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<第8回公募・選外作品紹介>「背高若白髪の恋人」 著者:黒咲 典

 恋なんてものは一体、この世に必要なのだろうか。心を乱し、焦がし、その者を尋常でいられなくさせる一方で、この上ない幸せを与えてくれる、そんな格別な力があるというのは本当だろうか。今のところ、僕は恋に興味はない。だって夢のように楽しい出来事は恋に限らず星屑みたいに至る所に散らばっていて、ちょっと足を延ばすだけで簡単に見つけられるのだから。
 たとえば、僕の日課の散歩コースである深大寺周辺だけでも山ほどある。特に僕が好きなのは、深大寺をぐるりと囲む、木々に覆われた歩道。道を挟んで両脇に立ち並ぶ木々の枝々は歩く者を優しく抱き込むように伸び、自由に広がる葉は無数の手の平みたいに強い日差しを遮ってくれる。道のど真ん中に立ってずっと先のほうを眺めると、まるで緑のトンネルが延々と続いているような、神秘的な別世界に来たような何とも言えない心地良い気分に陥る。僕は路面に映し出された木の影の上に乗って涼しい風を感じながら、今日は何を食べようかと考え幸せに浸る。  
 楽しい事はそれだけじゃない。とある蕎麦屋の脇にある水車にひょいと飛び移ってみたり、美しい草花で溢れる植物公園に忍び込んでみたり、深大寺境内にあるなんじゃもんじゃの木のなるべく高い所まで登ったりするのもスリルがあって楽しい。僕はもう大人になってしまったが童心はまだ残っていて、バカみたいに腕白なことをしてドキドキ感を得る。恋なんてせずとも胸は高鳴るものなのだ。
それは決して僻みや虚勢ではない。単純に僕が恋に興味がないだけで、恋をしたいと思ったことも、実際にしてみたこともないだけなのだ。だから、誰かのことを気に掛けたり、無意識で視線に捉えてしまうのは恋の始まりだと言われても、あまり納得がいかない。ほら、僕がよく散歩中にすれ違う、茶色い癖っ毛の僕と同い年くらいの女の子。目の大きな整った顔立ちで大抵の人は彼女を凝視し、すれ違いざま振り返りもするが、皆が彼女に恋をしているとでもいうのか。そんな単純で平凡なものなら僕はいらないし、恋にハマる者の気持ちもわからない。
そういう僕は、傍らを通り過ぎていく彼女ではなく、遠目に見える食べ物のほうに夢中で、発見次第それを確実に視野に収め涎をこぼしてしまう。あとになってから、その女の子が「ハナちゃん」と呼ばれているのを知ったとき、僕はまさしく「花より団子」なのだなあと、思わず笑ってしまったくらいだ。
 散歩中に出会うのは勿論、ハナだけではない。ウメさんという腰の曲がった白髪の老女もそうだった。強いていうなら僕は、ハナよりもウメさんに興味を持っている。言うまでもないが、それは恋ではなく、不思議な事物を解明したいというような好奇心にすぎない。 
ウメさんのあとをつけるようになったのは、彼女の孫であろうと思われる二十歳くらいの女性のある言葉がきっかけだった。毎日、孫に手を引かれ深大寺まで緑のトンネルをくぐっていくウメさんは、いつも瞳を輝かせ嬉しそうにしていて、僕はそれを木陰からちらりと横目で見るだけだったのだが、ある日、孫の発言に僕の耳が酷く反応してしまったのだ。
「いいなぁ、ウメばあちゃんは、そこまで人を好きになれて幸せだね。私もそんな素敵な恋をしてみたいな。ウメばあちゃんみたいな恋ができるなら、他には何もいらないや」
 孫の目が、あまりにも羨ましそうに輝いているせいもあったのだろう。僕は美味しい食べ物よりも、スリルある悪戯よりも、綺麗な散歩道よりも、他のどんな楽しい事よりも、そして誰が経験している恋よりも、ウメさんの恋が格別であるような気がして興味がどっと湧いたのだった。それ以来、僕は毎日ウメさんのあとを追って観察するようになった。
ウメさんは、深大寺を訪れると決まってすることがある。まず本堂、大師堂、釈迦堂、深沙堂の順に参拝してから本堂まで戻り、開花し始めたなんじゃもんじゃの木を根っこからてっぺんまでじっくりと眺める。そして、なぜか涙する。すると顔に刻まれた沢山の深い皺に沿って涙が流れていき、忽ちくしゃりと表情が崩れる。
ウメさんは、「帰って来てくれたんだねぇ」と確認するように強く、それでいて甘い口調で言い、孫は決まって横からいつもと同じ台詞を返す。
「タケじいちゃんが帰ってきてよかったね。戦争に行っても、こうしてちゃんとウメばあちゃんとの約束を守ってくれたんだよ」
 すると、ウメさんは何度もうんうんと深く頷きながら、染みだらけの細い腕を木の幹に絡める。そう、まるで幹が柔らかいクッションに見えてしまうくらい、ふんわりと優しい感じで抱きつくのだ。
「あらまぁ、タケさんは、相変わらず背が高くて、若白髪が目立っとるねぇ」
空に向かって高く伸びるなんじゃもんじゃの木は、白い花を頭のてっぺんに沢山咲かせている。けれど、それがなぜタケという人と関係あるのか、また、なぜそう見えるのかは僕にはわからない。ウメさんはどこか普通とは違っていて異様で、しかし一瞬一瞬に研ぎ澄まされた尋常さを秘めているから不思議なのだ。もしやタケさんというのは、他には何もいらないと孫に言わせてしまう、例のウメさんの恋の相手なのだろうか。
 暫く孫と一緒にそこで佇んだあと、ウメさんは「また来るからねぇ」と言ってゆっくりと家路につく。境内から出るまでの間、何度も振り返って、名残惜しそうに木に手を振る。

 僕は雨の日が嫌いだ。それなのにウメさんは華奢な傘を重たそうに持って、懲りずに孫と深大寺に向かう。僕は内心面倒くさいと思いながらも、ついついそのあとを追ってしまう。気が向いたときは、ウメさんを自宅前で待ってからあとをつけ、深大寺参拝後、家まで見送ることもある。ウメさんの日課が深大寺参りだとしたら、僕の日課はウメさん観察になってしまっていた。そう、まさかそんな日々が終わってしまうなど、わざわざ考えることがないくらい自然で規則的なものだった。けれど物事にはいつしか終りが来るようだ。僕は何の前触れもなく、突然、ウメさんと会えなくなってしまったのだった。
 今まで一日二日見かけないことはあったが、週を跨ぐことは一度もなかったのに。梅雨に入って、なんじゃもんじゃの木の白い花もすっかり散ってしまい、心配になった僕はウメさんの家の前に入り浸って一目姿を確認しようとしたが、ウメさんの家族が時々どんより曇った表情で庭先に出てくるだけで、逆にその様子が僕の不安を一層煽った。何かが胸の奥をさわさわと嫌な感じで撫でるのだ。結局、待ち続ける僕の期待を裏切るように、ウメさんが現れることはなかった。
それから半月ほど経った、しっとり生暖かい雨の降る日。何の意味があるのか、ウメさんの家の前に円状に飾られた豪華な花がどんと置かれ、白と黒の布が風にゆらゆらと寂しそうに揺られているのを見た僕は、何となくもう二度とウメさんに会えないような気がして妙に納得してしまい、同時に胸の辺りが物寂しく冷えた。もう少しだけウメさんを見続けていたかったのに。
 ウメさんは、タケさんという人に会いにでも行ったのだろうか。今頃、会えているのだろうか。僕はなんじゃもんじゃの木のてっぺんまで駆け登った。木の上から下を眺めると、ウメさんが幹を抱きしめる姿が幻のように見えて、僕はなぜか胸の奥がきゅっと締め付けられるみたいに痛んだ。今まで感じたことのない妙な感覚だった。僕もウメさんのようになりたい、タケさんのような相手がほしい、ウメさんの幻を見ながらそんな思いが体の芯を突き抜けた。まさか僕は、俗に言う「恋に恋をしてしまった」のだろうか。もしかするとウメさんが、僕の中に恋心を置いていってくれたのかもしれない。
 爽やかな風が空を通り抜け、ふと頭にハナの顔が過った。そういえばこのところウメさんのことばかり気に掛けていて、ハナと出会っていない。いや、すれ違っていても気に留めていなかっただけだろう。僕はハナの散歩コースを、不思議な気持ちを抱いたまま、ふらふらと歩いてみた。夢の中か現実なのかわからない、あやふやな足取りだった。
前方に、ご主人と一緒に歩いてくるハナを見つけ、僕は途端に気持ちがはやった。米粒のような大きさがどんどんこちらに近付いて来て、ハナの黒目がちの瞳が漸くはっきりと見えた頃には、既に僕の心は高鳴っていた。特にスリルのあることをしているわけでもなく、楽しくおかしなことをしているわけでもないのに、訳がわからず戸惑った。
ちらっとだけ目が合ったあと、ハナは僕の横を何食わぬ顔で過ぎ去っていったが、僕は間抜けみたいに口をぽかりと開いていた。一体どういうことなのか、ハナがいつもとどこか違うのだ。それは形でも、色でも、匂いでもない。どこが違うのか説明ができない。ハナから発される空気のようなものが違うのか、あるいは僕の心に何か変化が生じたのか。
 思わず振り向いた僕は、遠ざかっていくハナの背後を見た。歩くたびにくるりと巻いたハナの尻尾が小さく揺れるのを、何をするともなくぼんやり眺めていると、不思議とほんわか頬が熱くなった。ご主人に頭を撫でられるハナ。僕も同じように彼女に触れたいという気持ちに駆られた。どんどん離れていく彼女は、ご主人に何かを言われて、ワン! と可憐に鳴く。僕はそれに応えたくて、けれど勇気もなくて、その場で小さく、ニャアと鳴いて、初めて経験するこの胸の痛みに首を傾げた。そのとき、深大寺のほうから鐘の音が響き渡り、それと同時に、僕は腹の底から大きな心地良い溜息を漏らした。


黒咲 典(大阪府岸和田市 /31歳/女性/会社員)

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