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「フラワーシャワー」著者:doi

 大温室の中でも、江藤さんが作業をするその部屋は、比較的ひんやりとした空気に包まれていた。スーツ姿で資料とにらめっこをしていた頃とは違って、グレーの作業着を纏い、黄色い大輪を咲かせた鉢植えを大事そうに抱えている。くせのある髪に、細い黒ぶちの眼鏡。懐かしい横顔は二年前とほとんど変わっていないけれど、元々痩せていたくせに、頬は前よりもこけて、眼球が浮き出るように目元の彫りが深まっている。植物を眺めていると癒されるって言っていたくせに、ちっとも健やかな感じがない。
 不意に右を向いた江藤さんが、愛想の無い視線をこちらに向けると、切り傷みたいに細い目をわずかに見開いた。
「隅田?」
「従業員さん、これ、なんて花なんですか?」
 アルミの棚に並んだ色とりどりの花を指さすと、江藤さんは口元を綻ばせながらオレンジ色の花を咲かせる鉢植えを手に取った。
「これはベゴニアって言って、葉っぱの形が左右非対称なのが特徴的な花です」
「そうですか、綺麗ですね」
 嘘くさいやり取りに、私と江藤さんは同時に息を漏らすようにして笑った。
「久しぶりだな。元気だった?」
 一年前に、江藤さんは会社を辞めた。調布市内に本社を構える、香辛料を輸入・販売する、中小企業。江藤さんは企画開発部のチームリーダーで、私の教育係だった。私よりも一回り近く年上で、あまりリーダーに向いている人では無かったけれど、仕事が立て込んでまともに寝られていないときでも、しんどそうにせずに、いつでもけらけらとした調子を崩さない人だった。
「時間ある? もうすぐお昼休みだから、せっかくだし付き合ってよ」
 声を弾ませる江藤さんに、私は左手首に巻いた腕時計をちらりと確認し「いいですよ」と返す。この後の予定なんてないのにもったいぶるような態度を取ってしまったのは、簡単に了承するのが躊躇われたのと、純粋に、この人でも、それなりに懐かしいとは思ってくれていることに驚いてしまったからだった。
江藤さんは「さくら園の前の芝生広場で待っていてよ」と言って、地図の載ったパンフレットをくれた。緩やかな下り坂を、のんびりと歩いていく。玉砂利の上を歩くとシャリシャリと音が鳴り小気味が良い。三月も終わりが近づき、暖かい日が続いていたから、満開のさくらは柔らかく吹いた風に花びらを舞わせていた。路傍の植木にも、道の上にも、季節外れで、土が耕されたままになっているダリア園の花壇にも、薄紅色の花びらが散りばめられ、どう足掻いても視界に入ってくるほどに、あたり一面を春色に染め上げている。豊かな色彩に囲まれ、オフィス街にいるよりも、深く呼吸ができる気がする。江藤さんの転職先の神代植物公園には、片手で数えられるほどしか来たことがなかったけれど、もっと来ればよかったと、今さらになって思う。
 芝生広場のベンチに腰を掛け、頭上で舞う花びらを眺めていると、江藤さんと一度だけお花見をしたときのことが脳裏に蘇った。私がチームに入ってすぐに、歓迎会と称して催されたものだった。江藤さんは下戸のくせに誰よりもはしゃいでいた。
思えば、江藤さんはそんなに良い先輩ではなかった。教え方は雑だし、口癖が「めんどくさい」で、丁寧に仕事をするタイプではなかった。社歴が上の人や社外の人への敬語は怪しいし、軽い調子や無神経な言葉に、時折無性に腹が立つこともあった。それでも江藤さんの指導をきちんと受けてきたのは、あのお花見のときのことがあったからだと思う。
「ごめん、待たせたね」
 作業着のままの江藤さんの手には、オレンジ色のランチバッグがあった。「自分で作ったんだよ」と、江藤さんは得意げに言う。
売店でやきそばとお茶を買い、江藤さんとベンチに並んで座って食べた。江藤さんが作ってきたのもやきそばで、水色のタッパーにみっちりと詰まっていて、プラスチックの箸で掴み上げたら全部くっついてきてしまう有様だった。恥ずかしそうに笑う江藤さんは、少し痩せたけれど、一年前とちっとも変わっていなかった。
「隅田はずいぶん変わったね」
「そうですか?」
「うん。一年前はもっと幼い小娘みたいな雰囲気だったけど、だいぶ社会人らしくなったというか、貫禄が出てきたよ」
 へらへら笑う江藤さんの子ども扱いするような言葉選びは、やっぱり癪に障る。
「もう俺がいなくても、隅田がいればチームは安泰だろ?」
「どうですかね。私、移動になりましたし」
「どこに?」
「品質管理です。だから、四月からは名古屋勤務です」
「なんで?」
 心底不思議そうな江藤さんの声色に、やっぱり、苛々してしまう。そんなこと聞いてなにになるんだ。江藤さんの代わりに入ったリーダーと上手く行かなくて、そのせいで移動願いを出したことを知って、じゃあなにを思ってくれるんだ。
「あんまり理由はないですよ。都内より名古屋のほうが地元に近いですし」
「そっか、向こうでも頑張って。隅田ならどこへ行っても大丈夫だよ。俺が育てたんだし」
 プラスチックの箸を丁寧に仕舞いながら、江藤さんはけらけら笑う。穏やかな陽光を浴び続けたせいか、額や首筋が仄かに熱を持つ。
「覚えています? 前にもお花見したことありましたよね」
「ああ、隅田の歓迎会のときでしょ」
「そのとき江藤さんが約束してくれたから、きちんとそれに応えられるように頑張ってきたつもりだし、今回部署移動をする決心がついたんです」
 今日と同じように、爽やかに晴れた日だった。精一杯花弁を広げた桜の木の下で、江藤さんは言ってくれた。
 ――頼りない先輩に思えるかもしれないけど、きみがどこへ行っても一人前に働けるようになるまでは、きちんと面倒みるって約束するよ。
 お酒を飲んでいないくせに、はしゃぎすぎて誰よりも赤くした顔で、江藤さんはそう言ってくれた。
 作業服を着た江藤さんは、呆けたような顔で口を開く。
「約束なんかしたっけ?」
 地面に落ちて踏みにじられた土色の花びらが視界に入る。どうせ忘れているって分かっていた。それを確認しに来たのだし、予想通りというか、なんなら望み通りだった。そのはずなのに、どうしてか、私はきちんと傷ついている。
「いや、冗談です」
 桜並木を眺めながら、江藤さんと目的もなくぷらぷらと歩く。言葉を交わすわけでは無かったけれど、朗らかな木漏れ日に江藤さんは心地よさそうに目を細めている。
勇気を出して良かった。そうだ。本当に、勇気としか言いようのない感情を消耗させた。一年ぶりに顔を合わせて、気付いて貰えるか分からなかったし、軽く挨拶だけして切り上げられてしまうかもしれなかった。
それでも私は、この土地を離れてしまう前に、江藤さんが嫌いなんだってことを、きちんと確認しておきたかった。この一年間、何度だって江藤さんを思い浮かべては、強く憎んだ。江藤さんが勝手に居なくならなければ、こんなことにならなかった。江藤さんさえ居てくれたならって、何度も思った。
どうせ無責任に約束を忘れているって分かっていたけど、それなら、私を見て嬉しそうな顔なんてしないで欲しいし、お昼を一緒に食べようとか、隅田ならどこへ行っても大丈夫とか、そんなこと言って欲しくない。そういうところも、本当に気に入らない。
「見て、フラワーシャワーみたいだよ」
頭上をひらひらと舞う花びらに、江藤さんは「きれいだね」息を吐くように呟く。
 江藤さんは、美しいものを素直に愛でることが出来る。だからこそ、悔しかったし、執着してしまったのかもしれない。だけど、そんなの最初から無意味だった。
 私に興味を持ってくれない人を、好きになんてなりたくない。
 辺りを覆い尽くす春から目を逸らし、私は深く息を吸った。

doi(東京都江東区/23歳/男性/会社員)