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<第8回公募・選外作品紹介>「願かけダルマ」 著者:立山 路紗

あの日もこんな雨だったな――人気のない参道を歩きながら、ふと知子は中学を卒業する春にこの深大寺のだるま市に来た時のことを思い出した。
自分の歩く前をちょっと左右に揺れながらゆくピンクの花柄の傘は合唱部で親しかった隣のクラスの美奈のもの。その横に並んだ透明のビニール傘の膜に流れる無数の水滴とその向こうに見える黒い学生服の背中。その帰り、「三上君、もうすぐ引越しちゃうんだって。卒業式も出ないって」とすっかり意気消沈した美奈に告げられて胸が締め付けられそうになったあの日。その数日後に三上は周囲の誰にも行き先を教えないまま、突然引越してしまった。「母子家庭だったからね」としたり顔で噂する同級生もいた。だったら何だと言うのだ、と知子は心の中で苛立ちながら、三上の消息を尋ねてみたが、やはり何もわからなかった。
あれから、もうすぐ二十年も経つのか、と軽く頭を振ってから知子はバス停から山門に向かった。
調布育ちの知子には、正月やだるま市の日に賑わう深大寺の参道は馴染みの場所の筈だった。だが、こうして会社の代休をとって六月の平日の午後に訪れてみると閑散として別の場所のようだ。だるまを納めよう、と急に思い立って来てしまったものの、どうするのか知らなかったので、山門を入ってすぐの札所で案内を請うた。目入れをしていないままでも良いのだろうか、と少し心配だったが、応じた和装の青年が笑顔で
「かけた願いや一緒にいようというお気持ちが変わったダルマさんもお焚きあげできますよ。そう難しく考えないで大丈夫です」
というのを聞いて安堵する。
 ダルマは今年の正月に妹夫婦が深大寺で買ってきたものだ。この数年、暮れから妹夫婦が子連れで帰省するのに合わせて新年に調布の実家を訪れ、両親と皆とで揃って初詣をするのが知子の正月の過ごし方となっていた。だが今年は知子は新年の朝食を皆と共にしたものの、体調がすぐれないと言って深大寺の参詣に加わらなかった。三年間の交際を経て結婚を考えた男性との関係を解消したばかりの身には、こういう家族行事が応えるものである。破綻の原因が三十代半ばなど嫁もらって何人の孫の顔が見られるのか、という先方の母親の言葉とあれば尚更のことだ。
「あの子ね、お姉ちゃんはいつもでも自分の上を行って、勉強でも何でも敵わなかったけど、親に初孫を抱かせるのは自分が先って決めてた、なんて言うのよ」
 妹のそんな言葉を母の口から伝えられたのは、一人目の甥が生まれた年のこと。もう七年も前のことだから母は覚えていないかも知れない。だが以来、妹が何かにつけて夫と子ども達を伴って実家を訪れ、両親が孫へのサービスにかかりきりになる様子を見たり聞いたりする度に知子はそれを思い出してしまう。子どもの頃から何かと姉と張り合おうとし、親のいないところでは挨拶も返してくれないことが多かった妹とは元々仲が良いわけではなかったのだが。
「これはお義姉さんにお土産」と官僚らしい卒のなさで義弟から差し出されたかぼちゃほどもあるダルマの大きさを見て、知子はそれが子ども達にやったお年玉の金額につり合った返礼のつもりなのだと察したのだった。
 礼を言って受け取り、アパートに持ち帰ったものの、そんなダルマに願をかけようという気にもなれず、かといって縁起物だけに捨てるのもはばかられたので、ダルマはずっとビニールに入ったまま部屋の棚に放置されていた。それを何となく目障りに感じる自分も嫌になってしまい、人出の少なそうな平日に代休が取れた時、知子は元の寺にダルマを帰してやろうと思い立ったのである。
教えられた石の階段を上りきって大師堂に着くと賽銭箱の横の台に「お焚きあげ」と書いた箱がすぐに見つかった。両目とも白い目のままでごめんね、心の中で言いながらそっと置き、木箱の中でちょっと窮屈そうなダルマに向かって手を合わせた。
 その時、急に背後がピカリと光った気がした。雷だろうか、と知子は振り返ってしばし雨空を見上げる。
「あの、小川さん?」
 突然、聞こえたのは雷の音ではなく、知子の苗字を呼ぶ大きな声だった。視線を落としてみると境内の上がりきったところに透明のビニール傘を差した紺色のスーツ姿の大柄な男が立っている。と、思いきや男は「小川さん?すげえ!本当に?」と言いながらこちらにグングンと歩いて近づいてきた。いぶかしげな知子の表情を物ともせずに男は続ける。
「俺、三上一輝だよ。中学の時、三年五組で一緒だった」
 何ということだ。あの頃よりすっかり恰幅がよくなっているけれど、目元や唇を尖らせ気味に話す表情には、確かに先ほど思い出していた中学生の面影が認められた。
「本当に驚いたよ。こんなところで小川さんに会えるなんて。俺、出張で東京にきてこれから新幹線で大阪に帰るんだけどさ、急にこの辺りのことが無性に懐かしくなって、そうだ深大寺だ!ってタクシーで来たんだ。あと三十分ぐらいしかいられないんだけど、お茶でも飲んでいかない?」
ふたりは門前の茶屋に入った。心太ふたつの注文を聞いた店の者が離れると三上がいたづらっぽい目をして言った。
「あのさ、中学の卒業式の前に一緒に深大寺に来たの、覚えてる?」
「ああ、合唱部の河村美奈が三上君にゾッコンでね。縁結びの深大寺で三上君とデートしたいから同じクラスの私が誘ってくれって頼まれたんだよね。三上君が河村さんなんてよく知らない、お前が来ないなら行かないなんて言うから、私はお供のお邪魔虫でついてっちゃって」
「俺はさ、小川さんのことが好きだったんだぜ。あの時、もう引っ越すことになってたんだけど、ここでダルマ買ってさ、いつかまた小川に会えるようになんて願かけたんだから。子どもみたいだろ?でもあの願い、今日叶っちゃったんだからすごいよなあ!」
「ええ?それは知らなかったわ。でも二十年後じゃ、もう時効ね」
知子は、胸に広がる動揺を抑えながらおどけるように笑った。本当はうすうす気づいていた。あの頃、同じ教室で三上の視線が自分を追っていたことに。美奈との友情のほうが大事、と優等生ぶって自分に言い聞かせつつ、本当は年上の友人も多く大人びた三上と男女の仲になるのが怖くて、三上に惹かれる気持ちを抑えていた自分。美奈のため、と言いながら三上の誕生日や血液型を調べては星占いの本を見て一喜一憂するだけに終わった初恋を三上が引っ越した後になって悔いた自分。
でもあの頃の想いを今更告げる気持ちは知子にはなかった。さっき三上が茶屋の品書きを手に取った時、左の薬指に銀色の指輪があるのが目に入った。切なくがっかりする気持ちが全くなかったと言えば嘘になるだろう。でも、そんな自分を認められる程度にはあの頃より大人になったということか、と知子は何だか可笑しくなって参道の方に視線を移した。三上がいま幸せなら、それでいい。それがずっと心の片隅のどこかで気になっていたことなんだから。
心太が運ばれてきて、ふたりの話題は他愛ない思い出や同級生の噂話に移った。少し経って三上が「折角深大寺に来たんだから、やっぱり蕎麦も食いたかったな」と言いながら腕時計を見た。
「もうすぐ俺、タクシーを呼んである時間なんだけどさ、その前に小川にダルマを買わせてよ。俺の願いが叶ったんだから効果は保証つき!」
 ふたりはタクシーやバスの乗り場のある出口に向かって参道を歩き、途中の店で知子のためにダルマをひとつ買った。
待っていたタクシーの後部座席に乗り込む三上に傘を差しかけてやると、一旦車内に入った顔がまたこちらに出てきて「調布の駅まで一緒に乗ってく?」と言った。かすかに男物の香水が漂うのを感じながら知子は首を横に振り、「買い物で寄るところがあるから」と笑顔を作った。
「元気でいろよ。ダルマ、絶対にご利益あるから、いい願いをかけろよ」
三上が名残惜しそうに言い終えるとタクシーの扉が閉められた。
小雨の並木通りからその車が見えなくなるまで見送ってから、知子はバッグからもらったばかりの真っ赤な小ぶりのダルマを出してみる。
来年からは明るい気持ちで初詣にこられそうな気がする。誰かの脇役としてではなく、自分の新年に思いを馳せながらお参りできそうな気がする。
「ねえ、今度はちゃんと実るように頑張ります。だから誰かに出会わせてね」とつぶやく知子に、ダルマは手の平の中で白い目のままニッコリ微笑んだかのように見えた。

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<著者紹介>

立山 路紗(東京都/女性/アルバイト)

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