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<第8回・最終審査進出作品>「かくれんぼ」 著者:永井 周光

  待つ、ということは昔から苦手だ。
 晩ご飯ができるのを待つ。出張からお父さんが帰ってくるのを待つ。お姉ちゃんが漫画を読み終わるのを待つ。流行りの美容室の予約が空くのを待つ。
 何かを待つ、ということは、とても疲れることだ。それは、百メートルを全速力で走り切った後に感じる疲れとは、全く異質のものだったりする。
 私は今、男を待っている。見知らぬ土地の、初めて入ったそば屋の中で。もう、何分も。
 従業員の男性が、そば湯を運んできた。Tシャツから伸びた黒いたくましい腕がとても印象的な人だった。そば皿や盆を持つよりも、例えばサーフボードとか、スキー板なんかを担がせた方が、ずっと似合うのになと思った。
「こちらは、もう下げても?」
 尋ねられて、私は小さく頷くことしかできなかった。目の前にある皿が、次から次に片付けられていく。その間私は、恥ずかしさからずっと頭を下げていた。
 やがて机の上には、あいつが頼んだものだけになった。綺麗に盛られていたはずのそばは、皿の上ですっかり伸び切り、週末のたまった洗濯物みたいな有様になっていた。その横で仰々しく鎮座している海老の天麩羅は、まだ手つかずのままだ。一番大好きなものを、一番最後に食べるあいつを、可愛いと思えなくなったのは一体いつの頃からだろう。
 私は彼氏を待っている。デート中に、しかも食事中に、彼女を平気で一人にさせて、何分もトイレにこもっていられるような男を。
 机の上から窓の外に視線を移す。風になびかれた木々の枝と共に、梅雨入り前の深い緑がよく揺れている。遠くの方に見える「手打ち」と書かれた他の店の暖簾が、今日のねずみ色の空と相まって、よりその店の老舗らしさを際立たせていた。
(こんなことになるのなら)私は窓に映る景色を眺めながら思った。(あの人の誘いを受けけるんだったかな)
 昨日、東北の片田舎から新幹線に乗ってここ東京までやってきた。今トイレにいる健太の友人が、青山で結婚式をあげるということなので、私もそれに便乗してついてきたのだ。
「でも百合ちゃん、本当に大丈夫なの?」出発の前夜、健太は私に念を押すようにいった。「東京で時間を潰してるなんて、本当にできるの?」
 私は大丈夫だと少しムキになりながら答えた。健太はそれからすぐに寝息を立てはじめた。共に二十六歳。付き合いはじめてから約三年。同級生が結婚するということに対して微塵も焦りを感じない男のまるまるとした寝顔は、頬をつねりたくなるような代物だった。
 東京に着き、そのまま教会に向かった健太を見送った後、私は急いで電話をかける。あの人は、すぐに出てくれた。昔と変わらないその低い声を耳に、思わず青山というおしゃれな街で、一人身を震わせてしまう。
 私はあの人の指示に従ってタクシーを拾い、新宿にある有名なホテルの名を告げた。ホテルに到着すると、タクシーに歩み寄ってくる一人の男がいた。私は、それが直ぐに彼だと分かった。約三年ぶりに会う元カレは、当時よりもうんとスマートになっていた。めかしこんできたというそのスーツ姿に加え、タクシー代の支払い方とか、エレベーターの壁に背を預けて腕を組む仕草とか、その一つ一つが、紙に置かれた筆の墨のように、いちいち私の心に滲むのだ。
 ホテルの中にあるレストランで、私たちは、コースもアルコールも同じものを頼んだ。彼がグラスに手をやる度、右腕にまかれた雄々しい腕時計が、東京を一望できるほどの大きな窓から差し込む光によって、大げさに輝いた。ネクタイの結び目も、中指の爪くらい小さく、きつく締められていた。そのどれもこれもが、決して嫌いではなかった。
「で、今の彼氏とは上手くいっているのか」
 急な質問に思わずドキリとしてしまう。
「まあまあかな。そっちはどうなの」
「俺か」彼はグラスの中のワインを飲み干して、私の目を見据えながらいった。「俺は今、フリーだよ」
 オレハイマ、フリーダヨ。頭の中で反芻すれば、酔いが一気に醒めてしまう。明らかに挑発的な彼の語調に、微かな喜びを感じている自分がいることを否定できない。
 そして案の定、それはきた。
「なあ、よりを戻さないか」
「無理よ。そっちは東京だし、それに、私には彼氏がいるんだから」
「だったら、そいつと別れてこっちに来ればいい。簡単な話だろ」
 心が揺さぶられる。それでも、一度は捨てられた者としての、意地が働いた。
「でも、健太に悪いから……」
 沈黙。妙な間が息苦しい。彼氏に悪いから、という理由が、誘いを断る明確な理由になっていないことを、私は気づいて後悔した。
「彼氏は今、青山にいるんだっけ?」
 おもむろに、過去の男は口をひらいた。
「そう」
「だったら、今からそいつを見に行こう」
 彼は立ち上がり、私に背を向けた。
 私はわけが分からないまま、彼の後を追った。本来であれば止めるべきだったのに、再び青山に向かうタクシーの中でも不思議と気分は高揚していた。そして結婚式が挙げられている会場の前に着くと、私たち二人は建物の影に身を潜め、肩を寄せ合いながら健太が中から出てくるのを待った。
「はっ、まるでかくれんぼだな」
 しばらくして、中からぞろぞろと人が出てきた。その群れの中には、健太の姿もあった。内気な性格の彼は、なかなか輪になじめないようで、常に一人でいた。
「ちょっと、からかってやろうか」
 止める私の腕を振り払い、彼は何食わぬ顔
をして、健太の目の前を行ったり来たりした。健太は、何度も自分の目の前を行き来する男に、不振な目を向けていた。
 それを見て私は、怒りと自責の念が同時にこみ上げてきて、逃げるようにしてその場を離れた。離れて、すぐに地下鉄に乗り、予約していたホテルに一人チェックインした。
 携帯電話が鳴り止まない。鬱陶しさから電源を切り、ダブルサイズのベットに横になる。顔を押し当てた枕は柔らかでいい匂いがした。

 健太は思っていたよりも早くホテルに現れた。結局、場の雰囲気に馴染むことができずに、二次会の途中で帰ってきたのだという。
「明日は、どこか行きたい所ある?」
 私は、首を横に振った。この人は、私が日中、誰と会っていたか知らないのだ。そして、私たちに見られていたことなど、まったく気づいていない様子だった。
「百合ちゃん、どうしたの?」
「今日はなんだか疲れちゃった。明日どこに行くかは健ちゃんに任せるから」

 翌日、曇天の中、健太に連れられた場所は、東京の調布市にある深大寺というお寺だった。 
 武蔵境通りから深大寺通りに入り、参道の脇を流れる清水に目を癒しながら足を進めると、深沙大王堂と呼ばれる社があった。ここに祀られている深沙大将は、あの西遊記の沙悟浄のモデルになったともいわれている。
 そこから本堂まで伸びる道には、土産物屋やそば屋が建ち並んでいた。軒先に飾られた提灯や暖簾によって、親に手を引かれる子供たちは、祭りに似た興奮を覚えている。他にも、足を止めて写真を撮る者や、設けられたベンチに腰かけアイスやせんべいをほおばる者など、昨日見た東京とはまた違った色の景色がここにはあった。
(あの人は、怒っているだろうか)
 それでも、私の気持ちはすぐに都心の方へと飛んだ。バックの中の携帯は、昨夜から大人しいままだ。だからといって、こちらからかけてしまっては、その先、また捨てられるのがオチだと思った。
「せっかくだから、どこかに入ろうか」
 参拝後、私たちは一軒のそば屋に入った。
彼が天ざるを注文したので、私は別なものを頼んだ。粉の香りとコシのある細麺の美味しさに、ようやく鬱々とした気分が晴れてきたそんな矢先、彼はトイレに立ってしまった。

 ポツポツと、窓を叩くものがある。見れば、夏草の繁茂する地面が雨に打たれていた。バックの中から取り出した携帯の液晶には、今日の日付けが表示されているだけだ。
 私は健太をトイレに残したまま、会計を済ませ店の外に出た。つい数分前まで賑やかだった参道からは人影が消え、土産物屋の軒先に並べられた商品には、濡れてしまわぬようにとシートが被せられる。松葉色のシートに落ちる滴の音は、私の心と深大寺をますます引き寄せる。
 山門をくぐり、本堂まで真っすぐ歩く。額にはりついた前髪を整えて、本日二度目のお賽銭。だが一体、何を願えばいいのだろう。
「どうか、百合ちゃんが見つかりますように」
 と、隣から、馴染みのある声が耳に響いた。途端、私の目からは泪が溢れた。幼い頃によくしたかくれんぼで、おににみつけてもらえたときに得る矛盾した喜びが、懐かしく胸の内に広がったのだ。
「どうか、また来年も百合ちゃんと一緒に、ここのそばが食べられますように」
「わかったから……もう、わかったから……」
 私たちは来た道を戻った。手を繋ぎ、人気のない参道を、一歩一歩、自分たちの足で。
 深大寺に降る雨が、徐々に弱まっていく。
ようやく顔を覗かせた太陽が、あたたかな光を参道に落としている。本格的な夏は、もうすぐそこまできている。


永井 周光(福島県福島市/25歳/男性)

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