<第8回公募・選外作品紹介>「ジャージと勇気」 著者:関根 淳一
「一目惚れって、信じるかい?」と言われて、僕はドキッとした。
言ったのはイケメン俳優だ。母は大笑いし、「今どき昭和のセリフを言いますかねー」とテレビに向かって突っ込む。僕は「昭和に失礼じゃん」と訳の分からない事を言い、そそくさと自分の部屋に戻った。シーンとした部屋に入ると、なにか色々恥ずかしくなってきて、ベッドにうつぶせに倒れ込み、枕に顔を埋めて小さく「ぬああー」って叫んでみた。
偉大なるボクサー、モハメド・アリがアトランタでオリンピックの聖火に火を灯した1996年7月20日、調布市で僕は生まれた。痛いからボクシングはやらないが、バスケの時はいつも、蝶のように舞い、蜂のように刺す、を合言葉にしている。
バスケットを始めたのは小学校の時だ。家の近くにある市営体育館のスポーツ教室で、ボールを触ったのがきっかけ。以来ずっと続けている。温水プールもあり、水泳も得意になった。初めてがいっぱい詰まった場所だ。
部屋で叫んだ後、体育館に向かった。夜中にこっそりプールに忍び込んで、気が晴れるまで一人でバタフライを泳ぐ為では、もちろんない。森の中を歩きに来たのだ。体育館には、神代公園と植物公園と深大寺が連なって、大きな森みたいになっている。むしゃくしゃしたり、気分を変えたい時はここに来て、散歩する事にしている。
夜空を見上げると、菜の花のような月明かりが、枝の隙間から差し込んでいた。深呼吸を何度かすると、体から汚れが出て、代わりに何か清らかなものが入ってくる。木から発散されるフィトンチッドとかいう成分がそう感じさせるのだって、誰かから聞いた気がするが、多分それだけではないはずだ。ふと気付くと、ずんぐりと大きな、猫のような妖精が森の中に、いたらいいんだけどね。
10分ほど散歩すると、頭の中がすっきりした。それから自分の事について整理してみた。現状把握から次の一手は出てくるのだ。
僕は三井翔、15歳。身長172cm、体重58kg。妹が一人。高校一年生でバスケ部。英語が得意で、数学は苦手。親友は五代陸と七瀬海、自分の名前が空だったら完璧だった。卒業式の日に、学年で一番可愛い女子に三人揃って告白し、仲良く撃沈。めちゃくちゃ落ち込んだが、今じゃ楽しい思い出だ。きっと恋なんてそんなものだって思ってた。
だけど今、僕はあの子の事を考えるだけで、水に潜ってるみたいに息が苦しくなる。好きにも種類があるようだ。あの子とは1年D組の島田里奈ちゃんの事で、弓道部期待の新人だ。入学して2カ月すればそれくらいの事は分かる。問題は、どうやったら知り合いになれるかだ。クラスが同じになるのを待つ?「やあ初めまして。友達になって下さい」って言う?どちらも違うはずだ、絶対に。じゃあ、どうする?分からない。
モヤモヤは更に大きくなってしまった。
次の日の朝練で、僕は怪我をした。レイアップシュートをゴールボードの底にぶつけ、それが跳ね返って目に当たるという、狙っても出来ない神業だった。先輩たちは心配をしてくれつつも、お腹を抱え涙目で、「わざと?ねえ、わざと?」と聞いてくる。ズキズキする左目を抑えながら、「もちろんです」と答え、保健室に向かった。
保健室の坂井先生に、「バスケ部の朝練で、ちょっと接触しちゃいまして」とだけ言い、左目を見てもらう。「特に問題はなさそうだが、念のため今日は部活には出ずに眼科に行きなさい」との診断と、眼帯をくれた。
教室に行くと、ホームルームが終わり、一時間目が始まる前の休み時間だった。自分の席に座ると、五代陸が話しかけてきてくれた。
「おはよー、翔。左目は大丈夫か?神業を繰り出したって聞いたけど」
「まあね。余裕だよ」
「そうか。眼帯が痛々しいけどな。そういや聞いたか?山口に彼女が出来たってよ。相手は1年D組の子らしいぜ」
「え?誰だよ。」僕はギクッとし、裏返った声で問い質した。
「えーと、確か、中田さんだったか、中井さん。・・・ていうか、お前さ、誰か好きな人いるの?D組に」
はうっ!さすが親友、鋭すぎる。僕は、「え?何で?山口に彼女が出来たなんてびっくりだよな」とごまかした。五代陸は疑わしそうな目で見てくる。その時、ちょうどいいタイミングで、一限の国語の先生が教室に入ってきて、話を終わらせる事が出来た。
その日は部活に出ないで学校を後にした。すっきりしない僕の気持を表わすように、空はどんよりと曇り、校舎や校庭を灰色に染めていた。灰色は体の中にも入り込み、動きを鈍くする。ノタノタと自転車にまたがり、校門を出る。やらなくちゃならない事が学校に残っているような気がするが、それが何なのか分からないので、戻る事も出来ない。僕は何故か小学校に寄りたくなった。
小学校の校庭では子供たちが元気に遊んでいた。野球だったり、サッカーだったり、バスケだったり。ドッジボールをしている子供達もいた。チームが二つに分かれ、激しくボールが投げ合われている。足元に引かれた白線に目が行く。そして僕は、大人になっていく自分達を連想した。
子供の頃は特に意識していなかった、男子と女子の間にある白線は、いつの間にか巨大な壁になり両者の間にそびえ立つ。相手の陣地に入ることも出来ない、ボールを投げることも出来ない、相手がいるのかどうかさえも分からない。ルールが根本的に変わってしまうのだ。
男子が女子と普通に友達になるという場面は減り、代わりに「交際する」という選択肢が出てくる。もっとみんなが自由に仲良くできたら良いのに、と思う反面、一人を独占したいとも思う。僕らの世界は広がっていくのだろうか、それとも狭まっていくのだろうか?
家に帰ってから眼科に行くと、水曜日休診、の掛け札が風に揺れていた。
木曜日と金曜日は雨だった。朝から晩まで小雨が降り続き、小さな水滴が傘を器用にすり抜けて、衣服を濡らす。不快指数は上昇し続け、誰もが口数を減らす。僕にとっては好都合で、必要な事以外は口を開かず、淡々と授業を受け、黙々と部活の練習に打ち込んだ。その間、ずっと考えていた。モハメド・アリの言葉を。
土曜日は打って変わって、晴れ晴れとした青空が広がっていた。降り続いた雨は、空気中の小さな汚れを洗い流してしまったらしく、マリン・ブルーの色がとても鮮やかだった。太陽の光は遮蔽物のない空を力強く進み、地表の人々に無数の矢を突きたてている。
モハメド・アリはこう言った。「リスクをとれない人間は、何一つ成し遂げることはできない」と。僕は何故リスクを避けてきた?人に噂されるのも、現実的な失敗を突き付けられるのも嫌だったからだ。
何もしないのは簡単だ。そうやって自分以外の人たちが動くのを傍観して、ある日、島田さん誰かと付き合ったってよ、ふーん良かったね、俺には関係ないけど。って言ったって良い。でもそれが、本当に僕が求めている未来か?
学校は休みだった。僕は朝食を食べ、少し漫画を読んで、それからジャージに着替えた。音楽再生機を左腕に装備し、イヤホンを耳に差し込む。衝撃吸収素材の入った靴を履き、外に出て、ジョギングを始めた。左目の腫れは、ほとんど引いていた。目指すは深大寺だ。
深大寺は縁結びの寺として有名なようだ。休日にもなるとカップルだとか女の人のグループだとかが結構来ている。今日、僕は、その人たちに交じってお参りをする。たったそれだけのことだが、僕にとってはリスクをとる最初の一歩だ。友達に見られた時に言い訳する材料としてジャージを着ている訳だけど、何だって最初の一歩は小さく弱々しいもの、のはずだ。
体育館の方向から神代公園、植物園を回り、神社まで走る。ゆっくりと走ったけれど、着いた頃には結構汗が出ていた。汗をタオルで拭い、イヤホンを耳からはずし、参道を歩く。ポケットの中には5円玉と50円玉が入っている。山門をくぐり、本堂に向かい、さい銭箱にお金を入れ、願いをかけた。
さあ、帰ろう。くるりと山門の方に向いた時だった。一礼をし、境内に入って来る人に気付いた。僕の体に電気が走る。島田里奈ちゃんだ。里奈ちゃんは、僕と同じようにジャージを着ていた。向こうはまだ気づいていない。
「あ、こんにちは。D組の島田さんですよね」
僕は勇気を振り絞って声をかけた。里奈ちゃんは小さく、「あっ」と言い、それから「こんにちは」と、挨拶を返してくれた。
風がひゅっと吹き、火照った体を優しく冷やしてくれた。僕の世界は、広がり始めた。
太陽の光を受けた里奈ちゃんの笑顔が、とても眩しかった。
関根 淳一(埼玉県戸田市/37歳/男性/会社員)