<第8回・最終審査進出作品>「栗鼠とハイヒール」 著者:榊 貴之
どうして私がこんな目に遭わなきゃなんないの――。
もう何度繰り返したかさえ分からなくなった自問を飲み込み、私の前をすたすた歩く長身の男の背中を睨みつける。玉砂利の庭を必死で追いかける。ハイヒールの中で足指が悲鳴を上げるのを、奥歯をギリギリと噛みしめて耐える。苦難の行軍。表層0.5ミリで取り繕っている笑顔も、もうあと何分も保つまい。ええい、もうどうにでもなれ。
――あとは、若いお二人で……。でも、羽目を外しすぎては駄目よ。
別れ際に、鎌倉の伯母が言った言葉が脳裏に蘇る。最後のセリフは私に向けたものだ。笑顔だが、眼鏡の奥の目は笑ってなかった。――私の顔を潰す様な事をしたら、わかってるでしょうね。まるで喉元に突きつけられた刃のような無言のメッセージ。ハイヒールは駄目、という伯母の忠告を、私はすでに無視していたのだ。――あんたって子は、ちょっと眼を離すと……。でも伯母さん、私いま、拷問に遭っているのよ――。いや、だめだ……。これ以上、あの伯母を敵に廻すようなまねはできない。
やっぱり、この私がお見合いをするってこと自体が間違いだったんだ。結婚なんて、まだまだ先の話。すくなくとも、私はそう思っている。男友達だっていっぱいいるし、ソーシャルとプライベートの微妙な境界で、ダンスを愉しむ相手だって二人ほどいる。――ただ子供のころから、お見合いというものに憧れがあったというだけだ。
自分の見通しの甘さに打ちのめされたのは、紹介されて五分も経たないころだった。釣り書きをしっかり読み込んでいたので、だいたいの情報は頭に入っている。だいいち、あの伯母が紹介する男だ。スペックは最高。それに見た目もなかなかのものだ。ホテルのロビーに入ってくるところを見かけた時は、不覚にもどきどきしてしまった。
しかし、浮かれていられたのも、相手が口を開くまでだった。というか、この人、ほんとうに口を開くことがあるの?こちらの問いかけをストレートに打ち返すだけなので、会話が弾まないことおびただしい。返ってくるのは単語か短いセンテンス。英語で言えば、冠詞を除いて、単語三つまでしか組み立てられない第三文型の男だ。そのうち、私だけがひとりで喋っているような状態になり、我ながら馬鹿みたいに思えてきた。次第に心が重苦しくなってくる。これが学習性無力感というやつだな、などと考えていると、鎌倉の伯母も、これはまずいと思ったのか、ホテルでの会話を早々に切り上げ、若い二人を野生環境に解き放つという作戦に出た。なんと言っても、妙齢の男と女だ。自然の中で羽根を伸ばせばやることはやってくるだろうという、伯母らしい大胆な作戦だ。こうして私は、第三文型ヤロウと二人で、野生の原野に放り出されることになった。
「少しだけ、足を延ばしてもかまいませんか?」
ロビーを出て直ぐに彼が言った。
「わあ、どこかへ連れてってくださるんですか?」
新たな展開にオッと思い、飛び切りの笑顔でうなずいてみせた。しかし連れて行かれた先はベンツの駐めてある駐車場などではなく、初めて乗る京王線という電車の駅だった。
水色のスリップドレスにボレロ、エルメスのバッグにハイヒールで決めた私。隣には、仕立てのよさそうなスーツ姿の彼。いかにも、と言うしかない二人が、参拝客でいっぱいの、深大寺の玉砂利の庭の真ん中に立っている。これって本当にお見合いなの?いくら考えても自分の置かれた状況が飲み込めず、私の頭は真っ白になっていた。ふと気がつくと、彼が何やら私に話しかけている。どうやらこのお寺について、私に説明しようとしているらしい。しかし、私の頭には、その説明がまるで入ってこない。東京で三番目の古刹とか、満功上人とか、だるま市とかいう言葉が頭の中を通り抜ける。彼の説明と、いま自分が置かれている状況を結び付けようと必死で考えるが、私の頭は空回りするだけだ。天台宗?阿弥陀三尊像?深沙大王?――縁結びの寺だと?ふざけるな。
その時、私の足元を茶色いものが走りぬけた。自然に眼があとを追う。それは近くにあった木の幹を垂直に駆け上がり、最初の枝の真ん中で止まった。栗鼠だ。両手で木の実を抱え、困ったような目付きで周囲を見回している。
突然、ある光景が蘇った。鎌倉の叔母の家の庭。裸足の私が、松の枝の上でキョロキョロしている栗鼠を見つめている。どうしてもあの栗鼠を捕まえたくて、松の枝にしがみつく。手を伸ばしたとたん、バランスを崩して下の池に落ちる。池の中に尻餅をついて上を見上げるが、栗鼠はとっくに何処かへ逃げてしまった。――あんたって子は、ちょっと目を離すと何するか分かんないんだから!
いつも裸足で走り回っていた。あの頃の私は伯母のことが大好きだった。
あれ、と思った。何か変だ。胸の奥がもやもやする。何かが決定的に間違っているという奇妙な確信。そして、ようやくその正体に思い至る。そうだ、確かに間違っている。だって、私は今でも伯母のことが大好きだもの。
涼しい風が通り過ぎた。周囲を取り巻く音が、突然、耳の中で蘇った。先ほどまで、あれだけ話しかけてきた彼が、今では何も言わず遠くを見つめている。私も改めて周囲を見回してみた。ふたりは、黙ったままそこに立っていた。私と彼との間には、二メートルほどの距離が置かれていた。
都心の近くにこんな所があったのか。周囲を取り囲む木々を目で追ってみた。目を瞑ると、騒音の向こうでいろいろな音がきらめいている。この場所だけ、違う色の風が吹いているみたいだ。
「ここって、東京じゃないみたいね」目を瞑ったまま言った。
彼がこちらを向くのがなんとなく分かった。だけど何も返ってこない。それでも構わないと思った。
「今日、なんでここに来ようと思ったの?」
しばらく待つと、彼の声が返ってきた。
「ぼくは、ここが好きだから――」
第三文型ヤロウ!なんだか可笑しくなった。少しだけ声を出して笑った。薄目を開けて、一メートルだけ彼の方に寄った。
「ハイヒール脱いでもいい?」
「えっ?」
目を開けると、彼がぎょっとした目でこちらを見ている。右手にエルメス、左手にハイヒールをぶら下げた、お見合いドレスの女を想像した。可笑しくなって、声を上げて笑った。
「うそ。冗談よ。でも私、足痛くてもう歩けない」
ぽかんとした顔の彼は、突然、事態を把握したという表情になり、私に謝りだした。自分の失策に気づいておろおろしている。その様子が好ましく、なんだか可哀想になった。
「いいって、いいって。それより何処かで腰掛けましょ」
さっきまでの腹立たしさは、いつの間にか消えていた。私の周りの男で、ハイヒールの女を歩かせるような奴はいない。だから、腹立たしさも覚えない。彼らとの間で経験するのは、もっとぎすぎすした違う種類の感情だ。こんな人もいるんだな、と思った。
私が、参道の蕎麦屋に入りたいと言うと、彼がうなずいた。二人並んで、蕎麦屋までゆっくり歩いた。さっきまでとは打って変わって、私はだらしない足取りだった。暖簾をくぐり、木の椅子に腰掛けるとようやく人心地がついた。
冷えた麦茶とメニューを持ってきた女将さんと眼が合うと、女将さんはなんだか訳知り顔で笑みを送ってきた。普段なら反発を覚え、たちまち不機嫌になる私だが、不思議な事に、自然な笑みを返すことができた。この場所に吹く、違う色の風のせいだろうか。それとも第三文型の彼のせいか。
蕎麦を食べ終わる頃には、陽は傾き、参拝客の姿もまばらになっていた。女将さんは、店終いの準備をしている。私たち二人が、最後の客だった。彼は通りに眼をやり、家路を急ぐ人々を見送っていた。私も彼に倣った。女将さんには悪いが、もう少しだけこうしていたい。
「連れてきてもらって良かったよ、ここ」通りを見たままつぶやいた。「――知らなかったわ、東京にこんなところがあるなんて」
相変わらず、彼から返事は返ってこない。それでも良かった。
「――私も、ここ好きよ」
私のつぶやきの間を流れる沈黙が、今ではとても心地よく感じる。
彼のことをもっと知りたい、と思った。それに彼にも、私のことをもっと知ってもらいたい。テーブルの下で、そっとハイヒールを脱いでみた。子供の頃に戻ったような開放感が私を包みこんだ。
そのハイヒールを蹴飛ばした。片方がころころと転がり、彼の足元まで行って止まった。彼はしばらくそれを見ていたあと、困ったような顔で私を見つめ返した。
あの栗鼠そっくり!思わず吹き出した。口元を両手で押さえたが、しばらく笑いは止まりそうになかった。しばらくすると彼も笑い出した。
私たちの笑い声を、深大寺の風が運んでいった。
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<著者紹介>
榊 貴之(東京都稲城市/51歳/男性/会社員)