<第8回・最終審査進出作品>「提灯流し」 著者:丹 千尋
僕の背は、理科室の人体に満たない。厚みも満たない。僕の身体はこの片側だけ血管を晒した変な模型に劣るのかと思うと、ちょっと落ち込む。鷹野が僕のお尻を日課のように無邪気に蹴る。こいつのせいで、僕は薄っすらと消えない、鈍痛のシンボルの様な淡い痣を持っている。僕は鷹野を無視して着席する。
母は、僕が入学した年に旅に出た。その小学校生活も、漸くあと1年だ。ランドセルの内側の透明ポケットには、深大寺の御守りが入っている。母の引き出しから見つけたものだ。手作りの御守り袋に入れられていて、僕は中身なんてどうでもよくて、ただその恐ろしく芸の細かいパッチワークの手作りの袋に魅入って、以来それは僕の宝物になった。
「春樹、それ縁結びの御守りだぞ。お父さんとお母さんが一緒に買ったやつだぞ」
と父は言ったけれど、持ってちゃだめ? と訊くと、別にいいよと答えた。
鷹野にうんざりする度に目を瞑って神様、と祈る。何の神様かは知らないけれど。
「志田春樹くん」
出席を取られて、ハイと小さな声を出す。
「そうだ志田くん、あとで職員室に来てね」
反射的に顔を上げると、晶子先生の笑顔にぶつかった。暗い理科室でそこだけ光が当たったような、大輪の花のような、どうしていいか解らなくなるような、柔らかいショートヘアのきらきら光る美しい笑顔だった。
晶子先生は、僕が職員室に現れると、場所をカウンセリング室に移し、
「出しゃばりだったらごめん」と切り出した。
「春樹くん、お父さんとの生活、どう?」
僕は何とも言えずに俯き、上履きの爪先に墨汁の点々を見つけた。いつ汚れたんだろう。
「春樹くん、少し元気がない気がして」
説明するに相応しい言葉を、僕は知らない。一生懸命働く父と。床に物が散乱した部屋と。簡素で自由な夕食と。眠る前にテレビを切り、ふと母が後ろにいたりしてと振り返る習慣と。
黙ったままの僕に、晶子先生は微笑んだ。
「…そか。でももし何か春樹くんが心を痛めるような事があったら、いつでもどんな事でも、私に言って。私は、君の味方だよ」
そして僕を解放した。
帰り道、僕は深大寺に寄った。晶子先生の温かい視線を痛烈に覚えている。白く無機質な壁の中で、そこだけが慈悲色に揺れたからだ。味方。石段にぼんやり座って頬杖をつく。レトルトカレー。父からの毎日の短い書き置き。窓から見える金色の夕陽。一人分の食器を洗う僕。繊細な虹色のシャボン。味方とは、何て不思議な響きがするのだろう。
その日は、帰宅する父を頑張って待った。
「あれっ、春樹起きてたのか。ただいまー!」
父は笑った。今日は笑顔をよく見る日だなと思った。父がテーブルに座ってからも、僕は何となくもじもじした。
「ねぇ、なんでお母さんと結婚したの」
父は驚いて箸を止めた。
「何でって…好きだったからだよ」
「今は?」
訊いてからハッとした。もしかしたらもしかして、もしかしなくても僕はいま父を傷つけたのではないかと心配になった。何となく訊いてはいけないことを訊いたような気がしたのだ。
「馬鹿だなぁ」
父は箸を置いて僕を見た。
「好きに決まってるじゃないか。お母さんは永い旅に出て、僕たちが天寿を全うして会いに行くのを、にこにこ気長に待っている。好きに決まっているじゃないか。もう好きじゃなかったら、お母さんが泣くじゃないか」
「ふぅん、そんなもん」
僕はさりげなく言うように努力した。声が震えなくて良かったと思った。そしてついでに訊いてみた。
「ね、恋ってどんなもん。どんな感じが恋なの」
父は一瞬固まったあと、納豆ご飯を掻き込みながらモグモグと言った。
「その人のことを考えすぎて頭がおかしくなること」
僕はまじまじと、納豆ご飯中の父を見た。
ばか真面目に言った父の言葉が本当なら、恋とは違うかもしれない。でも、僅かにひもじい思いと泣きたくなるような優しい気持ちが交差しながら流れるそのパラドクスも恋と呼ぶなら、僕はきっと先生に恋している。僕はその甘美な濁流に呑まれて、夢現で教室の外を見ている。僕が聴きたいのは、光の子守唄だ。母に似た、母とは違う、どんな嘆きも内包しないマリアの子守唄ならみんな聴きたい。世界中の僕のような子供たちは。
晶子先生は公平だ。悪ふざけをする鷹野をその度に叱り、鷹野をからかう奴がいればそいつを叱り、事あるごとに生徒一人一人を呼び出した。晶子先生の呼び出しを鬱陶しいと言いつつ、みんな少し喜々として職員室へ行った。僕はそんな晶子先生を、いつからか諦念の混じった目で見るのだった。五月雨を過ぎ、優しく陰湿な梅雨を過ぎて彦星と織姫の逢瀬が終わる頃、僕は溜息をついた。みんなの味方なのだ、晶子先生は。そして少し傷ついた。みんなの晶子先生に。
蒸し暑くてだらだらと汗が流れるような夏休みの夜、唐突にチャイムが鳴ったので開けてみた。そこにあの笑顔があった。
「野川で、提灯流しがあるよ。一緒に行こう」
晶子先生はそう言って笑った。
「提灯流し?」
僕がぽかんと間抜けな顔をすると、玩具みたいに小さな提灯をひらひらと振って、
「四の五の言わずに早く出てこい若者よ」
と戯(おど)けた。
蝉が狂い鳴いた昼間が嘘のよう。空気の分子の隙間に慕情が入る余地は、蝉たちが眠り続けた日数と同じだけ存在する。蝉が鳴き止むこの刻は、其処此処から空気の粒が弾けて、割れて、幾つもの思い出が蘇る。夏の魔法だ。
「私はねぇ」
晶子先生が、とつとつと話し始める。
「春樹くんのお母さんの、親友だったんだ」
初耳だ。夥しい数の提灯が静かに流れていく。綺麗だ。残されていく者の思いを乗せて、その大群は静かで荘厳で寂しくて、そしてひたすらに綺麗だ。
「僕の父は知ってますか」
「当然じゃない」
「父と話をしたり、しますか」
晶子先生はゆっくり瞬きをする。
「どうして?」
どうしてと訊かれると、確かにどうでもいいことに思えた。僕は何を望んでいるのだろう。
「春樹くんは、大人になったら何になりたいの」
「何だろ…」
流れ続ける灯りを見つめる。母を想う。遠い記憶の煌き。ケーキの匂い。母が守っていた僕たちの笑顔。幼稚な鷹野にも母がいる。父は今でも母を愛している。僕は御守りを後生大事に保管し続ける。時は止まらない。点と点ではなく、線と面で粛々と流れ続ける。それは川のようだ。人々の掠れ声も悲鳴も川は受け止める、それは見事な包容力で。その静謐な佇まいから、僕は父の笑顔を連想する。それから母を。それから先生を。みんなどこか似ている。何だろう。何が似ているんだろう。蝉の鳴き声が脳内で響き始め、だんだん大きくなる。頭が割れそうなほどの強烈な蝉しぐれ。その鳴き声が祈りを伴って川に流れ込むのを、僕は見た。そうか、解ったぞ。みんな共通のものを持っているんだ。それは、何かを守りたいと切望する者の強さ。常に瞳に自分以外を映し続ける者の、それは光だ。
「なんだろ…こんな性格の人になりたいっていうのは、あるかもしれません」
「春樹くんは、不思議な子だね」
僕は顔を上げる。晶子先生が僕を真っ直ぐに見つめて言う。
「いつも何かを考えている顔をしている」、大人みたいな子」
「そうですか…」
「お父さんに、似ているのね。生き抜く力が、君には備わってる」
「…」
晶子先生が提灯に視線を戻した。
「お父さんとこの間、面談室でお会いしたの」
「何を話したんですか」
「春樹くんのこと。お父さんの口から出てくるのは、どんなに耳を傾けても春樹くんのことばかり。君は本当に、本当に愛されているよ」
僕は黙った。
「先生ね、お父さんにふざけて訊いたの。そろそろ新しい奥さんもらったら、って」
先生は淡々と続けた。
「そしたらね、お父さん、なんて言ったと思う」
「解りません」
「春樹はそれを許すでしょうか、って」
僕は風の音と共にじっと言葉を聴いていた。
先生が…先生が父と結婚してくれたらいいのに、とは言わなかった。それは僕が望むよりも大人の事情が色濃く、神様が協力するなり縁を結ぶなり、何かそういった大それたことのような気がした。ランドセルの御守りを思い出した。しまった、あれを今日持って来ればよかった。ゆらり、ゆらりと光の行列をなす小さな提灯に括りつけて、縁を神様と川に委ねて、この美しい野川をゆっくりと下っていかせるべきだったのだと、僕は思った。
丹 千尋(東京都/ピアニスト)