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「緋色の葵」著者:高鳥珠代

あの男性(ひと)は和服が似合っていた。自分よりひと回りは歳上だったろうか。ウエーブがかった白髪交じりの髪は肩まで伸び、満開のなんじゃもんじゃの花の下、腕を組んで立っていた。肩口に白い花がひとつポトリと当たって足元に落ちた。踏まぬようさり気なく雪駄の先を少し花からずらす仕草が色気を放ち、微かな白檀の香りが波のように動く。美しく組んでいた両の腕を解くと懐からパイプを取り出して丸みを帯びたそのラインを指でなぞる。葵は彼から目が離せなくなっていた。視線を感じたのか彼が顔をあげる。しばらくそのまま見つめ合うかたちになった。風が止まり、呼吸をすることも忘れていた。少し気恥ずかしい、そのくせ心地よい緊張が身体中を駆け巡る。その時、葵は身体に巻き付く彼の視線を断ち切るように注がれる別の強い視線を背中に感じた。振り返ると手水舎の向こうに彼と同じ歳格好の和服の女性が見えた。葵の立っていたのはちょうどふたりの間だった。葵は彼女に秘め事を盗み見されたような、なんとも言えない後ろめたさを感じて、無意識に右手の本堂の方へ数歩動く。その一挙手一投足を見逃すまいと視線が追い続けていた。
 かつて葵には祐一という恋人がいた。小劇団の脚本を書いていた。彼の創り出す芝居は極彩色のエネルギーを放ち、たちまち葵を虜にした。恋をしたのだ。しかし彼の輝きはじきに消えた。彼の身体はすい臓がんに冒されていた。五年後の生存率は一桁だった。療養始めた彼を自宅に見舞うといつも、年老いた母親が狭い台所の丸いスチール椅子に背中を丸めてぽつんと座り『いますぐあの子をお腹に戻して、健康な身体で産み直したい』と皺だらけの頬に涙をこぼすのだった。手を握り励ますだけの真綿に包んだようなプラトニックな関係。投薬の匂いが籠もった部屋。生々しい飢えた生き物の匂いは、饐えた化学物質の匂いに掻き消されていく。無機質な時間。不治の病と闘う感動ドラマのような恋は次第に色を失い、逢いたいという連絡が疎ましくなった。悲劇のヒロインに興味はなかった。何回かに一回は断るようになり、段々断ることのほうが多くなり、いつしか連絡は途絶えた。そんなふうにして葵は祐一の前から姿を消した。病と闘う恋人を切り捨てる人間なのだと心を閉じた。恋愛に資格があるのなら、葵はそれを放棄したのだと思っている。
 それからの葵は寺社巡りに時間を費やすようになった。冷酷な自分への戒めもさることながら、身体にまとわりついた死の影を振り払いたかったからだ。深大寺は厄除けにご利益があると聞き、玄関に貼る角大師の降魔札を受けに来たのが最初だった。いまでは年に一度なんじゃもんじゃの花が咲く頃、新しい降魔札を受けるため深大寺を訪れると決めていた。それがかれこれ五回を数えていた。
 葵は彼らに軽く会釈をすると本堂へ向かって歩き出した。御本尊の阿弥陀如来をお参りし、五大尊池を渡る橋の途中でいつものように立ち止まり、木漏れ日の池を悠々と泳ぐ鯉を眺める。緩やかな時間が流れる。何回か深呼吸をするとさざ波立った心が静まる。水面に映る自分の影の隣に影がひとつ現れ、池を眺めながら葵に話しかけてきた。
「お参りにいらしたのですか? 」
「ええ。古い降魔札を納めて、新しいものを受けに参りました。貴方もお参りですか? 和服がお似合いですね」
「ありがとうございます。役者なんで仕事着みたいなものです。芝居がやめられなくてこの歳になっても続けています」
「そうですか。お好きなことを仕事にされているなんて羨ましいです。奥様も役者さんですか? おふたり揃って着物でお出掛けなんて素敵ですね」
社交辞令で言ったつもりだったが、彼は池へ落としていた視線を急に上げ、大きく見開いた目で葵を見た。空気が一変した。彼の顔が幾分青褪めたように見えた。
「女房を見た? 」
「さきほど手水舎のところにいらっしゃいましたよね」
その質問に返事は無く、ただ『睦美がここに… 』と呟くのが微かに聞こえた。
 『ゴーン』静まり返った境内に不意打ちのように鐘が鳴る。
 『ゴーン』その余韻を追いかけるように二度目の鐘が鳴り響く。強張っていた空気が和らいでいく。彼は話し始めた。その声はとても小さく、最初独り言なのかと思った。
「自分で言うのもなんだが、私は若い時分から随分とモテてね。昔は女房も役者だったんだが、正直あいつのほうが売れていた。だから売れない役者の私がどれ程女たちにチヤホヤされようと歯牙にも掛けなかった。興味がなかったんだろうな。しかし私はそれが腹立たしかった。無性に欲しくなった。私に無関心な彼女を口説き、半ば強引に結婚した。それを機に女優を引退させ家庭に押し込めた。愛情からというよりも、いい芝居をする彼女に嫉妬したからだったんだろう。そして自分は女に囲まれる生き方をやめなかった。『役者の遊びは芸の肥やし』などとよく聞く安い台詞を堂々と吐いて女房を遠ざけた。手に入った女に興味は無かった。女優の仕事だけでなく、私の妻だという誇りまで失い女房の心は壊れていった。私の帰りが遅くなると浮気を疑い、車で稽古場や撮影所を探し回るようになった。あれほど美しかった女房の顔は鬼気迫る阿修羅のようになった」
葵はまっすぐ前だけを見て話している彼の横顔を見ていた。 
「そして三ヶ月前、深夜に家を出た私を女房はいつものように追いかけて来た。環八であおり運転に絡まれ、避けきれず中央分離帯に追突した。一命は取り留めたが意識は戻らずいまも眠ったままだ。医者からはここ数日がヤマだろうと言われている。自分のせいだと分かっているが、その現実から逃げたいと思ってね。それでここに来た」
「じゃあ、手水舎にいらしたのは奥様ではなかったんですね」
彼は答えず、そのまま開山堂から境内を抜け地蔵の郷へ向かって歩き出した。導かれるように葵も彼の後を追う。いつの間にか葵は手をひかれていた。微かな温もりを確かめ合うように指を絡ませる。自然と繋いだ手に力が入る。地蔵の里の小道をゆっくりと縫うように歩き境内へ戻る途中、どちらからともなく立ち止まり唇を合わせた。ふたり縺れたまま転げるように坂を下った。湧水の音が響いている。境内の西はずれの釈迦堂までやっとたどり着くと、硝子越しの仏像の前に並んで立った。暮れゆく夕陽もただ流れる小川の音も美しいと思った。こんな風に心が動いたのは随分と久しぶりだった。
「きょうは有難う。またここで逢える? 次は蕎麦を食べて温泉まで足を延ばそう」
彼は葵の掌に和紙で出来た名刺をのせた。葵は頷きそれを胸に抱いた。
 駅前でバスを降り、ふと目にした古着屋のウインドウの中に薄桃色の紬の着物を見つけた。次に彼と逢うときはこの着物でと思い立った。家に着くと買ったばかりの紬の着物を衣紋掛けに掛ける。彼と過ごしたひと時が蘇り苦しくなる。着物の脇の下から袖の後ろ側にかけて大きく開いたところに目をやる。
「女性物の着物は脇から袖の後ろ側が開いているだろう。あれは男のためなんだ。手を入れてすぐに胸を愛撫出来るようにね。時代劇でよくあるシーンだろ」
悪戯な目をして彼が耳元で囁いた。帯を解かれ組み敷かれる日を思うと待つ日が焦れったくなる。つい昨日まで再び誰かに焦がれる日が来るなどとは思いもよらなかった。
 風も吹いていないのに軒先の風鈴が大きく乱れて鳴り始める。季節はずれに五月蠅いなと呟く。それはまだ元気な頃の祐一が『これは俺の居ない間、葵に悪い虫がつかない御守な。君は強そうに見えて案外弱いから』と軒先に吊るして帰ったものだった。祐一に窘められている気がした。後ろめたさから風鈴の音が一層煩わしくなる。外そうと立ち上がった時、突然衣紋掛けが炎立った。儚げな薄桃色だった着物が挑むような緋色に変わっていた。胸を押さえた。『私から彼を奪うな』と警告する彼女の声が聞こえる。『身体など動かなくてもお前を簡単に焼き殺せるのだ』と。葵は自分が彼女の手中にあることを知った。恐怖で身体が凍りついた瞬間、玄関の壁でボッと音がした。振り向くと降魔札が燃えていた。しかし炎は札だけを焼くとすぐに消えた。その時あれ程鳴り続けていた風鈴が力尽きたように縁側に落ちた。緋色に変わった着物だけがそこに残った。
 半年後、葵は件(くだん)の緋色の着物を着て深大寺を訪れていた。吐く息が少し白い。冬の初めの境内は前に訪れた時とは異なり、冷えた空気を湛え静まり返っている。出掛けに覗いた郵便受けに祐一の母親からの忌中葉書を見つけた。祐一は亡くなっていた。まさにあの日だった。あの時あんなに風鈴が鳴り続けていたのは、祐一が葵を助けるために生霊と闘ってくれていたからなのかも知れない。葵は祐一の最期を鬼に変えてしまった。彼女もまた彼を想うあまり鬼になっていたのだろう。未練がひとを鬼に変えるのか。それが故に極楽浄土への旅を鬼籍に入ると言うのだろうか。彼の名刺を懐から取り出ししばらく見つめたあと小舟を折った。湧水の流れに置くと、小舟は一度小石の周りをくるりとまわり、そのまま流れにのって時々淀みで頼りなげにゆらゆらと揺れながら、やがて見えなくなった。

高鳥 珠代(神奈川県横浜市/59歳/女性/会社員)