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<第8回公募・選外作品紹介>「花氷な彼女」 著者:前川 美歩

 夏の夜、『涼』を叶えるための場で、僕は一人、その『熱』に耐え兼ねていた。
 年に一度、8月の一夜、僕の住む調布市の名所、深大寺では『夕涼みの会』と題したイベントを催していた。
「奏也。あれは花氷のように冷涼で風雅な世界だ。一度見に行くといいぞ」
ロマンチストな祖父は、口癖のようにそう言う。けれど、高校三年の、受験まで切羽詰まったこの時期に、氷漬けの花など見せられたところで僕は、「花が可哀想」としか思わないだろう。
 それでも、実際に『夕涼みの会』に参加してみると、祖父の言いたいことは何となく分かった。
一瞬の美しい光景の連続。
浴衣姿の男女が行き交う趣深い参道、色とりどりの風鈴が並ぶ商店、暑さを吹き飛ばすように巻かれる打ち水……夏の夜空に浮かぶ控え目な星たちの下、目にも涼しいもてなしで訪れる人を迎えてくれている。
「あれ。和花?」
先ほどまで僕の隣を歩いていたはずの妹が、目を離した隙にどこかへ消えてしまっていた。
僕は苦笑する。
真新しい浴衣を羽織りながら、踊るように回っていた昨晩の妹を思い出した。
「仕方ないなぁ。私が連れてったげる。お兄ちゃんはね、勉強しすぎなのよ。少しは高校生らしいこと、した方がいいよ」
生意気盛りの妹が、そう言って僕をここまで引っ張ってきたのだが……おおかた、近くに仲の良い友人でも見つけ、立ち話でもしているのだろう。僕は解放されたような、少しうんざりしたような気持ちで妹の携帯にメールをいれた。
(友達といるなら、そのまま一緒にいな。帰るころになったらメールしてくれ)
それまでに僕の存在を思い出してくれればいいのだが。
僕は妹と歩いた道を引き返した。確か横道があったはずだ。人通りの少なそうな山道だった。あそこなら、この眩しすぎる光景から僕を守ってくれるだろう。
 しかし、僕の考えは『はずれ』だった。僕が見つけた闇の中には先客がいたのだ。美しく、眩しい先客だった。白っぽい花柄の浴衣姿で林道に立つその女性は、闇の中にぼんやりと浮かび上がって見えた。
 彼女は闇を切り裂いたような道の真ん中で、僕の存在に気付き、驚いたようにこちらを見た。
一瞬、何か光ったような気がしたが今はそれどころではない。暗闇に紛れた暴漢だと思われては大変と、僕は顔の筋肉に無理言って、
幾日かぶりの笑顔を作ってみせた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは。ごめんなさい。私、驚いちゃって。あの、撮っちゃいました。けど、消しますから」
僕より年上だと分かる大人っぽい声でそう言った。
僕は彼女が何の話をしているのかすぐには理解できなかった。彼女の手にある大きなカメラを見てようやく事態が飲み込めたときには「はあ」だの「へえ」だのよく分からない返事を返してしまった後だった。
「あの、こんな所に、一人で?」
僕が尋ねると、彼女は可笑しそうに笑う。
「あなただって、一人じゃないですか」
「あ、そっか。確かに、そうですね。僕は、妹がどっか行っちゃって」
「えっ、大変。はぐれちゃったんですか。私、一緒に探しましょうか?」
そう言って僕の傍までやって来た彼女は、遠目で見るより少しこじんまりとして見えた。僕の肩の位置より、少し低いくらいの背丈だ。年齢は、やはり二、三歳年上のように見える。
「あなた……高校生くらい?」
気づくと、彼女は、これでもかというくらい僕に顔を近づけ、興味深々といった様子で僕の顔を覗き込んでいた。彼女の大きな瞳にどこか遠くの光が差し込んでいるのが確認できるほどの近さだ。
心臓が大きく鼓動するのが分かった。こんなに近くで女性の顔を見るのは何年ぶりだろうか。おそらくは、小学校低学年ぶりか。
幼いころから、「元気のない男の子」で通っていたから、小学校でそんなに楽しい思い出があった訳ではない。ただ、当時は男女問わず仲良しの友人がいたことを思えば、今の僕は負けている。
こんなことくらいで緊張してしまうなんて。
彼女は僕の戸惑いなど気にもとめないといった様子で、一人、何かに納得したように頷いた。
「うん。あなた、肌が白くて素敵。月夜に映えるわ」
そして、こう言った。
「あなた、私のモデルになってくれません?」

体が弱く、家ですることといえば、父の書棚にある本の山に目を通すことくらい。幼い頃からそうとなれば、肌の色が白くなるは当たり前というものである。青春を謳歌している野球部や、サッカー部の部員とは違うのだ。そんな僕にどんな魅力があって被写体にしようと言うのか。僕がやんわりと断っても彼女は頑として諦めようとしなかった。
「僕なんて、撮ったって、何にも……」
「何故?あなた、綺麗よ。さっきなんて、夜の闇に浮かび上がって見えたもの。輝いて見えたわ」
「それは、あなたがフラッシュをたいたからでしょ?僕だってそう見えましたよ」
 はっと思った時には遅かった。彼女は照れたように微笑みながら首を傾げた。
「私?私も輝いてた?あなた、そんな素敵な口説き文句が言えるんじゃない。本当に素敵よ」
彼女の意思の強そうな瞳が、少しだけ妹とかぶって見えた。そうだ。妹を探さなければ。そう言えば、彼女は見逃してくれる。そういえば、彼女は僕から離れて行くだろう。
「ねえ、お願いよ」
気づくと僕は俯いたまま、黙って頷いて見せていた。

彼女の名は玲子さんといった。都内の美術大学に通う学生らしい。油絵を専攻していて、どうやら僕には「写真に一旦納まってもらってから、絵のモデルになってもらいたい」らしい。ややこしいが、とにかく写真に撮られれば良いのだろう。
仁王立ちの僕に向かってシャッターを切りながら、玲子さんは色々なことを話してくれた。
今日は深大寺の『忘れ水』を撮りに来たのだそうだ。
「忘れ水っていうのはね、誰にも見られないような場所で脈々と流れる水っていうのかな。目立たなくても、それが源流になって大きな川を成したりするんだって思ったら、すごいなって感動しちゃって。それで好きになったの。ここ、忘れ水がとっても多いのよ。本当は友人たちと『夕涼み』に来たんだけど、『あれ?こんな時こそ沢山の忘れ水が生まれるんじゃない?』って思って。意味がちょっとずれてるけど、そう思っちゃったの」
それから、彼女自身の今の現状について、少し辛そうな声でこう言った。
「私はね、高二の頃に美大を目指したんだけど、少し後悔するときがあるの。だって、絵で食べて行ける人なんて殆どいないのよ。就活なんてみんな、商社とか、金融とか、そんなんばっか。でも、でもね……」
シャッター音が聞こえなくなり、少しほっとした僕は顔を上げようとした。すると、
「隙あり!」
真正面からの写真を撮られてしまった。
「やったぁ。いいのが撮れた」
と、嬉しそうに飛び跳ねる。
「玲子さん?……まったく……それで?」
「『それで?』て?」
「さっきの続きですよ。聞かせて下さい」
「あ、そっか。ごめん。『でも、私は忘れ水みたいな画家になろう』って思ったの。誰かに知られなくても、評価されなくても、いいの。働きながら描けばいいんだもん。私、絵が好きなんだから。好きで決めた道なんだから」
そう言った玲子さんの表情は、とても幸せそうに見えた。
僕にもできるだろうか。そこまで、身を削るようにしてまで、大切だと思えるものが。
僕は今まで、自分は周囲に劣っているのではないかと思ってきた。だって、こうしている間にも、僕らの年齢にしかできない夏の過ごし方をしている人だっているのだ。明日には、海へ行って、スイカ割りをして遊ぶかも知れない。また、次の日は海辺で花火でも打ち上げ盛り上がるのかも知れない。その画面に、今の僕はいない。
 でも、何が勝ちで、何が負けなんだ?そんなの誰が決めるのだ?僕たちはみんな、一生懸命、自分の道を進んでいるだけなのに。玲子さんの勇気ある言葉は、僕に「思うままにいれば、それが正解なのだ」と教えてくれたような気がした。
僕は、自分の発言に照れたように笑う玲子さんに少し意地悪をしてみたくなった。
「玲子さんは『忘れ水』というより、『花氷』ですね」
「花氷?なぁに、それ?」
「秘密です」
「なんで?教えてよ」
「僕は、忘れないってことです」
「それじゃあ、分からないわ」
「分からなくていいんです」
今日の月が、始めて明るく見えた。


前川 美歩(茨城県潮来市/23歳/女性/学生)

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