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<第8回公募・選外作品紹介>「傍に蕎麦」 著者:夏衣 ひかる

四月の下旬、サクラからはがきが届いた。家の中もすっかり片付いたから、五月の連休に遊びに来てって。だから行くことにした。今のところ手帳にはなんの予定も入っていない・・・。仲良し五人組みも一人二人と嫁に行き、残ったのはサクラと私だけ。そのサクラもついに今年の四月、みんなに祝福され結婚した。そして私、山野もみじはいまだに独身、秋には三十五歳となる。
サクラは結婚して東京都調布市に住んでいる。二人のために彼の両親が、実家から歩いて十五分ほどの所に新居を買ってくれたからだ。彼女は結婚と同時に、家まで手に入れた幸せ者なのだ。
「ねえ、いい感じじゃない。このマンション」
「うん。日当たりもいいし、窓が大きくて明るいでしょ。ね、ほら、あっちの方に深大寺があるのよ。後で一緒に行こう、ね。縁結びで有名なんだから」
サクラがあんまりしつこく誘うので、とりあえず行ってみた。拝んでも、大して効果はないと思う・・・。私は昔からそういうものを信じない人間だ。けれど彼女の気持ちは十分に分かっている。私の幸せをただ願っているのだ。世間は未婚の女に冷たいものだ。名前もよく知らない人にさえ、それをとやかく言われて気分が落ち込む時がある。さすがに母親だけは最近何も言わなくなったが・・・。私が今も一人でいるのは、何も特別なこだわりがあるからではない。何度か人並みに恋もした。ただ結婚という形で終わらなかっただけ。いい縁に出会えなかったという事だろう。
 連休も終わり、いつものように慌しく出社した。勤めている会社は、二年前にこの新しいビルの七階へと移転した。いつものようにエレベーターを待っていた。扉が開くと中から急に男が飛び出してきた。その拍子に肩がぶつかって、私の鞄がフロアーに飛んだ。男は頭を下げて謝りながら、ポケットから出したハンカチで鞄を拭きそっと差し出した。そして私が受け取ると、また背を向け駆け出して行った。よほど急いでいたのに違いない。でもその時の笑顔に誠意を感じた。こんな感じのいい人に出会ったことあったかな。なんだか胸の奥あたりが少しざわめいた。こんな気持ち、ずいぶん久振りのような気がする。まさか・・・いや、違う。絶対違うと思う。
翌日、今度はエレベーターに、息を切らせて男が飛び込んで来た。
「あの、これ上に行きますが・・・」
「あ、はい。どうも親切にありがとう」
眼鏡を掛けた彼はそう優しく言うと、先にエレベーターから降りた。なんて優しい人なの、ありがとうだなんて。じんわり心が温かくなった。一ヶ月ほど前、同じような状況で私はひどく怒鳴られた。
「お節介な女だな。そんな事、分かってんだよ。いちいち言うな、おばさん」
五〇くらいの男がはき捨てるようにそう言った。あんな男に比べたら、なんて天使みたいな人なの。これって、ひょっとして深大寺?でも待って、立て続けにこんなにいい男達に出会ったのに、このビルに来て初めてのことなのに、私は二人の名前さえ知らない。これを出会いとは断じて言わないだろう。
「おーい、そこのおばさん。なにフラフラ歩いてる」
振り返るとサブだった。本名は中野三郎。でサブと呼んでいる。彼は小学校からの幼馴染だ。
「考え事なんかしないで、ちゃんと真っ直ぐ歩けよ。危ないからな」
どうやら、出前の途中らしい。彼の家は何代も続いた、近所では有名な蕎麦屋だ。サブはサラリーマンをしていた時期もあったが、今は家業を継いでいた。言葉使いは悪いけど、優しいとこがあるいい奴だ。あれからまだ、二人には会えずじまいだ。もしまた彼らに会えたのなら、それを人は縁と呼ぶのだろう。私はただその縁を待つしかないような気がする。よく言う赤い糸とかいう物をずーっと待っているのかもしれない。いつか私にもきっと来ると・・・。
昼休み、珍しく鞄の中を整理していた。ない、ないよ、大切な私の財布がない。慌てているところに電話が入った。
「あ、はい山野ですが」
「あのあなたの財布、うちのビルの前に落ちていて・・・僕、これから届けようと思うのですが」
神様のようなお声だった。すぐに一階に下りていくと、微笑みながら男が立っていた。切れ長の目がすがすがしい、とても感じの良い青年だ。なんだか今度は胸がときめいた。その人は隣のビルの三階で働いていた。名前を青山聡と名乗った。本当に助かった。ありがたい。現金にカード、名刺に・・・。そのまま無事に戻ったのだ。それに今度は名前まで教えてもらった。これってもしかして・・・。そうよ今度こそ間違いないわ。深大寺、深大寺。サクラに電話しなきゃ。
大学を出て十数年働いている。最近では責任というものも付いてきて、仕事に追われる毎日だ。ドラマのようなロマンスなんて夢のまた夢。あっと言う間に三十歳を超えてしまった。なのにこんなに短い間に素敵な男の人に次々と出会えるなんて、ほんと信じられない。あおやま、さとし・・・か。 
何かお礼をと考えながら下へ降りていくと、隣のビルからちょうど彼が出てくるのが見えた。声を掛けようと走り出すと、私の目の前を、風のように通り抜ける一人の女がいた。次の瞬間、彼女は青山の胸に飛び込んでいた。それを彼も微笑みながら受け止めていた。二人は手をつないで、やがて楽しそうに街角に消えていった。あんないい男に彼女がいないわけないよね。あーあー、なんて馬鹿なんだろうって、自分が情けなく思えた。その日はさすがに、寄り道しないで帰る気持ちにはならなかった。一人で寂しく食事をした。久しぶりにアルコールも少々。
駅に降りたとたん、小雨まで振り出してきた。襟を立て早足で歩きだすと、向こうから男がフラフラ近寄って来た。
「おい、姉ちゃん。人にぶつかって置いて謝りもしないのか。この不細工な女が、何様のつもりだ。それにもう若くないんだろ」
この男、相当酔ってると見える。聞こえない振りをして歩き出すと、いきなり私の手を掴んだ。
「おっさん、その手放せよ。この女のどこが不細工なんだ。よく見るとかわいい顔してるんだぞ。さっさと彼女に謝れ」
怒ったサブと酔っ払い男の喧嘩になった。私は酔いもすっかりさめて必死で叫んだ。
「警察よ、警察が来た」
男は振り上げていた手を下ろすと、急いで駅の方へ走り姿を消した。私は気がつくと、駆け寄ってサブを抱きしめていた。ほんとうに嬉しかったのだ。私のことをかばって守ってくれたのが。それに私のこと、かわいいだなんて・・・。彼も黙って、私の背中をそっとやさしく撫ぜてくれた。
「もう、あんたも若くないんだから、手出したらだめだよ。でも、でも・・・ありがとう」
そう言うのが精一杯。後は涙でサブがよく見えなくなった。
 世の中は何が起きるか分からないと思う。このことが縁で、私とサブは付き合うことになった。こんなに傍にいたのに、今まで彼を恋愛の対象とは見ていなかった。あいつも同じに違いない。二人はあまりにも近すぎたのだ。そして今、サブをとても愛しく思う自分がいる。彼にも結婚したい相手がいたが、破談になったとうわさで聞いた。相手の親に、蕎麦屋の嫁にしたくないと言われたらしい。その人のことは、きっと本気だったに違いない。それから後は、彼の浮いた話を聞いたことがないから。
最近、私はサブのお店を会社帰りに手伝っている。彼の父親がぎっくり腰になり、忙しそうにしているのを見兼ねたからだ。
「ねえ、おじさんの腰が治ったら、一緒に深大寺に行こう。あそこの蕎麦もなかなかだよ。それにあんたが大ファンのげげげの水木しげるの家もそこから近いんだって。絶対行くよね」
神など信じていなかった私にこんな縁を取り持ってくれた深大寺。なんだか心からお礼が言いたくなったのだ。私には見える。手をつないであの参道を仲良く歩いているサブと私の姿が。

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<著者紹介>
夏衣 ひかる(神奈川県大和市/60歳/女性/主婦)

   - 第8回応募作品