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「余白」著者:春乃礼奈

時折吹く生温かい風に乗って、桜の花びらが舞い上がり、視界を薄桃色に染めては、過ぎ去っていく。古民家を改装した蕎麦屋の脇に佇むその樹木を見上げ、あの頃と何も変わっていない、と思う。娘の小さな手を引き、入り口の暖簾をくぐると、ほぼ満席で賑わっている店内を、割烹着の店員がせわしなく動き回っている。いらっしゃいませ、という掛け声を聞きながら、数年前にオーナーが代わったと耳にはしていたが、見知った顔がいないのに時の流れを感じ、胸元を熱いものが通り過ぎていく。

 十年前、大学三年生の春からしばらくの間、私は深大寺にあるこの蕎麦屋でアルバイトをしていた。二年付き合った恋人に振られたばかりで、ただ毎日を無気力に過ごしていた私には、何か気が紛れるものが必要だった。だから家の近所を散歩中に、満開の桜の木に導かれるようにしてこの店の求人を見つけた時、私はその場で女将に直談判した。女将いわく、「バイトの子らが辞めてしまって大わらわ」だったらしく、私はそのまま採用され、初日に出勤すると、もう一人、森くんという男の子も採用されていた。
 森くんは私より二歳年下の十九歳で、芸術大学で陶芸を専攻しているとのことだった。
「粘土をこねるのと、蕎麦打ちって、どこか通じるものがあると思ったんです」
 初日に休憩室で二人で賄いの蕎麦を食べている時、なぜここで働こうと思ったのか尋ね、そう答えた森くんのことを、私は面白いと思った。切れ長の一重瞼、すっと通った鼻筋、薄い唇、白く長い首、華奢な二の腕、細長い指。「森くんてさ、パーツが繊細だよね。なんか、細い筆でスーッと引いたみたいだもの」私がそう言った時、「それ、褒めてますか?」と言いながら、彼は初めて声を上げて笑った。その笑顔を見せられた瞬間、ああ、私はこういう人が好きだ、と思った。
私達は大学の授業の合間を縫って、週の大半は働いた。私が注文をとり、森くんに伝え、女将の旦那さんが打った蕎麦を森くんが茹でて盛り付け、掛け声と共にカウンターに並べ、それを私が順に配膳する。初めこそ慣れなかったが、繰り返していくうちに、徐々に息が合っていき、森くんと目配せし合うそのたびに、少しずつ距離が縮んでいく気がした。
働き始めてからひと月が経過した日、大雨が降った。休日だというのに客足はまばらで、「お二人さん、こんな天気だし、早めに上がっていいから」と女将に言われ、私は片づけを済ませると、店の裏手の小さな庭に向かった。ほんの三坪ほどのこの庭を私は気に入っていて、休憩時間によく縁側に座って庭に植えられた木々や草花を眺めていた。
私がいつものように庭に向かうと、縁側には一足早く片付けを終えた森くんが、庭をまっすぐに眺めながら座っていた。「お疲れさま。森くんもここ好きなの?」と声をかけると、森くんは縁側に下ろしていた足を引き上げ、少し横に移動して私が座るスペースを作った。その様子に、受け入れてもらったような嬉しさを覚え、私は隣にそっと腰を下ろした。森くんの体の表面から発せられている熱を感じ、どきりとする。
「前に茜さんが座っているのを見かけて、どんな景色が見えるのか僕も気になって」
 この庭に来るといつも別れた恋人のことを無意識に思い出してしまうから、その時の私はろくな顔をしていなかっただろうと、平静を装いながら恥ずかしくなる。
「雨の日って、なんか良いですよね。僕、好きです」
 静かな湖に綺麗な小石を投げ込むように、森くんが言った。その横顔に向けて「どうして?」と尋ねると、森くんは少し考えた後、「落ち込んでいる日でも、どこまで沈んだっていいんだって、許してもらえる気がして」。
森くんの顔が急にこちらを向いたので、私はとっさに手元に視線を落とす。
「だから茜さんも、ここでは、好きなだけ落ち込めば良いと思いますよ」
森くんの深みのある声に、時が止まる。その静寂を、弱まり始めた雨がしとしとと雨音で埋めていく。「先に中入ってますね、ごゆっくり」そう言い残し、森くんは部屋の中に戻っていった。
 恋人に振られたのも雨の日だった。同じ大学のクラスメイトで、似た者同士で意気投合し、出会ってすぐに交際が始まった。それからの日々は順調で、将来の話もしていた。けれども、気づけば連絡の頻度も会える時間も減り、私の中に泥のように溢れていった不安は、「他に好きな人が出来た」たったそれだけの言葉で現実化した。あの日、急な夕立に打たれながら、どうやって家まで帰ったのか思い出せない。やがて連絡がつかなくなり、彼を見かけた友達いわく、「茜と全然タイプが違う子を連れて歩いていた」らしい。
平日の夕方、客足が落ち着いた時、友達の話だという体で森くんに自分の失恋話をした。森くんは真剣に考え込んだかと思いきや、「余白の美、ですね」と言った。
「何かを手放して余白を作らないと、新しい何かは入ってこないなって、思うんですよね。陶芸でも、器を模様で埋め尽くすんじゃなくて、いかに余白を残すかが大切で。だから、余白をありのまま大切にすれば良いんじゃないかなって、僕ならそう伝えますかね」
 どうして森くんの言葉は深いところに響くのだろう。恋人に振られて私は自分の一部が欠落して空っぽになったように感じていた。でもそれは空っぽではなく、新しい何かを迎え入れるための余白だったなんて。それは私にとって発見だった。
帰りが遅くなった日に送って貰ったのがきっかけで、働き始めてふた月が経つ頃には、森くんはバイト終わりに私を家の近所まで送ってくれるようになった。店の前で落ち合い、話をしながら並んで歩くその時間が、私は好きだった。
その日も、「おまたせ」と声をかけると、店の前の桜の木を見上げていた森くんがこちらを向いてそっと微笑んだ。樹木の端々から力強く芽吹く瑞々しい新芽が、月明りに照らされ、鈍く光を放っている。「行きましょうか」と言われ、こくりと頷いて並んで歩く。あたりに街灯はなく、木々の息遣いすら聞こえてきそうな静寂の中、お互いの足音だけが耳に響く。いつの間にか季節は変わり、体の表面にはうっすらと汗が滲んでいる。 
森くんはここ最近、あたりに立ち並ぶ蕎麦屋の前をぐるりと回り、やけに遠回りして私を送る。閉店後の蕎麦屋は眠る生き物のようにひっそりとしていて、私は自然と森くんに近づいて歩く。歩幅を合わせながら、元恋人の歩幅を思い出す。森くんよりも大きくて、いつも私に合わせてゆっくりと歩いてくれた歩幅。けれどもいつしか足並みは乱れ、視線は逸れ、言葉は無くなり、少しずつ離れていく彼の背中を追うのに私は必死だった。
深大寺の山門を通り過ぎ、深沙の杜にたどり着いたとき、突然、あ、と森くんは声を上げた。「茜さん、見てください」指さす方を見ると、黄緑色に点滅する小さな光が暗闇にぽつりぽつりと浮かんでいる。彼がそっと手を伸ばすと、白い手の甲に光の玉が吸い寄せられるようにして止まり、私は息を呑む。蛍だ。
「やっと見れた。ここ数年で深大寺にも呼び戻されたんです。それでずっと、見せたくて」
え、と吐息にも近い声を上げ、「それで最近、やけに遠回りしてくれてたの?」と尋ねると、森くんは穏やかに笑ってから、「だって茜さん、ずっと寂しそうだったから。何がそんなに寂しいんだろうってずっと観察してました」。
蛍は私達の会話に耳を傾けるようにして、ゆったりと点滅を続ける。
「たぶん茜さんの今は、明滅の「滅」なんですよ。あとほんの少し経てば、また光が戻ってきますから、きっと」
蛍はしばらく光を放った後、弧を描きながら飛び立った。その瞬間、私の中に残されていた元恋人の気配が、ふっと火が消えるように消滅した気がした。胸の奥から込み上げるものがあり顔を上に向けると、夜空を覆い尽くすように広がった木々の黒い影の間から、ひとつの星が、別れを告げるように密やかに瞬くのが見えた。
それが、森くんと一緒に働いた最後の日になった。次の出勤日、そこにいたのは森くんではなく、新しいアルバイトの女の子だった。女将に訊くと、森くんは急に辞めることになったのだという。毎日のように会っていたからこそ、連絡先は聞いていなかった。庭に向かい一人になると、堰き止めていたものが一気に流れ出し、私はその場で崩れるようにして座り込んだ。外では雨が強く降っていた。その日から私は縁側では必ず隣を空けて座るようになった。そうしていればいつかその余白に、森くんが戻ってくる気がした。

 蕎麦を食べ終え店を出るやいなや、散り際の桜の木の下へ、娘が一目散に駆けていく。
「パパとここで出会った日もね、この木はこうして見守ってくれていたんだよ」
 娘に追いつき、同じ景色を見上げる。あの頃の私は今の私を想像すらしていなかった。
「パパと出会った日の話、聞きたい人―?」
はーい、と手を挙げた娘の笑顔に、出会った日の森くんの笑顔が、ぴったりと重なった。

春乃礼奈(福島県いわき市/30歳/女性/会社員)