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「鬼燈祭りの夜」著者:今井歩

「ほおずき」を鬼燈と漢字表記することを知ったのは中学生の頃。この漢字を当てはめるのは深大寺だけというのを知ったのは高校生の頃。新盆七月に催される深大寺の夏の風物詩。私も幼いころから浴衣を着こみ、精霊たちを迎えるための提灯に見立てられた鬼燈たちを眺めつつそぞろ歩くのが、毎年のなによりの楽しみだった。
 親に手を引かれながらの幼いころは、お祭りの風情よりもそばパンやみたらし団子が楽しみで、いくら食べても不思議とお腹もこわさなかった。友達とお祭りに繰り出すようになったのは中学生の頃。部活帰りに風情も何もあったものではないジャージ姿で賑賑しく出かけた。スタンプラリーに見立てた八観音巡りを面白く楽しんで、境内の様子をおぼろげながらにつかんだのもこの頃から。
 高校生になると流行の柄をあしらった浴衣を親にせがむようになり、出かけるのも家族ではなく恋人に変わった。私の隣にいるのは、中学生の頃から陸上部で競い合った仲間でもあった。すらりと長い脚と鍛えた筋力で生み出すスピードは、いつも私を凌駕した。それでも私は、少しも悔しいとは感じることなく、いつも彼女のフォームに見惚れていた。
 今日の私は青朝顔の、彼女は少し大人びた菖蒲柄の浴衣を着て、体重の気になるお年頃でもあるので買い食いは控えめに、それでも綿あめを大事に持って歩いていた。常香楼を通って、なんじゃもんじゃの木を見上げ、本堂にお参りをすませてから青清神社方面に歩いた。人ごみのメインから外れるルートなので、話があるのだなと気を引き締めた。
「やっと了解が取れたんだよね」
 彼女、愛生が切り出し、私は微かに「うん」と頷いた。そして待つ。
「当たり障りの少ない部分からってことで、胸の除去手術から始めることになった」
 愛生の親にしてみれば精一杯の譲歩だったと思う。こんなに綺麗に生まれたのに、彼女は性同一性障害に苦しめられていた。娘の苦しみに理解を示したご両親は、長い時間をかけて話をし、外見の矯正には手術費を出してくれることになったという。それ以上の性転換手術を望むのであれば、それは自分で得た資金でという条件付きで。
「いろいろ準備していくと、手術は冬かな。親は卒業してからっていうんだけどね」
 私はやはり「うん」としか答えず、愛生はそれの意味をどうやら取り違えたようだ。
「大丈夫だよ。難しい手術とは違うから」
 彼女はよもや私が反対するとは思っていないのだろう。一番の理解者と信じていたから。
「大学に行ったら」私は、今、言わなくてはと決意する。「アルバイトしてお金をためて、子宮と卵巣を取っちゃうんだよね」
「うん。まだまだ時間がかかるよね」
「子宮と卵巣を取ると、ホルモン剤が欠かせなくなるんだってね。テレビでやってた」
「うん。薬代もばかにならないから、しっかり働いて稼げる職に就かないと」
「そうだけど」私は少し言いよどんでしまいそうになったのだけれど、話すなら今しかないんだと自分を励まし続けた。「愛生みたいな人、最近多くない。ねえ、流行なの」
 予想した通りに愛生は驚いて、次にいたく傷ついた顔をする。いいえ、想定内よ。ここで怯んだら駄目と、自分を叱咤した。
「愛生みたいに」私は訥々と話し続ける。「外科的手術で性転換した子のドキュメンタリーがあってね、その子は念願を果たしたはずなのに、アルバイト先で『今日入った男の子でね』って紹介されたとたん、違うって思ったんだって。なんなんだろうね。じゃあ、どうしたかったのって画面を見続けていたら、最終的には何ものでもない自分自身になりたかったんだって。今どきだなあって思っちゃった。壮大な自分探しってことなのかなあって。回り道しすぎて可哀そうになったし、外見が様変わりしすぎたことにも同情した。ホルモン剤の影響らしいね。体重が増えいて、言葉を飾らないで言うと、ものすごく太ってしまって、ほっそりしていた手術前の面影もなかった。ああ、これが現実かって、そう思った。けっして泣き言を漏らさなかったその子が神々しく映ったくらい」
「もし、私が同じように太ったら、瑠理香は嫌なんだね」
「嫌だよ」
 私は正直に答えたし、愛生はその正直さに衝撃を受けていた。私がこんなことを言い出すなんて夢にも思わなかったんだろうな。それは、わかっている。でも、私は思うの。
「人は外見じゃないよね。それはそう。でも、人は見た目が九割って言い方もある。私、これにも共感する。だって、私が愛生を好きになったのは、外見も含めてだもの。すらっとして美人で、男装の麗人を地でいくような愛生の綺麗な外見も含めて好きになったの」
「ダイエットと筋トレに励むからそんな心配は無用だよ。体重は一グラムも増加させない」
 愛生は裁判所での宣誓みたいに片手を上げた。でも、それは私の望む方向じゃない。
「無理でしょ。ホルモンの暴走だか乱高下に人間の意志がどこまで通用するの。無理」
「じゃあ、瑠理香はどうしてほしいわけ」
 人の少ない場所とはいえお祭りの夜の境内。愛生は本当なら大きな声で叫びたかったと思う。私に恥ずかしい思いをさせないようにと気を遣って、声を押さえてくれる。でも、でも、ここで気持ちを萎えさせてはいけない。その方が大きな後悔になってしまうから。
「今のままでいてほしい」
 愛生の息をのむ音がする。彼女にとってはこの上なく無慈悲な言い分に聞こえるだろう。
「性同一性障害の苦しみもそのままで、今の愛生でいてほしい」
「本気?」と聞かれたので、「本気」と答えた。愛生の顔から視線を逸らしたりせずに。
「もう後戻りするつもりはないって言ったら」
「さようならだね」
 二の句を継げない愛生を見つつ、これがマンガか小説なら、私は嫌な奴で悪役だよねと思った。男でも女でも、痩せていても太っていても愛おしいと言わなければならないんだろうなとはわかっている。それができない私は、きっと我儘なのだろう。でも、妥協はしない、絶対に。恋心を曲げて、無理をしてまでいい人を演じるほど大人じゃない。
「別れ話なんて掃いて捨てるほどあるよね。自分の気持ちを偽って無理して、傷口が大きくなってからケンカ別れするよりも、今がそれぞれの生き方をするいいチャンスだと思う。愛生が性転換手術の意志を貫くのなら、私は同性の綺麗な人を好きでいるっていう気持ちを貫きたい。謝らないよ、我儘はお互い様だもの」
愛生は何も言わない。頭が真っ白なのか、思いが入り乱れて真っ黒になったかのどちらかだ。ううん、あきれ果てて早く終わらせたと思っているかもしれない。
「さようなら。私の綺麗な愛生」
 お別れする日を間違えたかなと、少し思った。鬼燈祭りは毎年めぐってくる。手を繋ぎながら一緒にそぞろ歩く人ができたとしても、私は毎年、今日という日を思い返さずにはいられないだろう。縁結びの神様が近くにいる深大寺で、どうしてこういうことになってしまったのだろう。唇をかんだけれど、涙が頬を伝うのをどうしても止められなかった。
 私はまだ十七歳の高3だったけれど、それでも一つの青春にピリオドが打たれたことを強く悲しく思わずにはいられな
 最初の恋人のステージがあまりに高かったこともあって、もう二度と恋人には恵まれまい。LGBT気質を抱えている女性としてはひとりで後ろ指を指されずに生きるため、猛勉強して薬学部に進んだ。通学できる範囲だったので、環境にさしたる変化は訪れず、季節ごとの地元のイベントには相変わらず参加していた。今日も、鬼燈祭りに繰り出している。恋人もいないのに? ううん。私は縁結びの神様に見捨てられなかったようだ。
 私は赤花と麻の葉模様の浴衣に萌黄の帯を合わせ、恋人は紺の市松に梅をあしらった浴衣に細めの赤い帯を兵児帯結びにしている。私は髪をアップに結い、恋人はブリーチをかけた上に赤のメッシュを入れるという派手なヘアスタイルで、メイクもばっちり決めている。艶やかでかつあだっぽい。毎年のことだけれど、辺りから「宝塚?」「どこのビジュアル系バンド?」という囁き声が聞こえてきて、恋人はひどくご満悦の様子だ。ヘアスタイルを変えたくないので、ドクターコースに進んで研究者を目指すのだとうそぶいている。
「薄毛に悩むようになるからね、そのうち」意地悪を言うと、「二十五まではこのまま、ね。そこからは育毛剤の研究に勤しむから」そう言って笑う。「歌は下手だし、ダンスはリズム感ないよね」追い打ちをかけると、「盆踊りは踊れるからいいじゃん」とどこ吹く風だ。
 男装の麗人を地でいくすらりと美しい愛生は、高校生のあの鬼燈祭りの日となにも変わらない姿で、私の隣にいてくれる。      

今井歩(愛知県名古屋市/65歳/女性/家事従事)