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「恋文」著者:高山真由美

妻が恋をした。少女のように頬を染めて、好きな人ができたから手紙を書いてほしい、と僕に言う。
「その人、水生植物園でずっと水面を見つめていたの。何を見ているんですかって声をかけたらね、水が湧いているのを見てるって言うの。ただの汚い池だと思って気にしたこともなかったけれど、よく見ると確かに流れが速いところと止まっているところがあるの」
 その時の記憶をたどっているのか、妻は楽しそうだ。
水生植物園は神代植物公園の施設のひとつだ。池を中心にして遊歩道が取り付けられてはいるが、ミソハギや半夏生、名もなき草が繁茂する湿地帯である。ところが。池の底では泥の中から清水が湧き出し、濁り水の下を走り、地下をゆっくりと、途方もない時間をかけて進み、最後には川に注ぎ込むのだ。
「どうしたの」
妻の声が僕を現実に引き戻した。
「このあたりは崖線に近く、水がいたるところから染み出しているからね。昔の玉川が削り取ってできた河岸段丘を国分寺崖線というんだ。自然が残り湧き水もたくさんある」
 妻は目を瞠った。
「あら、あなたもよくご存じなのね。その方も同じことをおっしゃっていたわ」
 妻は淹れたてのコーヒーの香りを味わうように鼻のあたりでカップを揺らし、それからまっすぐに僕をみた。僕はわざと尋ねてみる。
「なに」
「手紙を書いて欲しいの。あなたならあのひとが喜んでくれる手紙が書けると思うの」
「なぜ僕が書けると思ったんだい」
少々意地の悪い質問に、妻は、困惑の表情を浮かべて考えている。
「わからない。なんとなくそう思ったの。なんでかな」
なんでかな、ともう一度いうと、そのまま黙り込んでしまった。気の毒なことをした。
無性に悲しくなった僕は代筆を請け負った。よかった、ありがとう、と妻は目を細めた。
「便箋と封筒を持ってくるから、少し待っていて」
僕は二階の書斎へ行くとキャビネットを開けて銀色の缶を取り出した。便箋と封筒、手紙が入っている。少し色褪せた水色の封筒を手に取った。手紙の文面は全て覚えている。知絵子の丸い文字も。それからの僕たちのことも、全て、覚えている。幸福だった。
階下へ降りていくと妻はいなかった。テーブルの上には飲みかけのコーヒーが冷えていた。僕は慌てて後を追う。行先はわかっている。自転車を飛ばして深大寺へ向かった。正確には深大寺の山門下に並ぶ蕎麦屋のうちのひとつ。彼女の高校時代の友人夫婦がやっている店である。白の麻のれんが周囲の深い緑の中に輝いている。
「チコ、来てるかな」店の奥に向かって大声で尋ねると、女将の多江さんが小走りに出てきて首を横に振る。
「ありがとう。戻ってくるから自転車置かせて」
「チコどう? 大丈夫?」
背中で聞いた言葉には気づかないふりをして僕は足早に歩いた。汗が滴り落ちる。灰白色の道にはゆらゆらと陽炎が立っている。
山門の下、左手に、二本の湧水が崖から勢いよくあふれ出して下へ流れ落ちる場所がある。僕は蝉しぐれの中で、太陽に炙られながら、ざあざあと水が落ちていくのを眺めていた。ゆらりと水色のワンピースの女が現れた。妻だ。僕はずいぶんと間隔をあけて、妻の後ろをついていく。やはり多江夫婦の店に吸い込まれていった。妻の姿が店のなかに消えてから僕は少し木陰で待った。汗を引かせるためのつもりだったけれど、本当は心を落ち着けたかったのかもしれない。
店は空いていた。妻は奥の四人掛けの席に座っていた。サンダルを履いた足を投げ出し、頬杖をついてメニューに目を落としている。
「こんにちは。待ちましたか」
妻は顔を上げると、嬉しそうな顔をした。
「いいえ。さっき着いたばかりです。新一さん、すごい汗」
僕たちの前に水の入ったコップがふたつ静かに置かれた。
「ねえおばさん。多江ちゃんはいないの? 夏休みでしょ、学校も」
多江さんは少し口ごもってから、娘はあんまり家には寄り付かないのだと言った。
「今度の休みには必ず会おうねって伝えてください」
「ええ。そうしましょうね。ご注文は何になさいます。知絵子さんはいつもの蒸籠かしら」
妻はどうしようかな、と首を傾げた。そして僕に笑いかけた。
「このお店は同級生のおうちで、おばさんおじさんがふたりでやっているんです。なんでも美味しいんですよ」
「女将さんのおすすめも蒸籠ですか」
「今日はね、ゴーヤとベーコンのかき揚げ蕎麦。ご近所から取り立てのゴーヤを頂いたから。おすすめよ」
「それは夏らしい取り合わせですね。僕はそれで」
「わたしも同じものがいいな。お願いします」
多江さんの背中を見送りながら、妻が僕に語りかけた。
「ここのお蕎麦おいしいんです。わたしの同級生のうちなんです。おじさんおばさんがふたりでやっているんです」
「手紙、ありがとう。うれしかったです」
僕は、デニムの尻のポケットから、少し汗を吸ってしんなりとした薄い水色の封筒を取り出した。
「とてもうれしくてね、覚えてしまったんです」
「嘘」
「前略 先日はありがとうございました」
妻は恥ずかしげに下を向く。
「前略 先日はありがとうございました。新一さんの知識の豊富さと深さに驚きました。生まれ育った町なのに、ガイセンという言葉を初めて知りましたし、このあたり一帯湧き水が多いことも気に留めたことがありませんでしたが、説明をしていただいて、とても興味が湧きました」
お待ちどうさま、と蕎麦が運ばれてきた。ゴーヤのかき揚げに色鮮やかな夏野菜の天ぷらまでついている。多江さんは、「きれいだ、きれいだ」と感嘆する僕らに、塩でもつゆでも、と朗らかに勧めながら、僕に小声でチコの調子はどうと尋ねる。
「変わらないよ。よくなることはない」
おそらく知絵子と僕にとって、毎日訪れる今日が一番いい日になっていくだろう。滅入りそうになる自分に喝を入れる。大きな声をだす。
「いただきます。これは美味そうだ」
「……そうだ、じゃなくてうまい、ですよ。ゆっくりしていってください。わたしは奥にいますから。用があるときには声かけてください」
多江さんは目の縁を赤くして小さく礼をして奥へ入っていった。
「さて、これからどうしよう」
「わたし崖線をたどってみたいなあ」
妻は揚げたての天ぷらをさくりと噛みきった。
「大変ですよ」
「行ってみたいです。新一さんとだったら絶対面白いと思うんです」
「三〇キロも続くんですよ。歩けますか。もともとが河岸段丘だから坂も多い。平坦な場所を歩いているつもりが、突然崖の上に立っていたりするし、そこからほぼ垂直みたいな崖を下ることもある」
妻はそれでも行きたい、と首を縦に振った。
過去の僕らは未来の僕らになれるだろうか。未来の僕らは過去の僕らを祝福するだろうか。
「じゃあ行ってみましょう。女将さん、お勘定」
僕は奥へ向かって声をかけた。

高山真由美(千葉県松戸市)