「しぞれ梅」著者:山木大吉
受験やし、流石に今年は来るのやめようか思ってな。でも、あんたが寂しがるだろうから、わざわざ来てやってん。感謝しいや
偉そうに石段にもたれかかりながら、春は山門脇で売られていたみそ団子を頬張る。浴衣姿の春は今回が初めてだった。この季節になると、春はわざわざ大阪から一人で新幹線に乗って上京してくる。
初めて食べたけど、これ美味いなぁ。いる? いらんの? あそう、じゃあ全部もらうけど。それにしても暑いわぁ、頭ぼーっとしてくる。
はだけた襟に覗く首筋を、汗がつたっていく。春は鞄から手持ち扇風機を出して顔に風を送り、あー、うーとうめき声をあげる。神様の御前で随分だらしない格好だが、春曰く深大寺の神様は心が広いから余裕で許してもらえるらしい。流石に小学生から通っているだけあって、神様さえ見知ったる口調だ。
春は団子を食べ終わってもしばらくうだうだ暑さの愚痴を言っていたが、何を思い出したのか突然立ち上がった。そのまま何も言わずにすたすた石段を上がっていく。仕方なくついていくと境内を抜けたすぐ先にある駐輪場の脇で、春は立ち止まった。
ほら、ここ前も来たとこ。
指を差した先には、涼しげなそば処の暖簾がかかっていた。数年前、僕と春で一緒に来たそば屋だ。店の人に案内されて奥まった座敷のテーブルに座ると、冷たい麦茶とメニューが運ばれてくる。あれから何年も経つけど、飾り気のない内装はあまり変わっていない。張り出した柱にぶら下がった風鈴の音が、心ばかりの涼しさを運んでくる。
へえ、ジャンボかき氷ってまだ売ってたんや。一緒に食べたん、覚えてる? こんなでっかいの。
春は大きく手を広げてみせる。僕も覚えているけど、流石にそんなに大きくはなかった。大袈裟だなあ、と思う。
最初美味しかったけど、最後の方めっちゃ後悔してたわ。懐かしいわあ。もう頼まんけどな、頭痛なるし。あ、見て、しぞれ梅って、前あんたが食べてたやつやない? この写真、絶対そうやて。覚えてるもん。実はな、あんまり美味しそうな顔してたから、あんたがトイレいっとる間にこっそり一口もらったんや。でも、ちょっと酸っぱかったわ。私、酸っぱいのだけは苦手なん。知っとるやろ? すみませーん。はい、これとこれ、あとこれも、ください。ん? ああ、ええて。お腹空いてないなら私が食べるから。
春は意気揚々と注文する。昼時には早くお客さんが少なかったこともあり、それほど待たされることもなくお盆が運ばれてくる。
はい、ザルとしぞれ梅。それと、かき氷ミニです。よく食べますね、お姉さん。一人ですか? ん、彼氏さんと一緒。そうですか、それはいい。深沙大王は縁結びの神様ですから、きっといい思い出になります。
人の良さそうなおじいさんはぺこりとお辞儀をして厨房の中へと戻っていった。
彼氏やって、信じたかな。別に、ええやろ? 変に友達って言っても怪しまれるだけやし。あんたも光栄やろ、嘘でもこんな美少女と付き合えるなんて、そうないで。へへへ、食べよか。いただきまーす。お、なかなかコシがきいとりますなあ。あれ、おそばってコシって言わないんやっけ。どうでもええか。
美味しそうに音を立てて、春がそばを啜る。表情がコロコロ変わる春は見ていて飽きない。よほどお腹が空いていたのか、ぺろりとざるそばを平らげてしまう。
それにしてもあんた、本当に少食やよな。ちょうだい、それ。ええやろ勿体無いし。この赤いのって食べれるんやっけ。葉っぱ? まあえっか、毒は入っとらんやろし。あー、すっぱ。ほんまによくこんなの食べてたよなあんた。なにさ、気にせんでええよ。お腹すいてないんやろ。無理することないて、私が全部食べるから。
よほど酸っぱいのか、途中何度も顔をしかめながらそれでも春はそばを食べ続ける。口に合わないならやめればいいのに、変なところで春は意固地だ。
やばい、おなか痛なってきた。酸っぱいわあ。仕方ないやろ、残したらお店の人に失礼やし。それにしても縁結びの神様やったんやな、ここ。何遍も来てたけど、初めて知ったわ。そっか、じゃああんたと結婚できるように祈っとけばよかったやんな。結婚じゃなくても、二人で幸せになれますようにって。一緒に行けば叶えてくれるやろ。多分。……冗談やて、照れんといて。こっちが恥ずなるわ。酸っぱ。あー、やば、ほんまに酸っぱいわ、これ。口が変になる。なんか涙も出てきたし。てか、まだかき氷も残ってるやん、どうしよ。さすがに残してまうかもなあ。
かき氷は手付かずのままもう半分くらい溶け出して、緑色の液体が器の底に溜まっている。春が黙ると急に蝉の鳴き声が耳に入ってきた。うるさいほどに夏が深いのを思い出す。春はじっと溶けていくかき氷を見つめていた。
今年でな、最後にしようか思ってん、ここに来るの。もうやめようって、自分で決めてきた。うん、だからあんたにさよなら言いに来たんや。あんま寂しがんなや、別に、気が向いたらまた来るかもしれないし……ううん、やっぱり来ないわ、ごめん。決めたんやった。……あんたの声がな、聞ける気がしたんや。一回くらいそんなことがあってもええて、思わん? 馬鹿やろ、死人が喋るわけないのにな。おもしろ。
春は少し涙目になりながら、またそばを啜る。
あーあ、やっぱり酸っぱいわ。ほんまに酸っぱい。何なんこれ。なんか腹たってきたわ。あんたもあんたでなんか言ったらどうなん。別に感動的な長文よこせって言ってるわけやないで、こちとらちょっとあんたの声が聞こえれば満足やのに。意地悪いで、ほんま。
6年前、深大寺に参拝に行った帰り道、僕はトラックに撥ねられて死んだ。春が僕の幻影を見るようになったのはそれからだ。僕ではない僕に向かって春はずっと喋り続けている。本当に馬鹿だな、と僕は思う。僕の一番大切な人はとんでもない馬鹿で、馬鹿みたいに泣きながらとうとうそばを食べ切ってしまった。おいしかった?って意地悪く聞いてやりたいのに、春に届く声を僕は持ち合わせていない。春は箸を置くと、ずずっと鼻をすすった。
はあ、食った食った。お腹いっぱいやわ、ダイエット中なのに、あほや。あんたもそう思うやろ? 受験勉強だってこんなに無理せんで、なあ……。
馬鹿みたいや、とつぶやいた声は蝉の鳴き声ですぐに掻き消えた。
最後にしような、これで。
悲しそうな表情で、たぶん僕ではなくて自分に、春は言った。
このままじゃいけないやろ。私だって大学入って、そしたらバイトして、彼氏だってできるで。ほんでな、誰かと結婚して。これから先、何十年も生きていかなきゃいけないんやし。そしたら大変やで、いつまでもあんたに付き合ってるわけにはいかんて……。ごめんな、だから、もうさよなら。
春は少し不安そうだった。でも春は頑固だから、ここに来ることはきっともうない。
一つだけ、僕が深妙大王様にお願いしていたことがある。
ただ春が、僕のことを忘れられますように。
僕は、なにもない身体で春を抱きしめる。
ありがと。と、耳元で言う。
伝わるわけもないのに、春が少しだけ笑った気がした。最後くらいそんな奇跡が、あってもいいと思う。
よし、と春は伝票を持って立ち上がった。お会計を済ませて外に出ると、ぐっと伸びをする。まるで長年の憑き物が落ちたみたいに、春は清々しい顔をしていた。大人になったな、と僕は思う。いつの間に、こんなに春は逞しくなったんだろう。
パラパラと、天気雨が降ってくる。
傘をさすこともなく、春は嬉しそうに空を見上げる。僕が門出を祝福してくれているとでも思っているんだろうか。
飛び跳ねながら、春は手を高く上げた。
どうしようもなく、その姿が綺麗だった。
山木大吉(東京都多摩市/19歳/男性/学生)