*

<第8回公募・選外作品紹介>「雨」 著者:綾瀬 透

 護摩木の裏に書いた祈りを、香織さんは最後までおしえてくれなかった。
 あのとき、香織さんは空を見上げて「いつかね」と言った。そのとき、雨が降りはじめた。僕らは、抗えない現実と日々に捨てなければならない何かを悟り、まるでハナビラが千切れるように、山門の下で別れた。
――以来、香織さんには会っていない。そのいつかも、訪れてはいない。石畳の道。数多の緑がもたらした風。十年もの長い歳月を経た今、僕はあの日の雨と深大寺の情景をはっきりと覚えている。
「ねえ厚。これ似合うかしら」
 ふと声がかかった。現実に戻り、そっと振り返った。そこに、純白のドレスに身を包んだ恋人が試着室で微笑んでいた。そう。僕にも守るべき人が出来た。十年とは何かが過ぎ、何かが進む。それだけの長さでもある。
僕は心から言った。
「ああ。すごく綺麗だ」
「本当」彼女は髪を踊らせ鏡に振り返った。「一生に一度の結婚式だもの、迷っちゃう。うーん……あ、ねえ厚。まだ、雨降ってる?」
「え?」思わず聞き返した。「雨?」
「ええ。午後にはやむって聞いたんだけど。帰ったら、洗濯物干さなきゃ」
「そっか」頷いた。そうだね、と返しショップ前の通りへ目を向けた。路面が、黒く濡れている。「ああ。由香、まだ、雨は降ってる」
 音のない、細い雨だった。
 その雨を、僕はただ眺めていた。雨は、こうして優しく残酷に、あの日を思い出させる。

「――厚君って、きっと純粋」
「え?」
「好きになったら、一途になるタイプ。違う?」
 木漏れ日の下、香織さんは目をほそめて言った。ゆるやかなウェーブのかかった髪が参道を抜ける風にゆれ、甘い芳香が届く。思わず胸が跳ねた。僕はそっと、憧れを抱いた目を香織さんに向けた。アルバイト先のデパートで出会ってから三ヶ月。当時十八歳の僕は、十歳も上の女性が抱くコケティッシュな魅力に抗う術を知らない子供だった。
 近くの店で、風鈴が鳴った。午後の到来を知らせるような確かで軽やかな音色だった。梅雨時ではあったが、深大寺は緑が豊かで涼しく、梅雨をわすれさせる心地よさがあった。
 目の前をハナビラがよぎった。何の花だろうと思ったとき、ふと腹が鳴った。そういえば緊張して何も食べちゃいないのを思い出した。恥ずかしさを感じながら顔を向けると、香織さんはバカにするでもなく、いつも見せる優しげな笑みで僕を見ているだけだった。
「お蕎麦でも食べよっか」優しげな声で、香織さんは言った。
柔らかな手が僕の頭を撫でた。香織さんの手は温かかった。立ち上がり僕の手を引くと、近くにある蕎麦屋に歩き出した。細くしなやかな腕に、痣がある。転んだのだろうか。
 青木屋という店にはいると、僕らは座敷にあがり、蕎麦を頼んだ。運ばれてくるのを待つ間、僕らは無言で店の隣に作られた人工池を眺めていた。鯉が泳いでいる。遠いひつじ雲の下、灯篭の優しげな光の中、水流のせせらぎにししおどしの軽やかな音色が静けさを実らせている。小さな幻想感の情景の中、やがて、場にひとすじの風が凪いだ。
香織さんに向かい、崩していた足を直した。今日こそは、という決意があったのだ。
「香織さん」
 名を呼ぶと、そっと僕を見た。
「なあに?」
「あの、」僕は言った。「こないだも言いましたけど。その、やっぱり僕と付き合ってほしいんです。僕は本気です」
 香織さんは、表情を変えず僕の告白を聞いた。その顔に一体どんな感情が含まれているのか、僕にはわからなかった。ただ香織さんは、いつも僕に向けてくれるやわらかな笑みをうかべただけで、そっと、首を横に振った。
「ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っとくわね。だって、私には夫がいるもの」
「でも。それじゃ僕が奪ってしまえばいい!」
 思わず声が荒くなった。店にいた客の視線が、僕たちに集まった。香織さんは動じることなく、し、と唇に人差し指を当てた。
 再び、僕と香織さんの間に沈黙がおりた。
 艶やかな水気のある蕎麦は喉を滑り、胃を満たしてくれたが、気分は落ち込んだままだった。先に食べ終えた僕は、香織さんを見つめていた。香織さんは何も言わなかった。
 会計時、財布を出そうとした僕の手を香織さんは制した。香織さんはいつも僕の分まで払う。僕は、財布を出すことすらさせてもらえない。子供なのだ。
 店を出たあと、僕たちは何をするでもなく参道を歩き、店をひやかした。ラムネと竹トンボを買い、周辺を一通り廻った。足が疲れ、ベンチに座った僕らは側溝の小川で自由に滑るアメンボを眺めた。アメンボ、か。香織さんは水辺を眺め、何故か寂しそうに呟いた。
「私も、アメンボになれたらいいのに」
僕には、その言葉の意味はわからなかった。
 満開のツツジが、そっと、風にゆれた。

「ねえ厚君、護摩木やらない?」
 薄い西日が差しこみはじめたころ、元三大師堂前で止まり香織さんは言った。歴史に彩られた建造物を見上げつつ僕は頷いた。僕らには少し前から会話がなかった。香織さんの背中は小さく、どこか希薄感に染められていた。今思えば、僕はそのときこれでもう最後なのだとどこかで気付いていたようにも思う。
 百円を供え、細長い護摩木を手にした。説明書きの通り表に名前を、裏には祈願する言葉を書いた。願いを込めた奉納が終わったあと、本堂へとつづく階段をおりた僕らは、常香楼の前で立ち止まると自然に向かい合った。
「厚君は、どんな願い事書いたの」
「僕?」ポケットに手を入れ、遠くをながめた。「僕は、香織さんと結婚出来ますように」
「――そう」香織さんはほんのわずか、哀しげな顔を見せた。でも、それは文字通りのほんの一瞬だった。そして言った。「じゃあ、来世で私が独身だったら貰ってくれる?」
 ふと、涙があふれそうになった。僕は、来世ではなく、この時代で香織さんと生きたかった。だがその想いは口には出来なかった。してはいけないのだと悟っていた。困らせたくなかった。香織さんのことは間違いなく好きで、だがこの想いは、憧れが見せる直情的な幻だったのかもしれなかった。例えそれが、焦がれるほどの恋だったとしても。
「香織さんは、何を書いたんですか」
 涙を堪え聞いた。香織さんは少し首を傾げたあと、腕を後ろで組んだ。
「今日はダメ。また今度、いつかね。教えてあげる。そうね、じゃあ二十歳になったら」
「何ですかそれ。ずるいで――」
そのとき、ふと冷たい何かが頬にあたった。思わず、驚いて言葉をなくした。
二人、同時に空を見上げた。いつしか、鈍色の雲が厚く広がっていた。雨だ。水滴は徐々に量を増し、地面を黒く変色させていく。
「雨だね」香織さんは言った。「帰ろう、か」
「……はい」力なく言って、歩き出した。
 そのとき、香織さんがそっと手を繋いできた。僕も強く握り返した。辺りの観光客が走って本堂を去る中、僕たちはゆっくりと歩き山門を抜けた。人気はない。階段をおり、三叉路の中心で向かい合うと、香織さんは僕を見つめ、そしてゆっくりと顔を近づけてきた。
 ――緊張しないものなのだ。そう、思った。
 僕たちはずぶ濡れになった。香織さんは笑った。いつものような、やわらかい笑みだ。
 香織さんは、そっとバッグから何かを取りだした。それは、先ほど買った竹トンボだった。いくよ、そう言った香織さんは柄の部分を両手で挟み、竹トンボを勢いよく上空へ飛ばした。雨の中、嘘であるかのように、竹トンボは高く空へ舞った。
 僕らは、それをきっかけに背を向け歩きだした。帰る道は違かった。背後で、竹トンボの落ちた音が小さく聞こえる。また会える。そう願っていた。いつかと言ってくれたから。
 ――だが結局、僕は、願い事の正体を聞くことはなかった。
 一年後、僕の想い人は、突然としてこの世を去った。原因を知り僕は泣いた。前々から続いていたという家庭内暴力がエスカレートし、結果亡くなってしまったとのことだった。香織さんが死んだ日。それは、僕が二十歳を迎える、たった一カ月まえのことだった。

「お待たせ」
 彼女が試着を終え、シャツにジーンズのラフな姿で真っすぐ僕の元へ歩いてきた。
「決まった?」
 そう尋ねると、彼女は満面の笑顔で頷いた。
「うん。さっきのにする。あぁ、楽しみだけどこれからも大変なんだよね。色々とさ」
 言って、腕を組んできた。僕らは店員に礼を述べ店を出た。雨はまだ降っていた。
 並んで歩く中、僕は言った。
「なあ、いきなりなんだけどさ。これからちょっと、深大寺に行っていいかな」
「深大寺?」彼女が首をかしげた。「深大寺って、……調布だっけ?」
「そう」
「まぁ、いいけど。でも、なんで?」
 腕時計を見た。まだ閉店には間に合うだろう。僕はゆっくり、空を見上げた。遠く、一面にあの日のような雨空が広がっている。僕は手をこすり合わせながら、いつかの風景を思い描き、静かに呟いた。
「竹トンボを、飛ばしたくなったんだ」


綾瀬 透(東京都豊島区/28歳/男性/接客業)

   - 第8回応募作品