<第8回公募・選外作品紹介>「警視庁恋愛捜査課」 著者:中尾 克久
つつじヶ丘駅から15分ほどで、バスは深大寺に着いた。バスの座席に窮屈そうに座っていた佐々木孝二郎は静かに立ち上がった。油断すると、つり革をぶら下げているパイプに、頭をぶつけそうなほどの長身である。細見の身体にまとっているのは、およそ観光地には似つかない地味なスーツ。そのスーツの上には、細身の身体をさらに細く見せる小さな頭が乗っかっている。四十近い齢の割には、髪に白い物が目立つ。年齢と共に渋さの増したビターな顔には、人を見定めるような鋭い目がついている。ひと時も相手に油断を許さない顔つき。職業は男の顔を作るものである。そう、彼は刑事である。
「絶対に許さん。犯人を突き止めてやる」
力強く革靴の音を響かせながらバスを降りてゆく孝二郎。
発端は、一週間前の夜であった。被害者は我が娘。幼い頃から、孝二郎が大事に大事に育ててきた娘だった。「それなのに……それなのに……」孝二郎の胸を無念という真っ黒な黒雲が支配する。その日、孝二郎は大きな事件が一つ片づき、上機嫌で社宅のアパートに戻った。時刻は夜の八時頃。「ただいま」と、いつも通りに、錆の目立ってきた冷たい鉄の扉を開け中に入る。すぐに味噌汁の甘い香りが孝二郎を包む。一人娘の小学校6年生の彩夏が作ったものだ。一年前に妻が亡くなってから、毎晩欠かさずに晩飯を作ってくれている彩夏。病気がちの妻が、幼い頃から少しずつ料理を教えていたこともあり、味は美味かった。特に卵焼きと味噌汁は絶品だった。玄関から続く短い廊下を抜け、リビングに入り、孝二郎はふと足を止めた。奥の部屋から聞こえてくる携帯で話す娘の声。耳を澄ます。
「私にメロメロなのよ。でも、私も結婚したいと思っているの」
その瞬間、怒りがこみ上げる孝二郎。「誰だ! うちの娘をたぶらかす奴は!」忍び足で部屋のドアの前まで近づき、耳をドアに押しつける。
「うん……それでね、結婚できますようにって、絵馬を書いたんだ……そう、深大寺って縁結びの神様よ」
呆然と壁に掛かっている絵を見つめる孝二郎。彩夏が小学校3年生の時に描いたものだ。
クレヨンで描かれた孝二郎の似顔絵の横に「パパ大好き」と書かれてある。顔を手で覆い、近くのソファに倒れ込む孝二郎。
その日以来、孝二郎は仕事が手に付かなくなった。早退して、アパートに戻り、娘の部屋に忍び込んだ日もあった。今までは決して入らなかった娘の部屋。刑事がこんなことをとも思ったが、娘の為だと自分に言い聞かせた。初めて入る娘の部屋。ベッドの上には、ぬいぐるみのクマが置かれてある。かわいらしい置き物の小物が棚の上に並ぶ。女の子らしい部屋。机の上には教科書が整理整頓されて並べてあり、その横の本棚には、小学生向けの仕事図鑑が並んでいる。ほとんどが警察官について書かれたものだ。「大きくなったら警察官になって、パパと一緒に働くんだ」といつも言っていた娘の言葉を思い出す。孝二郎の視界が涙で歪む。
「彩夏が他の男に……突き止めてやる。逮捕だ! 別件であげてやる。相手が子供でも手加減はせんぞ!」
血眼になって部屋中を見回す。机の上にあるフォトスタンド。孝二郎にキスしている彩夏の写真。捜査時と同じく手袋をはめ、フォトスタンドを調べ始める孝二郎。フォトスタンドを分解していく。これ以上の分解は不可能という姿にまでなるフォトスタンド。しかし、別の写真が隠されているようなことはなかった。次に引出しを調べる。引出しの奥までしっかりと見る。捜査に見落としがあってはならない。と、先月、娘が修学旅行で行った日光でのクラスの集合写真が出てくる。写真に写っている男生徒達を鋭い目つきで眺める孝二郎。「誰だ。誰なんだ。こいつか? いや、違うな」長年やってきた刑事としての経験と勘を今こそ生かす時だ。精神を集中する。額から吹き出す汗。「サッカー部の優斗って子か。いや、野球部の翔太も可能性はある。いやいや、前にうちに来たあいつが一番怪しい。
そうだ、あいつだ。今考えると確かに怪しい。馴れ馴れしく娘を『彩夏』って呼び捨てしていた奴だ。名前は何だった? ちくしょう、思い出せない」
難航する捜査の手がかりを?んだのは、今朝の事だった。「そうだ、絵馬だ! 絵馬に相手の名前が書かれてある筈だ」ベッドから飛び起きた孝二郎は、休日であったが、仕事と娘に嘘を言って家を飛び出した。
深大寺前でバスを降りた孝二郎を、初夏にしては強い日差しが突き刺す。スーツの上衣を脱ぎ、Yシャツの袖をまくる孝二郎。足元から伸びた石畳の参道の一番奥に階段があり、その上に山門がある。参道の両脇には土産物屋や蕎麦屋があり、店員が威勢よく声を出し客を呼びこんでいる。観光客の間を、足早に縫って歩く孝二郎。額から顎に向って、汗が這い下りてくる。二の腕で拭き取ると、汗の匂いがツンと鼻をつく。一気に階段を駆け上がり、山門をくぐり抜ける。辺りを見廻し絵馬の場所を探す孝二郎。左手には朱印売場があり、右手には鐘楼がある。鐘楼では一人のお坊さんが鐘をついている。絵馬はない。左手の一段高くなった所にお堂がもう一つ見える。あそこだろう。捜査もいよいよ大詰めだ。心地よい風が背後から吹いて来る。常香桜から立ち昇る線香の奥深い香りが、はやる気持ちの孝二郎を追い抜いて行く。
お堂に向って歩いていく孝二郎。昂ぶる気持ち。それは、容疑者を割り出すあの瞬間にも似ていた。一段一段と階段を上る孝二郎。次第にお堂が全景を現してくる。階段を上がり切り、息を整えることすら忘れ絵馬を探す孝二郎。地面に滴り落ちる汗。乾いた地面にあっという間に吸い込まれていく。
「あった!」
左手の奥に、絵馬がたくさん掛けられている場所がある。大きな音を立てて孝二郎の全身に血液を送り出す心臓。ごくりと唾を飲みこむ。ゆっくりと足を踏み出す。絵馬の前には、一人の若い女性が立っている。絵馬に向って進む孝二郎。5メートル、4メートル、3メートル、2メートル。鐘の音、参詣者の談笑、子供のはしゃぐ声。それらの音が徐々に消えていく。
絵馬の前に立つ孝二郎。気持ちを落ち着けるかのように大きく深呼吸をすると、一枚一枚絵馬を確認し始める。「佐々木彩夏、佐々木彩夏……」上側の左端から辿っていく。食い入るように見ながら絵馬を確認していく孝二郎。1段目はない。2段目を見る。再び左端から一枚一枚確認していく。ない。3段目に移る。絵馬に顔がくっつかんばかりに顔を近づけて探す孝二郎。ない。また1段目に戻り、今度は一番上だけでなく、その下の絵馬も一枚一枚確認していく。この調べ方は、かなり
の時間がかかる。だが、捜査に抜けがあってはならない。執念だ。
「あッ!」
一枚目の絵馬をずらした間から『佐々木彩夏』という文字が見える。娘の字だ。間違いない。恐る恐る、表に掛かっている絵馬ごと取り外す孝二郎。取り外した絵馬を胸元まで引き寄せる。震える手で、ゆっくりと一枚目の絵馬をずらす。からからになる喉。覚悟を決め、思い切って一枚目の絵馬をずらす孝二郎。
「パパと結婚できますように!」
思わず吹き出す孝二郎。笑顔になる。と、突然、孝二郎の腕を誰かが掴む。驚いて腕の主を見る孝二郎。先程、絵馬の前に立っていた若い女性だ。
「何するんですか!」
「ええっ?」
眉間に皺を寄せている若い女性。よく見ると美しい女性だ。亡くなった妻の若い頃によく似ている。
「人の絵馬、盗まないでください!」
「えっ? あっ、違う。誤解だ」
「返してください! それ、私のです!」
絵馬に目を落とす。娘の絵馬を覆っていた一番上の絵馬。
「素敵な男性と巡り合えますように!
福田美咲」
声に出して読んでしまう孝二郎。
「読まないで下さい!」
顔を真っ赤にして絵馬をひったくる美咲。
「あっ、すまん」
「最低だと思います。人の絵馬を盗むなんて」
「盗もうとしたんじゃない」
「どうりで何度お参りしても御利益がなかったわけだわ。あなた、私の絵馬をいつも盗んでたでしょ!」
「そ、そんなことするわけないだろ」
「現に今やってたじゃないですか」
「そ、それは……」
口ごもりながらも、若い女の気の強い所も妻と似ているなと思う孝二郎。かわいらしい女性だなとふと思う。孝二郎の心臓の動きが再び早くなる。「あっ、何だ? こ、これは……い、いや、いかん。妻は去年亡くなったばかりだ。不謹慎だ……でも……」
「やっぱり答えられないじゃないですか」
孝二郎を問いつめる美咲。娘の「深大寺って縁結びの神様よ」という言葉が頭をよぎる。近くの蕎麦屋の暖簾が目に入る孝二郎。自分でも、思いもよらない言葉を発してしまう。
「ちゃんと説明しますから、そこで蕎麦でも食べませんか」
「ええっ!?」
驚いて孝二郎を見つめる美咲。二人の間を奇妙な沈黙が包む。と、美咲のお腹が鳴る。真っ赤になり俯いてしまう美咲。さすがのベテラン刑事でも、美咲が俯いた本当の理由には気付かなかった。
中尾 克久(東京都江東区/39歳/男性)