<第8回・最終審査進出作品>「片側の夏」 著者:山田 夏蜜
「おや、蝶はどこへいった。」
身支度を急いでいる園子に、わたしはぼんやりとした口調で言った。
「蝶? ああ、浴衣の蝶のことね。あれは少し汚れてしまったので、ついでだから、新しく仕立てたの。どうかしら。」
園子は紺地に鮮やかな朝顔と、つるが美しく曲線を描いているそれを嬉しそうに眺めてつぶやく。
「お園には、やはり蝶が似合うような。」
わたしは、注染で染め抜かれた幻想的な蝶が奥ゆかしさと、艶めかしさとの両方を孕みながら園子の首筋から足首まで舞っているのを思い出していた。
「まあ、あれ、気に入っていらしたの。だいぶくたくたになっているのに。悟朗さん、帯はこれでいいかしら? 今日初めてそでを通すでしょう、だからちょっと気になるの。」
「とてもいい色合わせだよ。」
わたしのひと声を聞いて、園子はゆっくりと微笑んだ。
「ねえ、ふたりで深大寺へお参りするのは久しぶりね。」
言いながら園子は籐の手提げに手ぬぐいや、家の鍵やこまごまとしたものをつぎつぎ入れた。わたしのほうはといえば、慣れない男物の浴衣に着られてしまっていて、妙に身体が硬く、大仰に腹を突き出して居間の柱に肩をあずけて突っ立っていた。
「僕も浴衣なんてなあ。おまえはよい姿かたちだが、どうも僕のほうはいけないな。なにかこう、裸みたいだ。」
うまく言葉に表せずにいると、
「さあさ、いきましょう。外を歩けばすぐに、浴衣紳士になれますよ。それに、この夏を目一杯楽しみたいとはりきったのは悟朗さんでしょ。なかなか立派な背中よ。」
園子がわたしの背中へ回り、細い指をしならせてわたしの背骨を柔らかく押した。
その感触は、布地を透けてわたしの心まで波紋のように広がっていくのだった。
真夏である。
てらてらと油のような光沢が、街路樹や、道や建物やゆきかう人々にもあって、それはまぎれもなく太陽の仕業だった。家を出てからすぐに、わたしと園子の額が汗ばむ。
「お参り日和だな。」
わたしは園子から手ぬぐいをもらって、老いを刻み始めた自分の顔に押し当てる。
途中、園子がうちわを買うと言って小間物屋に立ち寄った。うちわなんて家にあっただろうに。妙なところが抜けているものだ。そう思って店の外で待っていると(店内が涼しいのは承知していた、だが気恥かしさのほうが先にわたしを笑ったのだ)、園子がさっそくうちわを扇ぎながら戻ってきた。
「これが、欲しかったの。」
園子の手には、だいぶ小さなうちわが握られていた、うちわの赤ん坊のようだ。
「悟朗さん、本当に要らないの、うちわ?」
園子がうちわの赤ん坊でわたしの顔を扇いでくれた。
「ああ、かまわないよ、こう暑いんでは、扇いだ風も心地いいものではないからね。」
「鰻のかば焼きみたいな気分?」
「言ってくれるじゃないか。」
「そうだ、お昼ご飯はどうしましょう。」
「僕ら若いころ、深大寺そばの食べ比べしただろう。まだあのそば屋あるだろうか。」
すると、園子の顔に影が差した。一瞬のことで、またすぐに園子の顔が明るくなって、
「ねえ、おそばもいいけど、鰻重が食べたいわ。」
おどけたように、園子は笑った。
園子と結婚して三十年が経つ。
だがなぜだろう、わたしばかりが年を重ね、園子はいつまでも若いままのような錯覚を覚える。
浴衣の衣紋からすっと伸びる首は、ビロウドのようだ。
深大寺までの道のりを、わたしは昭和五十年へ戻る道のように感じながら、もう一度園子の美しさに惹かれながら、電車に揺られた。
電車からバスへ、わたしたちはひどく緩い時間の中にいた。やがて園子もわたしも、静かに黙ったままになり、寺の周辺に集まるそば屋の間をぬい、本堂のほうへと歩を進めていた。
強烈な陽光がふたりの影を揺らめかせる。
「日傘を忘れたわ。」
ぽつりと園子が言った。
「木陰がたくさんあるよ。休みながら歩こう。」
わたしが適当な場所を選んで園子をうながすと、
「やっぱり、おそば、食べましょうか。」
園子は視線を向こう側に投げる。
「そうか。腹減ったな。やあ、あの店じゃないか。懐かしいな。」
奇妙に嬉しくなって、わたしはその重厚な造りの建物へ急ごうとした。
そのとき、わたしの下駄が小石を踏んで、不快な音が響いた。
大げさなくらい、たったひとつの音が耳や木の幹や葉っぱにぶつかって跳ね返っている、お祭りのピンボールゲームのボールみたいに。
「どうした。」
わたしは身じろぎもせず立ち尽くしている園子を見つめた。
「悟朗さん。」
「お園、どうしたんだ。」
「あたしに恋したこと、ある?」
突然の問いに、わたしの目に映る景色が一瞬にして逆走する夏を捕える。園子とわたしの初めての夏まで戻るのだ。
「そ、そんなの、当り前じゃないか。」
跳ね返り続けていたあの音は、わたしの胸に当たって落ちた。そんな気がした。
「お見合いだったのよ。」
「お見合いして、それから、好きになったんじゃないか。」
「結婚してからも、ずっと、悟朗さんのこと愛せなかった。」
初めて顔を合わせた若いふたりは、そのときもこうして、深大寺の周りを歩いていた。暑さとぎこちなさで、互いに疲れてしまい、よろめきながら入ったのが先ほどのそば屋であった。
「お園、暑いから、店に入ってから話そう。」
わたしは額の汗をぬぐって言った。
ほんとうに倒れそうだったのだ。
「だから願い続けていたわ。どうか悟朗さんも、あたしのこと愛していませんようにって。」
園子の瞳は黒々と、三十年後の告白に必死に耐え、また耐えることで逆に活力が滲んでいるようにも見えた。
わたしは店に入るのをあきらめ、なぜか果物ナイフを思い浮かべた。病気をしてしばらく食欲のなかったわたしに、園子はよく果物を切って出してくれた。よくある光景だが、その平凡さを生涯で知る人間は少ないのだろう、こんな特別な平凡さは、得ようと思って得られるものではないと感じた。あの果物ナイフが今、わたしの手のひらに深く突き刺さっていることも、特別な平凡がもたらす出来事なのだろうか。
「それならば。」
わたしは幻視の果物ナイフを自ら抜き取ることにした。
「僕は、ずっと片思いだったんだね。じゃあ、これからもずっと片思いするよ。恋することは、自由だろう? だから、いいよ、今の暮しをやめていい。どうしてこんなに長い間、僕と一緒にいたんだい? 若い時代も、時間も、全て失ってしまってからそんなこと告げるなんて。」
園子は急に力ない目をして、泣いているのか怒っているのか、言ってしまった後悔か、結婚を続けた後悔か、複雑な顔をして、
「愛したかったから。」
とだけ、告げた。
「……僕は、今、どうしたらいいのだろう。」
まだ混乱しているわたしは、空腹も手伝って目眩がした。こんなときだって、腹は減るんだな。わたしは自嘲した。
「恋がしたいの。あなたに。」
園子が言った。
「あたし、すごくひどいこと言ったわ。ひどい女なの。でも、悟朗さんに恋したいのよ。片思いがしたいのよ。これからのあたしを見て、悟朗さんがあたしのこと好きになってくれたら、それでいい。」
正直、園子が本当は何を言いたいのか、わたしにはわからなかった。ずっと愛していなかった、愛したかったけれど、でも、恋はしたい。他の誰かではなく、わたしに恋がしたい。矛盾と矛盾が重なりあって、もはや園子の気持ちは痛々しいほど純粋なものに高められているのかも知れない。
園子が纏う少女めいた匂い。
思えば、園子は見合いをするまで、ほとんど恋らしい恋をしなかったと聞いたことがある。
それが、園子の人生で育たなかった、恋心の種だとしても、園子とわたしは、もう一度出会わなければならないのだろう。
唯一、今、確かなことだ。
「そうか。」
わたしは、園子の言葉を力ずくでも受け入れたくて頷いた。
園子のほうから、わたしのほうへ、風が吹いた。この暑さの中で、不思議なほど涼しい風だ。
「腹が減ったよ。僕を誘ってくれないかな、園子さん。今、僕、ひとりなんだ。」
わたしは園子が手を差し出すのを待った。
わたしの胸が、初恋を知ったときのように高鳴る。
園子は、わたしのほんとうの初恋なのだ。
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<著者紹介>
山田 夏蜜(北海道札幌市/33歳/女性/自由業)