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<第8回・最終審査進出作品>「わたしについて」 著者:常磐 倫子

 ねえ、老楊。あなたは今何処に居ますか。あなたがわたしにくれたおくりものをわたしは紡ぎ続けることができませんでした。あなたはいつかわたしに「僕と君は住む世界が違う」と言いましたね。ええ、その通りになりました。あなたは実業家として成功し、そちらの世界で名を馳せ、わたしはあんなに厭だ厭だと嫌悪していたオフィスレディーとなり、あの嘘のような向上心をなくして日々死ぬのを待っているようなものですから。十年ほど前、あなたとわたしはほぼ同じスタートラインに立っていましたね。いいえ、初めはわたしの方があなたより四歳年下で、あなたよりもわたしは有利だったのです。あなたと居るときはそんなことはこれっぽっちも思わなかったのに、いえ、むしろその年齢による経験の差を何とか埋めようとわたしは必死に努力していたのに、今こうやって毎日ぼんやりと生命をすり減らし、意味のない書類ばかり作り、同僚とも馬が合わず、ひとりで昼食のお弁当をつついている限りなく非生産的なわたしは文字通り敗北者です。今日も明日も明後日もわたしは単調な書類の山を片付ける為の栄養源としてあなたと過ごした夢のようだった時間に想いを巡らせることでしょう。わたしはあなたととても再会できそうにありません。何故ならあなたとわたしは住む世界が大きく異なっているからです。
 あなたとわたしは某大学院で出逢いました。年齢層が幅広いあの教室の中で黒縁眼鏡をかけて真っ白いシャツにジーンズをはいてわたしの隣で講義を聴いていたあなたは若々しくとても年上には見えませんでした。大学院で自己紹介を各自でして、教室の何人かと打ち解け始めたときのその何人かにあなたは入っていました。初めあなたが名前を老楊だと名乗ったとき、わたしはどうりで肌が綺麗だと思いました。あなたはとても勤勉で、真面目ですが、大人しい見た目とは裏腹に熱意を持った理想家でした。あなたの冷静でいて的確な意見を聞く度にわたしはあなたを尊敬し直し、あなたと話す回数が増えるにしたがってわたしとあなたはどんどん仲良くなっていきました。わたしはいっときはあなたと話すことが待ちきれなくて講義そっちのけだったことを覚えています。わたしはそれまでに恋をしたことがなく、これが恋愛感情だと気が付くのに随分と時間がかかりました。そしてかなり打ち解けた大学院が休みの九月頃、わたしたちは二人で初めてご飯を食べに行きましたね。わたしはあなたが奢ると言って笑ったので申し訳なさと嬉しさから思わずお蕎麦が食べたいと叫んでしまいました。静かな通りを歩いていると、わたしは知っている人に出くわしたらどうしようかとそればかり考え、でも誰かに見つかりたいという気持ちに自分でも戸惑いました。わたしがあれこれ考えて黙っていたからか、あなたは急に立ち止まりました。わたしは驚いて顔をあげ、横を向いているあなたの視線の先を追うと、小ぢんまりしたお土産屋さんがありました。そして、
「入ってみようか。」
 と微笑むあなたにつられてわたしはお腹を空かせたままそのお店に入りました。
 私たちはお店を出て目的の蕎麦屋に向かいました。そのとき、わたしはさっきのお店にあった白うさぎの人形のことを思いました。それは小さくてとても可愛らしく、手に取ってみたくなりましたが、わたしはその時その動作が「普通の女の子」を露骨に表しているようで、その時少しでもあなたと対等で且つ、「普通の女の子」にみなされたくなかったわたしは横目であなたをちらちら窺いつつその人形を何度も盗み見ていました。再び歩き出してしばらくして、さっきのうさぎをまだ未練がましく考えて下を向いているわたしの横でまたあなたは立ち止まりました。顔を上げて周りを見渡しても辺りには何もなく、涼しい風が草木をザアーと煽りました。わたしはあなたを見上げ、尋ねました。
「もしかして、お財布忘れたの。」
 あなたはわたしを見下ろして顔を緩め、とうとう吹き出しました。
「違うよ。さっきの君さ。凄く挙動不審だったよ。何か盗むんじゃないかと思ったくらい。店の人も君のこと見てた。」 
「違うの。あれはさっきの・・・」
「うん、可愛かったね。」
「そう、可愛かった・・・え。」
「欲しいなら、遠慮しなくていいよ。どうせ僕に変に気を回したんだろうけど。」
 くっく、と線の細い躰を折り曲げて、あなたは忍び笑いを漏らしました。
「日本人は、やっぱり変わってるよ。」
 わたしはあなたに笑われているのが下にみられているようで恥ずかしく、自尊心を傷付けられ、苦痛にさえ思いましたが、あなたの少年のような笑顔を少しの間見入ってしまいました。 
 蕎麦を食べながら、あなたは某有名自動車メーカーの社長である祖父に頼らず、自分の力で成功したいと目標を語りました。その為に今経済の仕組みやマーケティングを学び、世界規模で活躍する実業家になる、と。わたしはお腹がとても空いていたので自分はあまり喋らずに、ふんふんと相槌を打ちながらのど越しのよい蕎麦に舌鼓をうちました。会計のとき、今度は笑われまいとわざと堂々としていたらお札をつまみながらあなたはわたしのほうを振り返り、またすぐに下を向いて笑いを堪えているのが小刻みに震える肩の線で分かり、蕎麦屋のアルバイトらしい女の子に不思議な顔をされていました。蕎麦屋を出ると、あなたは
「さっきの土産屋に寄ろう。人形買ってあげるから。」
 と父親のように言いました。わたしはつい喜んでその場でスキップしてしまいそうでした。今思うとわたしは勉強ばかりしていた頭でっかちな人間で数少ない友達にもよく「小学生の女の子がそのまま大人になったみたいね」といわれ、からかわれていました。そんなわたしの人生最初の異性からのおくりものがそのうさぎの人形でした。もう何度も洗って黒く汚れてしまいましたが、どうしても捨てられないのです。三十半ばの女の会社の机の上にそんなものが置いてあったら友達なんてできる筈ありませんね。大事そうに赤い紙の袋に包まれた人形を持ったわたしの片手をあなたは握りました。わたしはその手を握り返し、大きく振りました。あなたはいきなりわたしの手を引いてずんずん歩き出し、深大寺という寺に向かいました。誰もいないその神社の真ん中まで行って、わたしを見て、
こう言いました。
「今僕は、何も持ってないし、日本人でもない。祖父は成り上がりにすぎないし、本当は僕と君は住む世界が違っているんだ。でも、僕は君を迎えに行きたい。だから、僕が自力で成功するまで待っていて欲しい。」
 わたしは最初いきなりすぎてあなたの言っている言葉の意味がわかりませんでした。でも、真剣にわたしの目を見で言うあなたにわたしは、
「じゃあ、老楊が実業家になって成功して、わたしはジャーナリストになる。そして老楊を取材してあげる。」
 と答えました。
それからあっという間に時が過ぎ卒業を迎え、
あなたは宣言通り実業家への道を歩み始めました。わたしも同じようにジャーナリストへの道を歩み始めました。しかしもともと思いつきで目指し始めたジャーナリストへの道はそう甘くなく、人間関係の協調性が大いに要求されるわたしにとって険しすぎる道に最初はめげずにがむしゃらに進み続けましたが記事を書いても一蹴され、時には回し読みして皆で笑われ、上司には気に入られず望んでいる仕事を回してもらえなかったり、自分の意向とは全く異なった取材ばかりで疲労困憊し、プライドの塊のような人間の集まった業界からいとも簡単に弾き飛ばされ、挫折し、田舎に帰った挙句、やっとのことでいまの会社にありつくことができたのです。ジャーナリストへの未練からたまに経済誌をよく見るのですが、そこに老楊、あなたが雑誌に大きく取り上げられていたのです。勿論あなたを取材したのはわたしではありませんでした。
 わたしは胃が急に痛くなり、その記事を最後まで読むことができませんでした。もう一度ジャーナリストを目指すことは出来ます。でももう最初のあのがむしゃらに頑張る熱意は戻っては来ませんでした。その癖、よくわたしはあなたを取材している夢さえみるのです。わたしは、あなたの白鳥のような成功に必死のばた足の努力が潜んでいることを知っています。だからわたしがあなたを羨ましいと感じたり、自分と較べて卑屈になったりするのはお門違いだと自分が一番よくわかっているのです。あなたはわたしに大学院でも人生のお手本をおくりものとして示してくれました。わたしはその残りの糸をほつれながらでもなんでもいいから最後までちゃんと編むべきだったのです。少なくともやるべきことは泣き寝入りして実家に逃げ帰ることではなかったのです。
 わたしはあなたが好きでした。好きという感情の半分は憧れと嫉妬でした。あなたが迎えに来る準備が出来ていてもわたしはそれを迎え入れる準備が出来なかったのです。それでもきっとあなたはわたしを受け入れてくれるかも知れません。でも、わたしはそこまで自分を辱めたくはないのです。あなたから何度電話が掛かってきても、意地でも出続けなかったのはそのためです。わたしは自分で認めるほどの見栄っ張りです。だから、記事をうまくまとめるようにあなたとの過去の綺麗な部分ばかりの記憶を編集して、必要なときにこうやって再生しなおしているのです。

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<著者紹介>

常磐 倫子(京都府京都市 /18歳/女性/学生)

   - 第8回応募作品