堂のほうに行ってみよう」と手招きした。
その姿を見て、突如五年前も全く同じ仕草をしたことを思い出した。
再度考える。わたしたちは子どもに恵まれなかった。それはどちらの責任かは分からないし、そもそも責任などどちらにもない。めぐり合わせの問題だと、お互い考えている。憎みあっているわけでもなく、仲が悪いわけでもない。小さな喧嘩は絶えないが、その日のうちには仲直りもする。
ではなぜ別れるのか。問い詰められればわたしも夫も、答えられない。けれど一緒にいる理由も、お互い答えられない。
彼はしばらく歩いた所で振り返り、もう一度手招きした。
わたしは今まで幾度、このようにして彼に求められたろうか。
そしてわたしもどれほど彼を必要としたことがあったろうか。
きっと小さな信頼の積み重ねが、結婚生活だったのだろうと思う。
立ち上がって無意識にスカートを払うと、それを合図に夫が本堂へと走り出した。
急速に悲しみが、全身を駆け巡った。あのベンチには身を寄せ合って座る男女がいる。もちろんわたしと彼だ。この山道にも手を繋いで笑っているわたしがいる。あの蕎麦屋にも、注文をなかなか決められないわたしがいる。「壊滅的に決められない」と言うわたしが。そして「壊滅的?」と聞き返す彼が。
気がつけば、やって来る幸せに全身を広げて待つ、希望に満ち溢れたわたしが、この深大寺のいたるところにいる。
涙が出る前に、「待ってよ!」と大きな声を出した。
もう夫ではなくなる彼の名前を、久しぶりに大きな声で叫んでから、彼の元へと走っていった。
突然、やや強い風が吹いた。
風速十メートルくらいかな。わたしはそんな、ささやかだけれど大切な恋をしてきたのだ。


橘田 賢(東京都八王子市/36歳/男性/公務員)

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