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<第8回公募・選外作品紹介>「深大寺の風」 著者:志馬 幸子

 三月最後の日、102号室に学生さんが引っ越してきた。富山から夜行列車で上京し、早朝に到着したらしい。昼過ぎ、母がアパートの規則やゴミの日の説明をしに行った。
「びっくりしたわぁ。大山君たら、もう女の子を連れ込んでいるのよ。愚鈍そうな子だと思っていたのに、やるもんね」
 母は父の枕元に行って報告した。
「一浪したって聞いてたけど、恋愛も同時進行だったのね。……ううん、地味な女の子だったわ。こんにちはって挨拶されちゃった」
 父の声は聞こえない。父は深大寺近くの蕎麦屋で働いてきたが、年明けにめまいで倒れ、検査をしても三半規管の異常としか診断がつかず、寝たり起きたりを繰り返している。
 春休み中で暇を持て余していた真紀は、二階の勉強部屋の窓から102号室の玄関ドアを眺めた。二階建てのアパートは、真紀の家のすぐ裏にあった。どれだけ待ってもドアは開かず、そのうち飽きてしまった。
 夕方、真紀は母に頼まれて回覧板を持って外に出た。砂利を踏む音に振り返ると、分厚いジャンパー姿の学生と、パーカーにチェックの長いスカートをはいた女の人が歩いてきた。大山君だとすぐにわかった。真紀は、「こんにちは」と頭を下げた。
 母の言っていたグドンという言葉のたしかな意味は知らなかったが、大山君を見た瞬間、真紀はグドンということがなんとなくわかる気がした。この四月に小六になる真紀に深々とお辞儀をし、「よろしくお願いします」と言ってきたのには驚いた。見開いたまま顔に貼り付けたような眼と、三角形の大きな鼻、一文字に結んだ口が何かに似ていると思った。大山君の彼女は真紀と眼が合うと、首を傾げて親しげに笑った。平凡な顔が急に華やぎ、真紀は面食らった。とがった八重歯が、おとなしそうな彼女を、いたずらっぽい雰囲気に変えた。二人は深大寺の方に歩いて行った。
 回覧板を届けた真紀は家に戻らず、深大寺に向かった。二人にはすぐに追いついた。辺りは薄暗く、参拝客もいなかった。二人は手もつながず歩いていた。大山君の左手と彼女の右手はきっかけを待つように揺れていたが、なかなかつながらなかった。真紀がその手をつないでやりたいくらいじれったかった。
 二人は本堂の前で、手を合わせた。先に大山君が顔を上げたが、彼女はいつまでも祈り続けた。合わせた手の上に額を乗せて一心に祈る姿は、見ている真紀まで息苦しくさせた。母も、父が病気になってから毎朝欠かさず参拝に訪れ、長々と手を合わせるが、彼女の祈りは母のものより長かった。大山君はしびれを切らしたのか、彼女の合掌した手を乱暴につかんだ。彼女は体勢を崩しよろけた。「まだ、お参りが終わっていないのに」というようなことを、彼女は方言で言った。怒ったのかと思ったが、言い方は甘く、二人はそのまま手をつないで、闇が待つ植物園の方へ向かって歩き出した。真紀はそれ以上の追跡はあきらめた。心臓がどきどきしすぎて、二人を見ていられなかった。
 洗面台で手を洗っている時、壁に貼られたイースター島のカレンダーに目が留まった。モアイ像に大山君が重なった。大地にどっしりと構えたモアイ像は力強く、どことなく悲しげにも見えた。
 アパートの住人の郵便物を束のまま配達人から受け取り、階段下の郵便受けに配達するのが母の日課だった。昭和の終わりのその頃は、個人情報という言葉もなく、プライバシーについてもうるさくなかった。母は窓から真紀に見られていることにも気付かず、郵便物を裏返して、差出人をいちいち確かめた。
 大山君のもとには、毎週のように富山市の彼女から手紙が届いた。角のない丸い字を母はすぐ覚え、裏返さなくても、中沢さおりさんの手紙はすぐにわかるようになった。封筒はいつも厚く、ありゃ読む方も大変だと母はあきれたように言うのだった。当時、部屋に電話を引く学生はまだ少なく、通りの公衆電話を学生さんたちは利用していたが、大山君の姿は見たことがなかった。二人の通信手段は、もっぱら手紙のようだった。
 夏が近づくにつれて、さゆりさんからの手紙は途切れがちになった。時間の問題ね、母は言った。あんなに長く縁結びのお寺にお参りをしたのだから、二人がダメになるはずがないと、真紀は思った。夏の終わりにさゆりさんと大山君を調布駅で見かけた時、真紀はほっとした。母に報告した。時間の問題だよ、母はまた言った。駅では、さゆりさんが券売機で切符を買うのを、大山君が離れたところで待っていた。さゆりさんが料金表を困ったように見ていても、大山君は格好つけて立っているだけで、手を貸そうとしなかった。さゆりさんが切符を手に戻ってくると、大山君は「電車が行っちゃうよ」と改札に駆けこんだ。さゆりさんは人にぶつかりながら、大山君の姿を追いかけて行った。都会人ぶっている大山君は、モアイ像のようなおおらかなイメージとはかけ離れた人になっていた。
 深大寺が紅葉でにぎわう頃、大山君がやって来た。大山君の声は、真紀の部屋に筒抜けだった。家賃の延納の相談だった。
「黙って滞納すればいいのにさ。今月分、待ってくださいなんて面と向かって言われたら、意地悪したくなるじゃないのさ」
大山君が帰ると、母は顔をしかめて言った。
「ダメって言ったの?」
「そりゃ、うちも困るからね。半年以上滞納してる人もいるんだから。家賃が入らなきゃ、あたしたちだって食べていけないんだよ」
「大山君、何かあったの?」
「富山に帰る用事ができたんだって。いよいよ別れ話かしらね」
 真紀は大山君が公衆電話の中にいるのを、たびたび見かけるようになった。相手とつながらないのか、大山君はアパートと公衆電話を何度も往復していた。真紀は地図を広げて、東京と富山の距離をたしかめた。その遠さにため息が出た。夏以降、さゆりさんからの手紙は途絶え、二人の関係が行き詰っているのは、明らかだった。お金がないのなら、アルバイトでも何でもして、会いに行けばいいのにと真紀は歯がゆかった。会いに行けば、二人は元通りになると、真紀は信じていた。

 小三の息子の校外授業の付添員として、真紀は久しぶりに深大寺を訪れた。列から遅れがちな子どもたちを励ましながら、実家の前を通りかかった。父の看病と生活に追われた母は、胆のうがんに気付かず悪化させ、真紀が中三の時に他界した。実家には今、そば職人に復帰した父が弟夫婦と一緒に暮らしている。アパートはまだ残っているが、古いせいで、入居者は減っているらしい。
 梅雨の合間の深大寺は、参拝客でにぎわい、湧水の流れる音や風鈴の音が響き渡っていた。
子どもたちを追いかけ、本堂に行った時である。おざなりに手を合わせるだけの子どもたちに遠慮するように、端で参拝している女性がいた。脇に閉じた日傘をはさみ、紺色のレースのブラウスに白いパンツ姿の女性である。合わせた手の上に額をすりつけるようにして、長い時間をかけて祈っている。男の子が女性にぶつかり、日傘が落ちた。真紀は駆け寄り、日傘を拾って渡した。女性は笑顔で受け取った。女性は再び丁寧に手を合わせた。手水で遊ぼうとする子どもを注意しながらも、何となく気になって本堂を振り返ったら、もうそこには女性の姿はなかった。
深大寺通りを戻る途中、前方に再び女性を見かけた。日傘をさした女性は、真紀の実家の手前にたたずみ、奥のアパートを見ていた。渦巻くような風の音が押し寄せてきて、高く伸びた木々の枝が波のような音を立てた。真紀は思わず帽子を押さえた。その時、愚鈍という言葉が唐突に頭に思い浮かんだ。真紀は大山君とさゆりさんという名を思い出した。
母の入院中、アパートの学生さんたちが見舞いに来たことがある。やせ細ってはいたがまだ化粧をする気力のあった母は、身づくろいをして、学生たちを迎えた。亡くなる前の母は、それまでの気の強さからは想像できないほど、人に謝ってばかりいた。規則にやかましく、無愛想だった家主の変わりように、学生たちは戸惑い、ささいな出来事で謝る姿に恐縮した。母は大山君にも謝った。
「あたしが滞納を見逃してやれば、大山君もあの子と別れなくてすんだのかしらね」
「いえ、おばさんのせいじゃありません」
「ううん、あの子が会いたがったんでしょ? 会いに行けば、女なんて安心するのよね」
「俺が悪かっただけですから」
 大山君は大きな目をうるませて答えた。真紀は、母の前では誰にも泣いてほしくなかった。中学生になってから真紀も忙しくなり、アパートの住人には興味がなくなったが、不器用そうな大山君とさゆりさんの恋愛は気になっていた。真紀の知る限り、さゆりさんが再び102号室を訪れることはなかったし、ほかの女性がやって来ることもなかったのではないかと思う。卒業後、大山君は郷里の自動車部品メーカーに就職したと聞いている。
深大寺前のバス停から、おーいと呼ぶ声がした。山の上でこだま遊びをしているような、のんびりとしたよく響く声である。男の子の何人かが、ふざけておーいと返した。おーい、バスが来るぞー、男は女性に向かって手を振っている。
「もう、せっかちなんだから」
 女性は意外と野太い声で言い捨て、目の合った真紀ににこりと笑った。唇の両端から、八重歯がのぞいた。
女性は男のところまで戻ると、強い風に飛ばされまいとするように、男にしがみついた。しゃくれたあごを突き出し、口を一文字に結んだ男の顔に見覚えがあった。頑丈そうな四角い体は、ますますモアイにそっくりだった。


志馬 幸子(東京都練馬区/46歳/女性/パート)

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