<第8回・最終審査進出作品>「彼女が私に訊いたこと」 著者:星川 塩見
裏高尾から高尾山へ向かう道中での休憩中だった。私は湯が沸いたコッフェルに粉末のスープを入れてそれを愉しんでいた。もう、高い山々は冬を迎えた頃だろう。本当に歩きたい山はもっと遠くにあって、わざわざ近郊のここへやってきたのには私なりの理由があった。
ここ最近、休みになるたびに母親が愚痴っぽいのから逃れたかったのだった。いつまでも親元で結婚する様子もなく年ばかりとっていく一人息子が、その理由だった。「あまりにくだらない。塾に行くのが嫌な小学生じゃあるまいし」と、自分のことを可笑しく思ったが、毎週末となるとうんざりする。だから雨の週末は本当に気が滅入る。山に行くとは言えないから。何週間か悪天候に苛まれた後だったので、今日は早朝に起きて陣馬高原までバスで入った。少し紅葉には時期的に早かったかもしれない。
よくかき混ぜながら、スープの最後を飲み干したときにズボンのカーゴポケットに入れてあるマナーモードの携帯電話が振動した。独りの現実逃避の時間に無粋な侵入者。非日常の世界へ出掛けてきているときに、日常とつながるのは好きではない。だが、画面に表示された発信者の名前を見て私は日常との間にわずかな穴をあけることを決めた。
「もしもし?」
「今日は何してるの?どこか遊びに行っちゃった?」
従姉のいずみからだった。私は肩と耳で携帯電話を挟んで、簡素な食事の後片付けをしながら話をすることにした。
「うん。山」
からからと向こう側で笑う。全て行動はお見通しということなのだろう。悪いのはその現実逃避の動機まで知られていることだ。
「じゃあ、夕方まで帰ってこないね。どこかでご飯でも食べない?」
屈託のない調子で言われて私は気後れした。たった一年遅く生まれたというだけで、いずみに私は頭が上がらなかった。
「山降りてから美味しい蕎麦でも食べて帰ろうと思ってた」
「え?お蕎麦?お蕎麦なら深大寺で食べようよ。あのいつものお店の十割蕎麦がいいな。今どこにいるんだか知らないけど」
蟻と巨人。私のささやかな抵抗は全く悪意のない彼女に、いとも簡単に粉砕された。高尾山の麓にだって良い蕎麦屋が軒を並べているのだということを、今度きちんと説明しなければならない。京王線に乗ったら電話してね、と彼女は最後まで朗らかに言って電話を切った。
私が母親に心配をかけ続けているその理由のひとつは、いずみにあった。親戚づきあいの中で、私といずみは年齢も近く、いつも一緒に扱われることが多かった。それぞれ一人っ子どうしだったことも影響しているだろう。お互いに仲の良い母親同士は双子のようでもあり、自然と家の行き来の回数も多かった。夏休みにはどちらかの家にずっと泊まって過ごしたり、家族ぐるみで旅行に出掛けるのも珍しいことではなかった。そんな姉弟のような関係が変わったのは社会に出てからのことだ。彼女に結婚しないのかと私は尋ねたことがあった。
いずみは怖い、と答えた。何かが劇的に変わってしまうのが。
私はその時、何の気なしに私といずみが結婚すれば問題は解決だと、そんなことを言った。彼女に対して恋愛感情があったわけではなかった。ただ、そうすれば丸く収まるとか、そんな些細なことが言葉の根拠だったように思う。彼女は一瞬大きく目を見開いて、すぐに私の頭を握ったこぶしで軽く小突いた。
「叔母さんから聞いたよ?この前失恋したんだって?」
私はたいそう慌ててそれが理由じゃないとか、別にいずみのことが好きというわけでもないとか、言い訳を並べ立てた。だが、おかしなものでそのことがきっかけで、私は彼女のことを特別な存在として見るようになった。そして、それは日常の中で自ら進んで恋する相手を探さなくなることと等しかった。
三十歳を過ぎて周りが次々に結婚し始めても自分は特に何とも思わなかった。自分がそんな調子でも、両親は冷静ではいられないようだった。いずみの家ではそんなことはないのかと聞いたら、「別に」とあっけらかんとしていたのを覚えている。
頭を振って回想をもザックの中に押し込んだ。冷たい風が山を渡ってくる。やはり、誰か一緒にいた方が秋の山は良い。
彼女は店の前で待っていた。今日が楽しかったかどうか聞くときに私の心の奥底までを見て微笑むこともないだろう。確かに小言からの逃避にしては悪くなかったが。蕎麦を頼んで出てくるまでの間、私は今日の山のことを話し、彼女は最近の両親の様子を面白おかしく教えてくれた。こんな季節だというのに二人して頑なにもりそばを啜る。中学生ぐらいだったろうか、いずみの家に遊びに行ったときに「深大寺さんでお蕎麦食べておいで」と言われ、彼女の母親にお金をもらったのを覚えている。二人でこんな風に向かい合って、子供だけの外食を楽しんだのだった。
最後のお茶を飲み干して、店を出るころにはずいぶん太陽は西に傾いていた。寺の境内に沿って急な坂道を下る。どこへ向かうわけでもない。私達は結局池のほとりで足を止めた。
彼女は黒々とした水面を覗き込むような仕草をしたが、実際に何かを見ているわけではなさそうだった。
「この前、お母さんに結婚のこと言われた。案外きついものなのね」
彼女の笑いの理由はこれだったのだ。私はどうこたえてよいのかわからずに、曖昧にその言葉を受け取って、そして唇を軽くかみしめた。
「何て答えたの?」
「今、そんな人いませんって言うしかないでしょ。」
彼女がハイヒールで落ち葉を踏む様を私は見ていた。沈黙というスペースにはすぐに水音が入り込む。
何年か前に、彼女と一緒に買い物に出掛けたことがある。都内でデパートをいくつかまわって、それぞれの母親に母の日の贈り物を探したのだった。買い物が終わった後、五月の美しい日差しに誘われて私達はビルの谷間の公園を散策した。その時に噴水を背景にした彼女があまりに眩しくて、私は思わず持っていたカメラでその瞬間を切り取った。スナップにしては珍しく上出来な一枚だった。何の感傷がそうさせたか、私はそれをわざわざプリントアウトした。そして、ベッドの枕元に無造作に置き去りにしていたそれ、きらきらした水が踊る様を背負って少しはにかんだ天使のようないずみの写真、を母親に見つかった。
面と向かって言われることはなかったが、きっとその話題は光の速度にも匹敵する勢いで両家の間を駆け巡ったに違いない。以後、お互いの親の明らかな反対という意思を私は感じるようになった。私が勝手に特別な感情を抱いているだけであるにも関わらず、彼女もそれに巻き込まれるようになってしまった。私はそのことを後日、彼女に打ち明けた。
もう、幾許もしないうちにほとんどの蕎麦屋は店じまいの時間になる。そのあとの抜け殻の空間に長居をするのは行き場のない学生のようで気が引けた。夏であれば七夕飾りがあったりして、それでも絵にはなったのにと思った。かと言って、この調子では彼女の家に寄っていくのも気が進まなかった。
「さて、どうしますか」
彼女はそう言って顔を上げたが困ったようにすぐに目を細めた。そして私が逡巡している様を見てとると、急にまた強い従姉の姿になって言葉を継いだ。それは私が全く予期していない言葉だった。
「今、好きな人いる?」
反射的に何かを聞き返してしまいそうな一撃。私は口ごもりながら答えるのがやっとだった。
「他には、いない」
「他にって、私の?」
私は自分が怒られているかのように感じたが、微かに何度か頷いて見せた。それほど彼女の語調は強く、有無を言わせない響きが含まれていた。そう、と力を削がれたような気がしたが、それは物事があるべき場所に落ち着いて冷静になっただけに過ぎない。
「まだ、そんなに結婚焦ってない?」
若干のトーンダウン。結局、彼女は私にイエス以外の返事はさせてくれないのだった。彼女は意を決したように言った。
「じゃあ、待ってて。お父さんとお母さんのこと説得するから。好きな人と結婚するってちゃんと言うから」
感情が昂ぶりつつある彼女を、私は見ていられなかった。大変なことを言われたのだが、その意味を咀嚼するのはあとの話だ。私は彼女の言葉を手振りで遮った。
「落ち着いて。ここじゃ何だから、一杯やっていこう」
いずみがさりげない仕草で人差し指の先で目頭に触れるのに気づく。その手が下りるといつもの彼女がそこにいた。
「じゃあ、調布のあのお魚が美味しいお店行こう。私の初任給で一緒に飲んだの覚えてる?」
勿論忘れるはずはない。その店で私が彼女に結婚しないのかと聞いたのだから。
星川 塩見(埼玉県/42歳/男性/SE)