<第8回公募・選外作品紹介>「弟」 著者:對間 深
今夜は眠れないだろう。私は本をパラパラと捲りながら、ぐるぐると今日のできごとを考えていた。そこへ弟のタカシがやってきて、横で静かに絵を描き始めた。
「メグネエ、かいたよ」
見せてくれた絵はいつものように紙面いっぱいに大きく描かれた私の顔だった。弟のタカシが描く顔は、まん丸でその周りにひまわりの花びらのように髪の毛がついている。ただいつもと違うのは、ひまわりの種がこぼれたように涙が点々と描かれていたことだった。「メグネエ、ないてる」
タカシは、私に抱きついた。私は泣きそうな顔をしていたのだろうか? いや、むしろ腹を立てていた。
「メグネエ、だいじょうぶ?」
タカシは心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
その言葉にどきっとしながら、
「大丈夫だよ」
と答えると、タカシはひまわりのように顔をほころばした。
タカシと私は、十四歳年が離れている。ずっと弟妹が欲しかった私にやっと弟が生まれたときは、大喜びした。父は、「タカシはウチの宝だよ」と言って、「尊」と名付けた。
しかし、私はだんだんとタカシが普通の子とちょっと違っていることに気づき始めた。学校の授業でタカシのような子をダウン症児ということも知った。タカシは立つのも、歩くのも、おしゃべりも他の子より遅かった。
母は、「ゆっくりでいいよね」と言うのが口
ぐせになった。両親は、タカシがゆっくりと自分のペースで自立していくことを望み、特別支援学級を選んだ。
タカシのダウン症児特有の顔つきは人目を引いた。目が小さくつり上がっていて、舌が長いのだ。でもまん丸な笑顔には愛嬌があり、父の面差しにもちょっと似ている。
町に出れば、そんなタカシの顔をじろじろと見る人もいれば、見て見ない振りをして足早に通り過ぎる人もいる。時には「ねえ、あの子」とひそひそ囁く人もいる。町の人のそんな不自然な視線には、もう慣れっこだった。
でも彼だけは、そのどちらでもないと思っていた。同じ大学で学部は違うが、同学年の彼とはつき合って一年になる。
この前会ったとき、私は思い切って初めて弟のことを詳しく話した。障害はあるが、タカシがどんなにすばらしい子かということ。そしてどんなに両親に愛されているかということ。話終わったときは、喉がからからに渇いて、アイスコーヒーを一気に飲み干した。私が話終わると彼は黙って手を握ってくれた。彼の手は温かかった。
今日、吉祥寺のファミレスでタカシと一緒に彼と会った。タカシはいつも以上に張り切っていて、大きな声で挨拶をした。隣の女子高生たちがこちらを見てくすくすと笑っていた。タカシは、大好きなナポリタンを頼んだ。タカシは「おいしい。おいしい」と言ってがつがつ食べる。まるで蕎麦を食べるようにずずずずと音をさせて。
「そんなにおいしい? 僕のもあげようか? 」
「えっ、いいの? 」
私は、それを制した。タカシの口の周りはケチャップで真っ赤だった。注意すると長い舌をぐるっと回転させて口の周りを舐めた。急いで、紙ナプキンで口の周りを拭いてやる。あんまり勢いよく食べるので咳き込んで少し皿に少しもどした。彼はまだ半分くらい残っていたのに、フォークを置いた。私もそれ以上食べられなくなってしまった。タカシのバカ。恥ずかしさで頬が熱くなった。
食事の後、井の頭公園に行くことにした。彼は、一人で先を急ぐ。足の遅いタカシは、走って彼を追いかけ、手を繋ごうとした。そのときだ。彼の手が反射的にタカシの手を振り払った。タカシはうつむき、親指と人差し指を口の中に突っ込んで指しゃぶりを始めた。不安になった時にする仕草だ。知らんぷりをして、彼は足早に歩いて行く。私は自分までが否定されたような気がして途方に暮れた。「頭が痛い。」と口実をつくって、そこで別れた。彼はいつものように送っていくとは言わなかった。その後ろ姿を見て、この人とはもう無理なのかもしれないと思った。
次の日、私はタカシを連れて深大寺植物公園に行った。
午後の芝生広場には、大勢の子どもたちが来ていた。一人の男の子がシャボン玉を吹いている。そのシャボン玉を女の子たちがきらきらと笑いながら追いかけていた。
それを見て「シャボン玉やりたい」とタカシが言った。私は綿毛になったたんぽぽを二本摘み、一本をタカシに渡す。タカシは、ふうふうと頬を膨らまし息を吹きかける。息を吹きかけると、綿毛はシャボン玉のようにふうわりと飛んでいった。タカシが綿毛を追いかける。追いかけているうちに、鬼ごっこになった。
「メグネエ、ここまでおいで」
私をからかって遊びに誘う。私はタカシが簡単に捕まらないようにゆっくり走って追いかけた。タカシは転がるように走り、満開のしだれ桜の下に潜り込んだ。薄桃色の花がタカシをすっぽりと覆った。
「バーリア!」
タカシは大きく手を広げて笑った。私もしだれ桜のドームの中に入った。
バリアか。私たちのバリアになってくれる人なんているのだろうか。あの時、彼は「弟を連れて来いよ」と言ってくれたのに。また昨日のことを急に思い出して、鼻の奥がツンとした。
しだれ桜のドームを出ると私はタカシを肩車してやった。タカシは、私の肩の上ではしゃいでいる。タカシを肩車するのは、久しぶりだ。ずいぶん重くなった。タカシの柔らかい体が私の両肩にずしりと食い込む。もう八歳だからな。肩の上ではしゃぐ声は、声変わりした少年のように低い。そのくせ舌が長いので、舌足らずのような甘え声になる。成長と共にこの声はもっと低音になるのだろうか。このまん丸い顔に髭も生えてくるのだろうか。私は、そんな日が来るのが想像できなかった。もし来るとしたら怖かった。
涙で空が少し歪んだ。私は、タカシに気づかれないようにして、そっと涙をぬぐった。
「あっ、あれなに?」
タカシが大きな声をあげた。指し示した指の先には、銀色に光る飛行船がのんびりと飛んでいる。
「あれはねえ、飛行船」
「飛行船! ねえ、下ろして」
タカシを肩から下ろしてやると、芝生の上をぐるんと一回転してそこに寝そべった。「おいでおいで」と手招きされるままに、私も隣にごろりと横になった。芝生の匂いがして風が顔をなでて行った。
「おーい。」
飛行船に向かってタカシは大きく手を振った。ちょっといたずらっぽい顔をこちらに向けてニッと笑う。
「おーい! メグネエー!」
「おーい! タカシー!」
私は、周りに人がいるのも忘れて、釣られて叫んでいた。
「おーい! メグネエー! ウンコウンコウ
ンコー! 」
タカシはちぎれるほど手を振り、ゲラゲラとお腹がちぎれるほど笑った。私も一緒に笑っていた。飛行船はゆっくりと空の向こうに消えていった。
タカシが願い事があると言うので、深大寺へ行くことにした。山門を入ると境内には、樹木が地面に陰を落とし、ちらちらと木漏れ
陽が揺れていた。お参りの人は少なかった。
タカシは私の財布の中を探り、新品のぴかぴかに光る5円玉を掴み出すと、賽銭箱の中に放った。コトッと音がする。ぷっくりとした小さな手を合わせる。
「うろんやさんになれますように」
あれ? この前までは、おでんやさんじゃなかったっけ? そう思っているとタカシに私もお願い事をするようにと急かされた。そうは言っても、願い事が急には思い浮かばない。私は仕方なく「おそばやさんになれますように」と適当なことを言った。
「おそばやさん? 」
タカシは目を輝かせた。
「えーー、うろん~。うろん。おいしいおい
しいうろんですよ~。 おいしいおそばもありますよ~」
タカシはニコニコしながら、屋台を引くうどん屋さんの真似をした。私は少し後悔した。英文科を選んだときから私の進路は決まっている。
特別支援学級では毎週一回、うどんを作っている。この前の父の誕生日、家でその腕前を披露してくれた。ちょっと不揃いだが、こしがあって、とびきり美味しいタカシ特製のうどんができた。父は一口食べて、
「これはうまいぞ。タカシは、うどん屋さん
になれるな」
と頭をなでた。
「やった~」
タカシは、その場でぴょんぴょんと飛び上
って喜んだ。きっとあの時だ。おでん屋さんがうどん屋さんに変わったのは。
帰り道、門前の蕎麦屋の前を通ったら、楕だしのいい匂いが漂ってきた。どこの店からも白い湯気がふわっと出ていた。
「お腹すいた~。」
「そうだ。久しぶりに蕎麦を食べて行こうか」
その言葉を聞くか聞かないかのうちに、タカシは一目散に、一軒のそば屋目指して走って行く。勢いよくのれんをくぐり、私もその後に続いた。
「いらっしゃい。あら、タカちゃん。大きく
なったねえ」
昼食どきをもうとっくに過ぎていたので、
店の中のお客さんはいなかった。蕎麦屋のお
ばさんは、相変わらずふっくらとしていて、
愛嬌たっぷりの笑顔だ。タカシは、おばさん
に抱きついた。ここはいつも家族で贔屓にし
ている蕎麦屋なのだ。
その声を聞きつけて、調理場からおじさんが出てきた。
「よう、メグちゃんいらっしゃい。久しぶりだなあ。タカシ~。元気だったか? 」
タカシはおじさんに飛びつき、そのまま抱
き上げられた。「重い、重い」とおじさんはタ
カシをすぐ下ろし、大きな手で蕎麦生地をこ
ねるように頭をなでた。
「なんか、おじさんの作ったお蕎麦をたべたくなっちゃって」
「そうか。嬉しいねえ」
おじさんは下がった目をもっと下げた。
「ねえ、おいちゃん、ここでやってよ」
タカシはショーウィンドウになっている蕎麦の打ち場を指さした。
おじさんは、タカシに請われるままに打ち場に入った。私たちは、ショーウィンドウが一番よく見えるところに座った。タカシは、近づいてガラスに鼻をこすりつけるようにして、おじさんの作業を見ている。
おじさんは、さっきと人が変わったように、きりっとした職人の顔をしている。蕎麦生地をぎゅっぎゅっと力を込めて捏ねるたびに、タカシは「おりゃあ」と言って応援している。
次は、丸めた生地を綿棒で伸ばしていく。すーすーっと魔法のように生地は薄く広がっていった。タカシは私の方を振り向いて、綿棒を転がす真似をした。生地をすっすっと切ってあっという間に木箱の中に麺が収まった。
おじさんは、ウィンドウ越しに、にっと笑ってピースサインを送った。
蕎麦はすぐにゆであがり、私たちの目の前にすっと差し出された。
「はい。お待たせ。タカシのために作った特製タカシスペシャル! 」
「イエイ! 」
タカシは、親指を立てた。口に含むと蕎麦
の香りが広がり、冷たい麺が喉をまっすぐに
下りていった。深大寺のきれいな水が、体の
中にしみわたるようだった。
タカシは、ずずずっと一気に小気味よく蕎
麦をすすり上げた。
「うめえ! 」
と声をあげる。
「ぼく、学校でうどんつくるよ。おいしいよ。おいちゃんにもつくってあげる」
「そうかあ、それじゃ大きくなったらおじちゃんとこで修行するか」
「うん」
タカシが鼻を膨らませた。
そのとき、暖簾をくぐって、もう一人お客
さんが入ってきた。おじさんとタカシが同時
に声を揃えた。
「いらっしゃいませ! 」
「メグネエ、いいものあげる」
その夜、タカシは、後ろに隠していたものを差し出した。「てがみ」だと言う。手紙は細かく折り畳んであった。ゆっくりと開いてみた。タカシはちょっと照れたように小さい目をもっと細くして笑った。
そこには、『ままままま・・・』と紙いっぱ
いに大小様々な「ま」という字が書いてあった。やっと書けるようになったんだ。タカシは、「まやまたかし」という名前の中で「ま」という字だけがどうしても書けなくて長い間練習していたのだった。
「ねえ、なんて読むの? 」
「こえはねえ、『メグネエらいすきです。メグ
ネエ、けっこんしてくらさい』・・・アブエターだよ。ア・ブ・エ・ター」
「アブエター? え? ラブレター? 」
「そうそう。アブエター」
「ま」という字を一つ一つ指さしながらラブレターを読み終えたタカシは、私に抱きついてきた。
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<著者紹介>
對間 深(千葉県松戸市/54歳/女性/講師)