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「苦手な理由」著者:雲野琥珀

 ジリリ、真っ暗な部屋の中、充電中の携帯電話が大きな音を立てる。手探りで見つけた携帯の画面には、大学の先輩、瀬野ユマの名前が表示されていた。うわ、と、思わず嫌な声が漏れる。小川弘樹は、渋々体を起こして、鳴り続ける携帯電話を眺めた。
直ぐに出ないのは、単純に、出たくないからだ。正直にいうと、弘樹はユマが苦手だった。とはいえ、こんな朝早くにかけてくるのだから、余程大事な用なのだろう。弘樹は最大限しかめツラを作ってから、通話ボタンを押した。
「おはよ!今日深大寺いこ!」「なんで深大寺?」「いいから、いこ!」
 朝から元気なユマの勢いに気圧されつつ、弘樹は画面から耳を話して、時間を確認した。カーテンが閉まっているせいで時間の感覚を失っていたが、あと一時間もすれば正午だ。思ったより、長い間寝ていたらしい。
「何時っすか」「いける?やったぁ!十三時に調布駅ね!」
 弘樹が曖昧に返事を返すと、電話は直ぐに切れた。この誘いを断ったところで、どうせ一日寝て過ごすだけだ。一つ息を吐いて、弘樹は出かける準備へと向かった。

暑、無理。調布駅を出て、顎からこぼれ落ちる流れ出る汗を拭った。まだ盛夏は遠いはずなのに、庇の影は驚くほど黒い。陽の下には、どう考えても出たくない陽気だった。
『十一番のバス停』メッセージで示された方向に目を向けると、直射日光の下でユマがブンブンと手を振っている。少し日に焼けた肌が、太陽によく似合っていた。ちょうど深大寺行きのバスが、停車場から十一番乗り場まで移動するのが見えて、弘樹は慌ててユマの隣に駆け寄った。
「なんで急に深大寺なんすか、」「そば、食べたくて」「そば?」
 そば屋なんて、どの駅にも一件はある。最近は、コンビニにだって売っている。なぜこの暑い最中、遠出をしてそばを食べにいくのか、弘樹にはイマイチ理由がわからなかった。弘樹にとってそばというものは、牛丼と同じくらい、手軽なものなのである。
「どこにでも牛丼屋はあるけど、安くて早い牛丼が食べたい日もあれば、高くても美味しいアンガス牛の牛丼が食べたい日もあるわけ。で、今日はその後者なのよ」
「まぁ、言いたいことはわかります。アンガス牛の牛丼、食べたことないっすけど、」
 僕も、食べたことないや。ユマは、ふは、と笑った。なぜ、急に牛丼の話が出てきたのだろうか。『牛丼と同じくらい』と思ったのを、見透かされたのだろうか。こういうやけに勘のいいところ、嫌いだ。弘樹は、バスの外を眺めた。

 深大寺のそばは、確かに美味しかった。麺はもっちりと柔らかな歯応えがあって、瑞々しい。つゆも甘すぎず、そばの味が一層引き立っている。
「海老天、ちゃんとエビが入ってるね」
 ユマが、くふ、と笑った。海老天なんだから、エビは入ってるに決まってるじゃないですか、というと、ユマは、そうでもないのよ、と大葉天を摘みながら言った。
「衣でカサ増ししているのも、あるじゃん?あれはあれで衣が厚くて美味しかったりするけど、こういう方が好きなんだよね」
 そう言われると俄然興味が湧いて、弘樹は海老天を食んだ。確かに、先の方までみっちりとエビが入っている。ユマは、なんか贅沢でしょと言って、満足そうな顔で、深大寺ビールを煽った。

門前の店で買った、息を吹き込むと伸びるおもちゃをヒュルヒュルとならしながら歩いていると、ユマが、あ、と声をあげた。ユマの視線の先を見やると、『氷』という旗が見える。ユマは、あれ食べたい、と言って、返事も聞かずにのれんをくぐっていった。まぁ、確かに、今日は溶けてしまいそうなほど暑い。弘樹はユマに続いて、のれんを潜った。
池のほとりの席に通されると、ユマは嬉しそうに、特等席だね、と笑った。確かに、特等席だ。池には鯉が泳ぎ、水車が回っている。忙しないと思っていた大都市東京に、これほど長閑な場所があるとは。弘樹は思わず、息を深く吸い込んだ。
 どうしよ、と小さく呟く声が聞こえて振り返ると、ユマがメニュー表を見ながら、難しい顔をしている。
「かき氷、食べたいんじゃないんすか」
「あぁ、うん。ラムネかき氷、美味しそうなんだけど、でも、抹茶セットも気になる」
 眉間のシワがマリアナ海溝みたいっすよ、と言ったら、ユマはメニューを睨んだまま、二本の指でシワを伸ばした。そんな悩むことかよ。面白くなって思わず吹き出すと、ユマの視線がようやく弘樹を捕らえた。

「抹茶セットのお客様」
 弘樹が返事をすると、ユマが物欲しそうに弘樹をみた。俺、ラムネ食べたいんで、半分こでいいすか、というと、ユマは嬉しそうに頷いた。必然的に、空いているユマの前に、かき氷が置かれる。かき氷は、緑色をしていた。まるで、ライムの断面みたいな、瑞々しい黄緑。
「あれ、ラムネ頼んだんじゃないすか?」「うん。店員さん、ラムネって言ってた」
 ユマが、黄緑を掬う。あ、ちゃんとラムネ味だ。ユマが、くふ、と笑った。ええ、と文句を漏らして、弘樹も黄緑を飲み込む。それはまごうことなき、ラムネ味だった。

 深大寺へ着くと、ユマは流れるようにおみくじの列に並んだ。小遣いを渡された小学生のように、二百円を裸で握りしめている。ようやくユマの順番がきて、ユマはふぅ、と息を吐いた。
 カラカラ。みくじ箱の中で、細い棒がぶつかる音が小気味よく響く。ユマは返却されたテストの点数を見るときのように、恐る恐るくじの入った引き出しを開いた。
うあ。ユマは、あからさまに絶望した声をあげた。その声だけで、すぐにそれが凶だったのだろうと、予想ができるほどに。
●火事ぬす人の用心すべし○病人凶し變あるべし油断すべからず○喜びごとなし○待ち人きたらず○うせものでがたし○よめとりむことり凶し○うりかいともに凶し○生死十に八九は死すべし
「やば、なんもいいことないじゃないっすか」「十中八九死ぬって、そんな悪いことある?」
 ユマは不服そうな顔で、おみくじを結んだ。結び目の紙がひしゃげるほど、強固だった。

「今日、来てくれてありがと」
 帰りのバスを待っていると、ユマが呟いた。まぁ、俺はいつでも暇なんで。というと、そんなことないくせに、と言って、困ったように笑った。
ユマが居住まいを正したのを感じて、弘樹はユマを見つめた。ようやく、本題に入るつもりなのだろう。
ユマのこめかみから流れた汗が、首筋を伝ってシャツを濡らしていく。かっこ悪い話なんだけど、という前置きから始まった本題は、彼氏に振られたというありふれたもので、大してかっこ悪くもなかった。フゥン、というと、ユマは安心したように笑った。
「今日、弘樹誘ってよかったぁ。めちゃめちゃ楽しかったし」
 ありがとね、ユマはそう言って、バスの方へ歩き出す。俺は思わず、彼(ユマ)の腕を掴んだ。
あの、と言ったきり、言葉が続かなかった。いいたいことはたくさんあるはずなのに、どれ一つ形になってくれない。弘樹は茶屋で見た鯉のように、ハクハクと幾度か息を漏らした。
急な誘いを断らないのも、勝手に入って行った店についてくのも、コーヒーも飲めない俺が、抹茶セットを頼んだのも、全部、全部。
「わかってますよね」
 彼は何も言わず微笑んだまま、プィィと音を立てて開いたバスに乗り込んだ。掴んでいた腕が、するりと抜けていく。そのまま握り込んだ掌が、汗でじっとりと湿っていた。
 バス出ちゃうよ、ユマに急かされて、弘樹は渋々バスに乗り込んだ。ほら、またこれだ。これだから、俺は、この先輩のことが、どうにも苦手なのだ。

雲野琥珀(神奈川県)