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<第8回公募・選外作品紹介>「あの木の下でもう一度」 著者:井上 季子

 十五分に一度到着するバスを、ベンチに座ったまま、既に五本も迎えてしまった。
 深大寺に一番近いバス停だからか、毎回多くの人が降りる。親子やらカップルやら。
 経過した時間。一時間十五分。後一本、後一本と、延ばし延ばしにしてここまで待ってしまった。少しお腹も空いてきた。
 今日は梅雨の合間の晴れ間、というやつで少し日差しが強い。でも、時々、風がふわりとうなじを撫でていくので助けられる。
 何度も出し入れを繰り返している封筒を再び鞄から出した時、足に蚊が止まった。
 そいつを平手で叩き、ふと見ると一時間程前に通った親子が再び通りがかった。
 そろそろ行くか。
 目的地まではここから五分とかからないのに、どうにも前に進めないでいた。
 「優花?」
 決して力強くない声が耳に入った。少し離れた声の方向に私を凝視する男が立っている。
 もたもたしていたら、あちらからいらっしゃった。そう、私はこの男に会いに来たんだ。
       * * * 
 俺はとにかく動揺していた。いつも一人で来る場所に、二人でいる。それだけのことなのに、目の前のいつもと違う光景に落ち着かない。
 既にざる蕎麦を注文したのに、優花はメニューを見続けている。
 随分大人っぽくなった。けれど、最後に見た十年前の面影も残っている。
「さすがに大きくなったなぁ。背はもう一番前じゃないのか?」
 優花はとにかく体が小さく病気がちな子供だった。今も喘息は出るのだろうか?
「もう、一番前とかないし」
 優花が生まれたのは俺が三十歳の頃。俺は昔より骨ばった体つきになり白髪も増えた。
「もう二十歳だろ?」
「年齢、覚えてるの?」
「お。さすが俺も親だな。当たった」
 ピースサインを出した俺に「最低」と優花が言葉を吐き捨てた。
 目の前に蕎麦とだし巻き卵が置かれた。ここのだし巻きは絶品だ。一人で食べるには少し大きいが二人だと丁度良さそうだ。
「草履みたい」 
 素っ気なくつぶやく声が涼子に似ている。
「味はいけるから」
 箸で卵を切り分けながら今の気持ちを鎮めようと思った。声もだが、伏し目がちになるとその表情がますます涼子に似ている。
 涼子は元気かと尋ねようとした瞬間と優花が衝撃の言葉を口にしたタイミングは、ほとんど同時だった。
「お母さん、死んだんですけど」
       * * * 
 私は、今流れ続けている重い沈黙に、本題は蕎麦を食べてからきりだせばよかった、と心の底から後悔した。 
 目の前の男は目を泳がせながら、お手拭きで手を拭いて、やっと言葉を吐いた。
「…いつ?」 
 母は三週間前に突然死した。急性の心筋梗塞。働きすぎが原因では、と言われたが、死んでしまった今は原因なんかどうでもいい。
「おばあちゃんが連絡しなくていい、って」
 男は「そうか」と呟いて、またお手拭きで手を拭いた。
 私は、蕎麦を口にした。
 この町には蕎麦屋が多い。十年前、この男と母と三人でこの町に暮らしていた時も、蕎麦屋に行った。しかし、母と二人でだ。母はこの男が暴れ始めると、私の手をとり蕎麦屋へと逃げた。おとなしそうに目の前に座っている男は、酒の力を借りると大騒ぎするアルコール依存症だった。
 この男の元を出て、母と祖母と三人で暮らし始めてから、母はスナックで働きはじめた。「酒飲みには慣れてるから」と。
 男がすごい勢いで蕎麦を食べ始めた。
 私は持って来た封筒はまだ出さずに、草履のような卵焼きを口にした。とても上品な味だ。見た目とは違うことが世の中には多い。この男だって昔から外見はおとなしかった。 
「食べたら行くぞ」
 蕎麦を食べ終えた男が力強く言い放った。
 おかしい。酒は飲んでいないはずだ。 
       * * * 
 涼子が死んだ。涼子が死んだ。りょうこがしんだ。リョウコガシンダ。
 俺は心の中で呪文のように繰り返した。
 勝手なものだ。いつかまた会える日が来るのではないかと期待していたなんて馬鹿馬鹿しすぎて笑える。というかそんな思いを抱いていたことに今、気づいたことにも笑える。
「ちょっと、どこまで行くの?」
 優花が俺を追うようについてくる。
 深大寺には涼子とよく来ていた。まだつきあっていた頃。蕎麦を食べて、お参りをして、縁結びをしてくれる神様なんだ、とか言っては笑いあった。優花が生まれてからも三人で来ていたが優花は覚えているだろうか。
 本堂の側にあった木を確かめよう思った。
 ムクロジの木。青々とした葉をつけ、隙間から溢れる日の光で鮮やかに彩られている。
 風が凪いだ瞬間、パラパラと黄色い花が降り注いできた。梅雨の今の時期は、丁度花が盛りを迎えて落ちる頃なのだ。
 花を拾い、優花の掌にのせた。
「王冠みたい」
 涼子はこの黄色くて小さな花が好きだった。朝一番に来ると木の下は、夜の間に降り積もったムクロジの花の絨毯で覆われていた。そこに座り、嬉しそうに笑う涼子が好きだった。
 ここには涼子との思い出が多すぎる。
 涼子がいなくなってから、本堂までは来ることができなくなった。 
       * * * 
「優花の名前はこの花からきているんだ」
 男が花を拾いながら言った。
 母に聞いたことがある。優しい黄色の花を咲かせる木があると。
「もう涼子はこの花を見れないんだな」
 淋しそうに呟くこの男の後ろ姿には、酒を飲んで暴れていた頃の勢いが感じられない。
 人は年を取るのだ。私も十歳から二十歳になった。好きな人だってできた。
 私は鞄から封筒を出して男に渡した。
 母の字で「大森保様」と書いてある。
母が死んで遺品を整理していたら出て来た、この男宛の母からの手紙。封は閉じていなかったので、中身は祖母と一緒に読んだ。
 男は封筒を見つめたまま中を見ようともせず、ズボンのポケットにしまいかけた。
「読まないの?」
「涼子からのラブレターは一人で読むよ」
 少し嬉しそうな表情で言った男は、先ほどと違い飄々として見えた。もっと慌てふためくかと思ったのに想像とは違っていた。
 母はこの男に殺された、と思っている。この男がもっとしっかりしていれば、この町を出ることもなく、その先の町で働きすぎることもなかったんだ。 
 この男は、私の実の父親は、母を殺した。
 手紙の内容も理解出来ない。こいつが憎い。母は新しい恋をして幸せになれたはずなのに。
 「なんでそんなに落ち着いているの? 最後どうだったか、とか気にならないの?」
 「聞いても涼子は帰ってこないだろ? それより、それを知らせるために優花がここに来てくれたってことの方が重要だ。涼子に感謝だな。ありがとう」
 拍子抜けしてしまう言葉に悔しくなった。
       * * * 
 優花は俺のことなんてあまり覚えていないだろう、と思う。それでも、母を困らせた男の姿は記憶に残っているのではないかと想像して久々に会った時くらい、ましな姿を見せたいと思った。俺が一応優花の実の父親である、という事実は涼子が死んでも変わらない。
 優花がトイレに行っている隙に、封筒を開けた。
 中に入っていたのは一枚の写真と手紙。
 写真の中には深大寺の木の下で微笑むお腹の大きい涼子と俺がいた。
 手紙には近況報告と「もう一度一緒に暮らさない?」という文字。四年前の日付だった。
 どうにもできない情けない思いは目から汁となって流れ出た。その文字を見た途端、溢れてしまったのだ。
 もう、時は取り戻せない。
 情けない。優花が帰ってくるまでにこの汁は止まらないかもしれない。
       * * * 
 バス停でバスを待つ間、私は横にいる男をチラリと見た。目尻の皺が半乾きだ。
 トイレから出て来たときに、男の嗚咽が響いていた。大の男があんな風に声をあげる姿を私は見たことがある。
 十年前、この男は酒を飲みながら泣いていた。酒を飲まないと感情を出せなかった男が今は素直に泣けるようになったらしい。
 母はこの男のどこが好きだったのだろう。
「今日はありがとな。わざわざ来てくれて」
「四十九日にお母さんに会いに来てもいいって、おばあちゃんが言ってた」
 私はこれを伝えに来たのだ。
 手紙を見た祖母は「あきれたよ。この子はずっとあの男を思ってたんだ。そんなたいした男じゃないだろうに」と言いながら、母が可哀想だと思ったのだろうか。
 バスの窓の向こうで、男が小さくなっていく姿を見ながら、母と二人で行った蕎麦屋での話を思い出した。
「お父さんはね、私の気持ちが足りなくなると不安になるのよ。だから私はずっとお父さんの側にいてあげないとだめなのよ」
 もう側にいれないと判断して家を出た母は側から離れたことを後悔していたのだろうか。 

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<著者紹介>

井上季子(東京都渋谷区)

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