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「トライ&エラー、どんな時も」著者:澤幸希

CADの画面に向かったまま一向にまとまらないイメージに私は手を焼いていた。今回のクライアントは四十代のご夫婦、ご両親から相続した古い住宅のリノベーションだ。深大寺と神代植物公園の周囲は都心から至近の住宅地として人気が高く洒落た住宅が軒を連ね、クヌギや白樫、背の高い欅などの武蔵野の雑木林が心地良い木漏れ日を揺らす。その中でひと際緑濃く樹々が茂る広い敷地が寺田家だ。代々蕎麦農家だったという寺田家の敷地に建つ民家は何代も受け継がれた歴史に彩られ凛として美しい。ご両親が相次いで他界された数年後、米国勤務を終えた寺田さんはご家族を伴って帰国され、その家に住まわれることになったが、古い建物を快適な住宅にするには大幅リノベーションが必要だった。シアトル育ちの息子さんとアメリカ人の奥様がその環境に馴染めるかを懸念されていた。
「僕にとって思い出のつまった故郷でも、木々に囲まれた武蔵野の穏やかな自然は海が眩しいシアトルとは違いすぎますからね。二人の笑顔を見たい。それだけが僕の希望です」
 家づくりは誰にとっても大きな夢の実現だ。とても要望が多い。だがたった一つのその課題は百の具体的な要望よりずっと難しいミッションだ。小学四年から六年間調布市に住み八雲台小学校に通った私にとっても武蔵野は故郷の代名詞、深大寺は格好の遊び場だった。一面に水田が広がり彼岸花が揺れ、野川の岸に茂る数珠玉は自慢の首飾りになった。夏の夜には蛍が舞い光の糸を紡ぐ。仲良し四人組は夜こっそり蛍を見に行って親たちを心配させた。わずか数十年前、そこには紛れもなく美しい日本の里山が広がっていたのだ。全米有数の美しい都市シアトル育ちのお二人に武蔵野を楽しんでいただきたい、それは私自身の願いでもある、そんなノスタルジックな感傷に戸惑った。
 私は十年前に住宅メーカーを退職してフリーになった。インテリアコーディネーター歴は三十年を超える。小柄で子供のころから運動会の花形にはなれなかったが、スピーチコンテストやポスターのデザインコンペなどの文科系のイベントで人気者だった。そのプレゼンパワーが貢献したのか、仕事は多忙だった。私はどの住宅デザインにも手描きのパースを添えて、プレゼンにはコンセプトをイメージし易いタイトルをつけるのが流儀だ。定年後海辺に移住するご夫婦のためには『空と波に会いに行こう』、高校生のお嬢さんに手を焼くご家族には『アイドルは私』といった感じである。しかし、今の時代はAIの素早い的確な分析を駆使し、VRの仮想空間での意思伝達が強力な説得力を持つ。私のアナログな流儀も大きな方向転換をするべきでは、と迷っている時期でもあった。
 煮詰まった気分を変えようと大きく伸びをすると、デスク脇の書棚にしまい込まれた細長い小箱が目に留まった。開けてみると、二枚の古びた絵葉書と封書が入っていた。絵葉書は札幌の時計台と支笏湖の紅葉。封書の宛先は実家で、しかも私の旧姓だ。封筒を裏返してみると、差出人はあの深大寺探検隊のリーダー格、いたずら坊主で一歳年上の『武田文也』だった。ドキドキして便箋を開いてみた。厚手の紙、太いグレーの罫線、いかにも昭和の男らしい筆跡だ。
『ゆこちゃん、俺、ラブレターを書くのは……初めてなんだ。元気ですか』
 ゆきこを略してゆこちゃんと私を呼ぶのはたった一人、文也くんだけ。ありったけの親しみが込められた呼び名だ。何年もしまいこまれていたのに褪せていないインクの文字が一度だけの不思議な再会の記憶を鮮やかに呼び覚ました。その年は私の人生最悪の試練に打ちのめされていた年だった。一人息子貴志を亡くした年だ。
 夫の不倫が原因で、結婚三年目に私は離婚した。発達障害の傾向がみられる二歳の貴志とのシングルマザー生活は精神的にも経済的にも決して簡単ではないと予測はできたが、宝物の息子は私が育てたかったので在宅翻訳の仕事を再開し生活基盤を作った。息子の成長から受け取る喜びと希望は、裏切りや不信の大きな傷跡を癒した。貴志が交通事故で亡くなったのは八歳のとき、別れた夫が久しぶりに連れ出して動物園に行く途中のことだった。急報を受けて駆け付けた病院で二人が亡くなったことを知った。受け入れ難い現実への憤りで震えたが、その憤りも夫の二人目の妻の俯いた蒼白な顔と窄めた両肩を見て行き場を失った。理不尽な暴力にも等しい打撃を受けた自分がその後の葬儀や納骨をどう乗り切ったのか記憶がない。三カ月を過ぎた頃容赦のない現実に向き合った私に訪れたのは、強い後悔と自責の念、取り戻すことのできない宝物への底知れない喪失感だった。仕事も辞め、貴志の写真の前に座って一日中黙りこくっている私を母や友人が心配し、毎日誰かが顔を出してくれたが、手をつけていない食事を見てため息をつくだけだった。セピア色に変色し、光を失った日常のどこにも生きる目的が見出せなかった。頑張る? 誰のために? 朝が来ればまた無意味な一日が始まる。目が覚めなければいいのにとさえ思った。
そんなある日だった。初夏の午後だったと思う。不思議な出来事があった。あてもなく家を出た私は駒込から山手線で新宿へ向い京王線に乗った。意思もなく目的も無い私の手を誰かが引いているようだった。気が付くと蕎麦屋や土産物の店が並んだ石畳みの参道らしき狭い道を歩いていた。古い山門を入ると、右手に大きな鐘楼があった。深大寺だ! 川の水音が耳を打った。夢遊病者のようにぼんやり立っている私の肩を誰かが掴んだ。
「ゆこちゃん? ゆこちゃんじゃない?」
 振り向いた私はあっけにとられた。背が高く体格の好い男性が笑顔で見下ろしていた。ずり落ちそうな四角い鼻眼鏡でそれが誰かすぐに分かった。
「……文也くん! 文也くんなの?」
「そうだよ。相変わらず人形みたいにちっこくて可愛いね。幽霊みたいな顔してるけど」
「――幽霊はそっちだよ、脚は有る? 深大寺は武蔵野の古刹だよ、国宝の仏像もあるし」「ひでぇなあ、本物だよ。あんまりいい男で分からなかったか? 小学校以来だもんな」
 二人は互いの憎まれ口に笑い転げた。堰を切ったように会話が弾んだ。私は夫と息子を失ったこと、本当は死んでしまいたいと思っていることは黙っていた。文也くんは大手新聞社の社会部記者になり、札幌支局に勤務しているという。
「嫁? 焼きもちやくなよ。そんなもんいるわけないだろ。文也がブン屋になっただけさ」
 文也くんはそういって片目をつぶり、いきなり私の頭をポンポンと叩いた。
「俺、もう行かなくちゃ。おまじないをかけてやるからな、元気出せよ。大丈夫だ」
 突然あたりが暗闇に包まれた。私の周りを無数の蛍が光の曲線を描いて飛びまわった。思わず差し出した私の指に一匹がとまり二、三回点滅してゆっくり飛び去った。すると瞬時に暗闇が溶けた。眩しくきらめく夕陽の残光に手をかざして、必死であたりを見回した。いくら目をこらしても文也くんはもうどこにもいなかった。蛍が留まったこそばゆい感覚が残っている指先から熱い流れが全身に広がって、屈めた背筋を伸ばせと促した。大事な人との繋がりは永遠に消えないのだ! 文也くんのおまじないは私を深い喪失感の暗闇から救い出し、家族の繋がりを家と言う形で創造する今の仕事の原点となった。
『ゆこちゃん、大好きだよ。ゆこちゃんが隣にいないと寂しくてたまらない。ちびで強がりの君がいない街はただ空っぽだ。あの夏の夜の蛍は最高の思い出だね。もう一度君に見せてあげたかった。俺は先に逝く。ごめんな、一緒にいてやれなくて。だけどいつだって、ゆこちゃんはゆこちゃんでいればいい。それが一番大事なんだ。大丈夫!』
 大丈夫は彼の口癖。そう言われるといつも本当にその気になれた。消印は昭和五十五年、札幌局。あの再会の年だ。消印が涙でぼやけた。
『ノスタルジーは甘い感傷じゃない、命の賛歌なんだ。蛍は澄み切った流れにしか宿らないだろう? 俺のゆこちゃんへの想いも同じだ。トライ&エラー、どんな時も味方だよ』
文也くんのメッセージは私の魂を揺さぶった。ありのままの自分を信じよう。私だからこそできることがある。私は便箋を丁寧にたたみ直し手の平に載せてポンポンと軽く叩いてみた。誰かさんがしてくれたおまじないだ。すると、それまでばらばらのピースだった住宅のイメージが深大寺の緑の樹々に囲まれてひとつに集結した。
住宅は大成功だった。取り壊した建物の風格のある建材は可能な限り内外装に活かした。屋根の上の小さな木の要塞は宇宙好きな賢人君の天体観測所。アリスさんの趣味のキルト製作室は広く可動壁を。西海岸風のインテリアだ。引渡しの夜、私はサプライズを実行。懇意の映像デザイナーの協力で暗闇に包まれた庭の樹々に蛍の舞う夜景をプロジェクションマッピングしたのだ。アリスさんも賢人君も大喜び。息子の興味の対象が広がったと喜んだ寺田さんは早速日本の昆虫図鑑を買った。住宅のタイトルは「蛍と星が遊ぶ夜」。建築雑誌でもSNSでも話題になった。文也くんの素敵なラブレターは心を掴むプレゼンの神髄を教えてくれた。勇気と本音、心からの賛辞。さすが一流紙のブン屋さんだね。
 文也くんへの初恋、それがゆこちゃんの一度きりの本物の恋、のはずだった。それなのに私……あなたにまた恋してる。

澤 幸希(静岡県静岡市)