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<第8回・最終審査進出作品>「春の あるひとつの」 著者:佐藤 小岩

「先生!」
振り返ると、入り口の方からユミが小走りで駆け寄って来るのが見えた。
春らしい色のワンピースの上にカーディガンを羽織っている。筆で描いたようなストレートの長髪が、顔の周りを気持ちよさそうに跳ねている。
私はベンチから立ち上がろうかと思ったが、煙草に火を点けたばかりだったので、腰をずらして座りなおした。
時計の針は約束の十五分前を指している。
ユミは髪を丁寧に撫で付けながら私の横に腰をおろした。
「ずいぶん早かったね。」
「先生の方が。」
機嫌の良さそうな弾んだ声。
「その服、とてもよく似合ってるよ。」
言葉を煙とともに吐き出した。
「ありがとうございます。」
ユミの少し照れたような笑顔。
「先生もその服とてもよくお似合いですよ。」
その言葉に私は吹き出してしまう。煙が喉にひっかかり少しむせた。
お似合い、と言われても、ジーパンにティーシャツ、その上からパーカーを着ているだけだ。似合うもなにもあったものじゃない。が、そう言われて嬉しくないわけでもない。
「ありがとう。知ってると思うけど、この格好は大抵誰でも似合うんだよ。」
思わず口元がゆるく曲がる。
「先生の私服見るの初めてです。」
「学校だといつもスーツだからね。私服だとだいたいこんな感じ。もっとちゃんとした格好してくればよかったね。」
着ていく服に関しては少し悩んだが、選ぶほどのものがあるわけでもない。スーツを着てくるよりは、ましな判断だったと思う。
私は短くなった煙草を灰皿に放り込み、立ち上がった。
「どっから回ろうか?」
「植物園に来たのは初めてなので、先生にお任せします。」彼女も立ち上がりなら答える。
特に順路を考えていたわけでもなかったので、なんとなく足の向いた方に歩き出した。
桜の見頃だけあって、園内は普段よりも混んではいるが、不快になるほどではない。
学生にとっては春休みだが、私よりも年長の来園者の方が多いようだ。それに家族連れや若いカップルがちらほら。
「大学生活の準備はできた?」
「準備なんてほとんどないですから。敷地だって同じなんだし。」ユミが答える。
ユミはリズムよく、こぎみよく歩く。私の方が歩幅が広いので、いつもより少し歩調が遅くなる。
正面に大温室とバラ園が見えてきた。
「まずあそこ行こうか。」私は温室を指差した。
「はい。」ユミが笑顔でこくり、とうなずいた。
温室に入ると、むっとする空気と甘ったるい匂いに包まれた。
ユミは百合の匂いを嗅いでは声をあげ、奇妙な形の熱帯植物を眺めては疑問を口にする。まるで初めて植物を見るようなユミの反応が、とても好ましく思われた。
私はユミの疑問に豊富とは言えない知識を総動員して答える。もう少しちゃんと勉強してくればよかったかな、と少し後悔した。
温室をひととおり廻ってから外に出ると、私達はバラ園を見渡せるベンチに腰をおろした。バラの見頃にはまだ早く、人影もまばらにしかいない。
「植物園、よく来るんですか?」ユミが尋ねる。
「たまにね。家近いから。」
「先生は植物が好きなんですね。詳しいし。」
「サラダは好きだよ。」私が答える。
ユミの小さくはじけた笑い声が、気持ちよく空気をふるわせる。
「そんなに植物に詳しいってわけじゃないし、植物が好きって言うよりは、この植物園の空気が好きかな。散歩してると気持ちいいし。」
夏も秋も冬も来るけど、私はこの季節の植物公園が一番好きだ。
「うちの親は凄い植物マニア。二人とも年間パスポート保持者。」
「ご両親と一緒に来たりもするんですか?」
「いや、それはないね。特に仲良いわけでもないから。」
実家には、私が離婚してから一度も顔を出していなかった。
そういえばユミは私が結婚していたことを知っているのだろうか?
「突然だけど、バツイチだって知ってるよね?」私が尋ねる。特に感情が込もらないように気を付ける。
「昔、ある人と結婚して。で、そのある人と離婚したんだけど。」
「ええ、知ってますよ。」
いかにもそんなことは気にしていない、という感じで言ってくれているのが伝わってくる。それが伝わってくるぐらいは気にしていたのだろう。
こういう話は自分から言わなくても、毎年新入生も含めて校内すみずみまで行き渡る。誰がそんなに律儀に言いふらしているのか、いまさら腹は立たないが不思議には思う。
しかし、それを知っててよく私なんかに。
「歩こうか。」
私はユミを促してベンチから立ち上がると、再び歩き出した。
バラ園から、園内を半時計回りに広場の方に向かう。歩道に落ちる木漏れ日の中をゆっくりと歩いて行く。
「いつか先生のご実家に挨拶に行ってもいいですか?」ユミが尋ねる。
実家?私は思わずユミの横顔を眺めた。
「すぐってわけじゃなくて。いつか。」
ユミは真っ直ぐと前を向いて歩いている。
「いろんなことがうまくいったら、いつか。ダメですか?」
うまくいったら…?
私は少し間をあけて答えた。
「いいよ。驚くだろうね。」
それを聞くと、ユミは満足そうに頷いた。
私は急に彼女を困らせたくなる。
「こっちもいつか実家に挨拶に行った方がいいのかな?」
私がちゃかした感じで尋ねると、ユミは前を向いたままはっきりと答える。
「もちろん!」
私は彼女の勢いのある返事に笑ってしまう。
広場の周りの桜並木が見えてきた。
「先生のこと、名前で呼んでもいいですか?」
「名前って名字で?」
「いや、下の名前で…。」
そういって彼女は恥ずかしそうに視線を落とした。私は答える。
「もちろんいいよ。名字でも、下の名前でも、アダ名でも。好きなように呼んでくれれば。敬語もいらない。もう生徒と教師って関係じゃないんだし。」
空いているベンチを見付けたので、そこに腰掛けて煙草に火を点ける。桜と広場が見渡せる灰皿つきの特等席。
ユミと同年代ぐらいのカップルが、ベンチの前を通りすぎる。ユミがカップルを目で追っているのがわかる。
「私ね、相談したんです。先生に告白する前に、友達に。一人だけ。」
誰かは秘密です、と笑顔で付け加える。
彼女のクラスメイトの顔が何人か思い浮かんだ。
「やめた方がいいって言われました。普通の恋愛した方がいいって。」
私は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し込んだ。
目の前の広場では、最近やっと歩けるようになったぐらいの小さな子供が、一人でボールを追いかけて遊んでいる。
私はパーカーのポケットから煙草を取り出すと、再び火を点けた。
「普通の恋愛ってなんですか?先生はなんだと思います?」普通の恋愛?
私は少し考えて、煙を少し吸い込むと、言葉とともにゆっくりと吐き出した。
「もしそんなものがあったとして、仮に。」
遊んでいた子供がボールに躓いて泣き出した。周りの注目を集める。
「全ての人間がその普通の恋愛ってのをしなきゃいけないわけじゃない、と思ってる。」
どこか近くで見ていたらしい両親が、子供に駆け寄ってくる。平和な光景。
「周りから普通じゃないっていわれても、気持ち悪いと思われても、自分にはそんなこと関係ないと思ってるよ。」
父親が子供を抱きかかえ、母親がやさしく声をかけているが、子供はまだ泣き止みそうにない。普通の家族。
「私はユミが好きだよ。」
それが普通かどうかなんて。

ユミが立ち上がる。
「飲み物買ってきます。先生何飲みます?」
「何でもいいよ。それにもう先生じゃない。」
私は笑いながら答えた。売店に歩いて行くユミの背中をぼんやりと眺める。
ユミは売店の横にあった自販機をしばらく眺めてから、こちらを振り向いた。
「ねえ、エリコ!なにのむ!」
ユミが必要以上の大声で叫ぶ。その声に、周りの人たちがユミを見て、それから彼女の視線を追ってその先にいる私を見る。
ここでそうきたか。
私の口元がゆるむ。吹き出しそうだ。
「エリコ!なんにする!」
ユミがまた叫んだ。
発作的な笑いとともに私の首がのけぞる。桜の花びらの向こうに空が見えた。全てが淡くにじんでくる。彼女の声が再び。
私の笑いはしばらく止まりそうもない。

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<著者紹介>

佐藤 小岩(東京都調布市/28歳/男性/会社員)

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