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「残るものと残らないもの」著者:水上あめんぼ

時刻は10時23分.部屋から出なくなって30日目なのに,この針の位置を初めて見た気がした.見渡しても彼女はいない.彼女が出て行った直後,このまま死ぬだろうと思ったのにまだ生きていた.自分を思いっきり罵倒しようと思ったが,力が出ず,ああ俺はこんなにだめだったんか,まあいいやと思った.感情も記憶もゆるりゆるりと消える.それでも,この人の人生の重要人物なのだと覚悟して愛した存在が消えていく悲しみは,鮮明に覚えていやがって,なぜこうも人間は都合が悪い生き物なのだと思う.だけど,そんな悲しみを忘れることも悲しい気がして,破壊衝動に駆られては,結局安直だなと思う.しかも,そんな気怠さと悲しさを抱えていっぱいなのに,換気扇から入ってきた空気にきちんと春の匂いを感じるから,もう完全に意味が分からなくなる.何もかも消え去ったこの部屋から出た.青いアパート二階角部屋が僕たちの家だった.
直線の道の端を歩く.盛り塩のように積まれた桜の花びらと真っすぐ等間隔で続く街灯の光を交互に見ていたら,夢の中にいる気がした.ふらふらと深大寺通りに出た.単一色と静寂に染め上げられたはずの街は,色を持ち,音を放ち,想像ばかりの僕に現実を突きつけてきた.何かを断ち切ろうとして横を見ると蕎麦屋がある.青いのぼりをガラス戸の内側に立てかけた蕎麦屋の駐車場は広くて,普段大勢の人々で賑わっているのだろう.人々の発する音や色,光が鮮明に浮かび,動き始めようとして,目を閉じた.ああ,何をすればよいのだろう.目を開けると苔に覆われた街路樹があった.そして,そこには,苔の手触りについて語る僕の話を静かに聴く,彼女の残像があった.ああ,思い出すんだよ.でも,苦しいけど,忘れたくはないんだよ.掛けていた眼鏡を地面に叩きつけてやった.
2年前に大学卒業してすぐに,玉川上水に面したアパートに住み始めた.中央線の電車に揺られ,四ツ谷にある広告代理店で働いた.人と話すのに自然と体力が削られるので,同僚とも話さず,上司にはよく怒られていたから,慢性的に辛いと感じていた.
その頃,彼女と付き合い始めた.白色の薄いワイシャツと淡い水色のジーパンが似合う子だった.彼女は深大寺の近く,青いアパートの二階の角部屋に住んでいて,カゴ一杯の洗濯物を干す彼女に道路から声をかけると,いつも嬉しそうに笑った.彼女の小さな部屋には,スチールラック,テーブル,ベッドしかなかった.スチールラックにはペイズリーの布を敷いて,そこにピカピカの化粧道具を置いて,これは私の宝物なのだと言っていた.
2人ともお金がなく,休日はいつも深大寺の周りを散歩していた.給料日が来たらここのお蕎麦屋さんで天ぷらそばを食べよう,と話しながら,のそのそ歩く.そして,本堂でお参りしてから,石をじゃりじゃり踏み鳴らして.金木犀を見に行く.「金木犀って懐かしくなるな」「うん,給食のパンを思い出すね」「それは,よくわからん」「えーなんで,私ね,パン食べきれなくていつも給食袋に入れて帰ってたの,その帰り道に金木犀の匂いがすごくしたからさ」「食べきれないなら友達にあげればいいじゃん」「そういうことじゃないんだよなあ」どういうことかはわからなかったが,そんな会話に安心していた.その後,深沙堂の近くで,水の流れる音を聴きながら,日が落ちるまで,二人で座っていた.
 ある朝,自分の家を出てすぐに,散歩するおばさんを見た.すると,そのおばさんは二人に分裂した.片方は平然と歩いていき,片方はその場で静止していた.近づいても微動だにしない.触ろうとしてもすり抜けてしまう.でもそこにおばさんはいる.パニックになって,家へ戻った.少し落ち着いて,外へ出るとやはりおばさんはいた.その日以降,僕の目には,最初に見た人の残像がその空間に焼き付くようになった.
 病院に行ったが,原因は分からず,仕方がないので焼き付く条件を調べることにした.分かったのは,一時間に一人焼き付く,一人から複数の残像が生まれ得る,30日経てばその残像は消える,残像はその場所に留まるということだった.ただ,分かったところでどうしようもなく,日に日に増えていく残像が妙に恐ろしく思えるようになった.
職場ではおびただしい数の残像が空間に留まりながら重なり合っていた.消えては増えての繰り返し.ぐじゃぐじゃだった.瞼を下ろしていても闇の中に浮かんでは溶ける.顔,顔,顔.沢山の顔を持った化け物が無造作に放り出した大量の手足をばたつかせて,スーツやスカートを縫い合わせた皮膚が波打ちながら,こちらににじり寄ってくる夢を見た.
 会社に行けなくなった.自分を許せなくなった.でも,僕にはどうしようもできず,不安は増す一方だった.ある日,彼女の家に転がり込んだ.こんな状態になってから,彼女に電話で話を聞いてもらっていたが,一度も会ってはいなかった.突然の同棲が始まった.
それでも,彼女は優しかった.コーンポタージュなどを作ってくれた.少しして始めたネット記事のライターの仕事は,申し訳程度のお金しかもらえず,プレゼントは安い時計や財布しか渡せなかった.そんなものを彼女はえへへと,愛おしそうに大事にしていた.家の中で過ごす,休日も二人の記念日も,僕を抱きしめてくれた.涙が出た.この涙で焼き付いた残像まで流したかった.それでも容赦なく部屋の中は彼女の残像で溢れていく.
 深大寺の周りを歩く二人の習慣だけは変わらず,その代わり時間帯は夜になった.冷たい石畳を進む.境内前に並ぶお店の中を覗くと,のぼりなどが置かれて,品物には布が静かに被せられていた.普段のお店を想像する.間接的にでも人の賑やかさを感じると普通ような気がしてくる.なぜ同じように生きることができないのだろう.脇を流れる水流のせいで,涙までも冷たく静かに流れる.ただ深大寺に漂う人の気配にただ縋るのみだった.
「いつかまたここの金木犀,見られるといいね」暗く閉ざされた本堂への扉の前で彼女はそう言った.ぼんやりとした街灯に照らされた彼女の黒い髪はゆらゆら揺れていて,少しとんがった上唇は影を作っていた.混じりけのない感情.そこに苛立ちを感じ始めていた.いや,彼女は変わっていなくて,僕だけが変わって,受け流せなくなり始めていた.僕だけがわがままだった.振り返ると扉の前の彼女の残像は笑顔だった.
 深大寺にも彼女の残像が増え始めて,行く気が起きなくなった.その分,街灯の光に照らされた深大寺の樹々をベランダから二人で眺めるようになった.
仕事を始めて半年経ったとき,夜に彼女は大きな豚肉のブロックを買ってきた.「今日はお仕事始めてから半年でしょ,よく頑張りました,我が家直伝のスペアリブを作ってあげる」彼女はそう言った.「頑張ってるわけねーだろ」反射的にそう言ってしまった.彼女の動きは止まっている.残像かどうか分からなくなり,部屋を飛び出した.俯いて走った.次から次へと街灯が作り出す自分の影を踏んでいった.ふと目の前を見ると深沙堂があった.センサーに反応して光が照らされる.彼女の残像があった.したり顔を浮かべて横を向いていた.しばらくするとすっと消えた.ああ,30日経ったのか.あの時,本当に妖怪が出そうな雰囲気だねと言っていたっけな.無性にやるせなくなった.気づくと横に彼女がいた.「ごめんね」そう呟いていた.そんな顔にさせたくなかった.そんな言葉を言わせたくなかった.僕は答えるべき言葉が見つからず,ただ彼女にしがみついていた.
彼女も部屋で過ごすことが多くなった.口数は減っていたが僕へは優しかった.他人には理解できないであろう苦しみを理解しようとしてくれては,東の空が白く覆われるまで話を聞いてくれた.
ある夜,彼女が深大寺へ行こうと言った.久しぶりの通りは懐かしく,調子に乗って言葉をたくさん発した.彼女は静かに頷く.本堂の扉の前に着いた.「あのさ,いつか金木犀が見れたらいいねって言ったじゃん」「うん」「まだ見れたらいいなって思ってる?」「もちろん」「そうだよね」彼女はそう言って,笑った.そこには残像が焼き付いていた.
次の日,朝起きると部屋には彼女の残像しかなかった.テーブルには手紙があった.彼女が出ていくことが書いてあるらしかった.どうにもしてあげられなくて,それが辛くて,言えずに我慢していたこと,それが止まらなくなり,出ていくことにしたこと,本当に申し訳ないということ,が書かれていた気がする.側頭部をテーブルに叩きつけたくなった.
ゆっくりと一枚ずつ部屋に残った彼女の残像が消えていく.増えることはない.一つ一つの残像には丁寧に記憶が貼り付けられていた.陽に当たりながら洗濯物をたたむ君.皿洗い手伝ってよと笑う君.泣いたまま寝て,顔にシーツの跡をつけた君.ただいまと言った君.そんな残像が消えると,記憶も曖昧になっていく気がした.忘れたくても忘れられない彼女は無機的に消えていく.忘れたい苦しさと忘れたくない苦しさ,どちらが本物なのだろう.この苦しみから逃れようと過去の自分を責めようとしても,何が悪かったのか具体的には思い浮かばず,ただ罪悪感みたいなものが浮かぶだけであった.どうすればよかったのだろう.消えていく残像を眺めるしかできなかった.
眼鏡を握りしめて,本堂の閉ざされた扉の前に立った.笑った彼女がいる.動かない.忘れたい.でも,忘れたくない.矛盾しているはずなのにまかり通っている感覚は夢に近い.でも,夢ではない.さようなら君.やがて,この感情だけ残るのだろうと思った.

水上あめんぼ(東京都三鷹市/21歳/男性/学生)