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「もう一度はじめませんか」著者:高杉晋太郎

 梅雨明けは早かったが、それを悔いたかのように戻り梅雨の激しい雷雨がしばらく続いたあと、夏の到来を告げる強烈な日差しが雨雲を追い払った。地上に出られなかった鬱憤を晴らす蝉時雨がロードバイクに跨る榊洋一(さかきよういち)の背中を叩いていた。武蔵野の国分寺崖線の淵をそって流れる野川のサイクリングコース上でのことだ。野川は恋ヶ窪(こいがくぼ)を水源として二子玉川のあたりで多摩川に注ぎ込む一級河川だ。世田谷区の祖師谷に住んでいる洋一は、このサイクリングコースをよく利用する。東宝撮影所の先で仙川を越え、野川につきあたると下流に向かい、多摩川土手を羽田まで走ることが多かったが、いつの頃からか、野川を遡上することを憶えた。そこに野川公園や小金井公園があり、さらに多摩湖自転車道で多摩湖・狭山湖を周回できる。野川公園の手前で深大寺のそばを通ることを知ったのはつい最近だ。それ以来、蕎麦を楽しみにちょくちょく深大寺に寄るようになった。
 スマホでSNSに深大寺参道の景色を上げると、山崎紀美子(やまさききみこ)からメッセージが届いた。
「どこですか?」「深大寺」「ポタリング? 昼は蕎麦?」
「そのつもり」四十二歳にしては素早いフリック入力で返信する。
「今度、奢って」
二十六歳の紀美子は若いだけあって食欲旺盛かつ、山形の出身だから蕎麦にはうるさい。了解と返して、背が高く痩せ型の彼女の肢体を思い浮かべる。紀美子は四年前迄、洋一の下でアルバイトとして働いていた。部署の飲み会に何度か参加しているうちに親しく口をきくようになった。当時は大学生だったが卒業後保険会社に就職をしたと人づてに聞いた。最近になって当時のアルバイト連中が集う飲み会に資金援助のために誘われたことがきっかけでちょくちょく一緒に飲むようになった。皆に平等に接しなければならない立場上、部下を気軽にさそえない洋一にとって紀美子は得がたい存在になった。飲み屋で肩を並べていると、どちらともなく近況を報告しあい、互いの胸の内をさぐりあうようになっていた。ポンポンと洋一の欠点をついてくる物怖じのない性格に惹かれた。非難の矛先が柔かい。そんなとらえ方もあるのかと教えられることもあり、いつのまにか年下の紀美子を処世の校正係として受け入れるようになった。三十代前半で離婚歴のある洋一は現在独身で、前妻との間に子供もいなかったから気ままな独り暮らしをしている。自由恋愛を謳歌できる立場でありながら、なぜか紀美子に本心を打ち明けることができずにいる。
ある日、ゆきつけの居酒屋で紀美子が問われもしないのに身の上話を始めた。実は山形の実家から縁談がもちこまれ、結婚をしたので保険会社は一年で退職してしまったのだと言う。でも、結婚生活も長続きはしなかったと、酔っているとも思われぬ静かな口調で語った。「故郷にいられなくなって戻ってきちゃった。東京へ」おどけてみせた紀美子の目に薄く涙が滲んでいた。独り言なのか洋一に聞かせるためなのかわからぬ口調で「今まで誰にも話したことないのに、なんで榊さんなんかに話すかなぁ」と言われ、気の効いた返事が思い浮かばず、「俺なんか(・・・)で悪かったな」と我ながらさえない言葉を口にした。
「榊さん、バツイチだったよね」目の端の涙をお絞りで拭きながら紀美子が洋一の目を覗き込んだ。「ああ」「何で別れたか、聞いてもいい?」「そんな話、聞いて面白いか?」
「面白いか、面白くないかじゃなくて、聞きたいの」
 ため息ひとつ洩らして洋一はことさら陽気に、しかし正直に答えた。紀美子のカミングアウトに等価交換の必要を感じたからかもしれない。
「浮気されちゃったから」……「本当?」
「恥ずかしくて今まで誰にも話したことなかった」
「相手は知っている人?」「いいや、社交ダンスの先生だって」「何でわかったの?」
「日記を見ちゃった」「サイテー」
「嫁が家に忘れていったんだ。思わずパラパラと開いてしまった」
「どっちから言い出したの? 離婚しようって」「むこう」「離婚した感想は?」
「歯の詰め物がとれたみたいだった。違和感につきまとわれているうちに、いつのまにかじんじんと沁みてくる」――わかる――、と笑いながら紀美子が白ワインのボトルを追加した。「飲みすぎじゃないか」「今日はいいの」
洋一が少し控え目に注いだワインをじっと見つめ「おかえししてやればよかったのに」ポツリと呟いた。「浮気しかえすってこと?」
「できっこないわね、榊さんてエエカッコしいだから」いつになく、からむような口調で洋一を見る紀美子の眼差しには熱がこもっているようだった。
「奥さんとの間にお子さんはいなかったんでしょう?」「お互い、仕事人間だったからね。それに俺は子供があまり好きじゃないんだ」ポツリ、と洋一も呟いた。

(何で素直に切り出せないかなあ)先日の紀美子の「エエカッコしい」という言葉が喉に刺さった魚の小骨のように洋一の心にひっかかっていた。洋一は紀美子とならやりなおせるんじゃないかと思っている。年の差が十六歳あることへの気後れはある。年の差カップルなんて世間にはザラにいるじゃないかと自分を鼓舞するが、なかなか思いをストレートに伝えることができない。一回、たった一回、愛を裏切られただけで恋愛に臆病になっている自分にもほとほと情けない思いがある。だが、紀美子には話さなかった別れた嫁への罪悪感が洋一の心に傷跡を残している。
 彼女の妊娠が発覚したのはつきあいはじめて半年、大学二年のときだった。シングルマザーに育てられた洋一は貧乏学生だった。妊娠を告げられたとき、父親になるとの覚悟は微塵も持てなかった。子供を堕すことは彼女との同意の上での決断だったが、心も軀も傷ついたのは彼女だとの認識が洋一の心に常に影を落とした。何で早く忘れたい記憶にかぎっていつまでも消えずにいるのだろう。贖罪意識から何があろうとも彼女を守ろうと大学卒業後に結婚したのだが、その決意は独りよがりでしかなかったということだろう。
 深大寺の山門そばに翠子地蔵大菩薩があった。あのとき供養はしなかったな、と思いながら風車が回っている水子地蔵にスマホを向けた。紀美子に過去の過ちを洗いざらいぶちまけるつもりはなかったが、地蔵の写真も一緒にSNSにあげた。人に対して誠実でいることと、秘密を抱えることに矛盾はあるのだろうか。

(なにコレ? お地蔵さん?)紀美子はスマホの画面をピンチして榊のSNSの画像を拡大した。陽光が画面に反射して画像が見づらい。環八と甲州街道が交差する高井戸の交差点だった。買ったばかりのロードバイクに跨っている。パッツンパッツンのウエアを着て、ビスタチオの殻のようなヘルメットまで被っている。榊の影響でサイクリングを始めたのだ。榊と一緒にゆく中華料理屋の常連さんが富士吉田に別荘があるという。そのうち皆でそこにチャリで行こうという話がもちあがっていて、それを楽しみにしている自分がいる。今日は榊のSNSを見て、深大寺に向かうべく身支度を整え、サドルに跨ったのだ。この格好を見たらきっと驚くに違いない。深大寺に近付いたところでメッセージを送って合流するつもりだった。
 それにしても男って手間がかかる。紀美子は榊からのプロポーズを待っている。
 あんなにわかりやすいサインを出しているのに、なんで気がつかないかなあ。いや、そんなに鈍感な人じゃない……はず。あの人が自分に好意以上の感情を抱いていることはわかっている。男ってそういうのを隠すのがホントに下手。女は男に覚らせないぐらいの演技は簡単にできる。でも私はわざと隠さずに誘いをかけている。それはあの人に私を求めて欲しいから。なのに反応が芳しくない。男なんだからもっと攻めてきてよ。
 スマホを凝視する。菩薩像の前の石碑に彫られた文字に目をこらす。(翠子地蔵大菩薩?)翠子って何? 漢字が読めなかった。ペダルをこぎ始める。深大寺で榊に会う。そんなことでも気持ちが浮き立つ。でも、自分にはまだ榊に明かしていない秘密がある。婚家から追われた理由だ。紀美子は不妊症だった。榊さんは子供を欲しがるだろうか。以前、子供が好きじゃないって言っていたけど。あのとき少しホッとした。だが、このことはいつかキチンと話さなければならない。覚悟はできている。駄目になるのなら、それまでの話だ。

 男も女も胸に秘密を抱えている。明かしたらどうなるか。相手は何ほどのこともなく受け入れてくれるかもしれない。だが、二人にとってそれはある種の枷だった。枷を外すには相応の覚悟が必要で、その覚悟を搾り出す、そんなやり残した夏休みの宿題のような思いを抱えながら二人は相手との距離を縮めようとしていた。
 蝉時雨が二人の背中を叩いている。

高杉晋太郎(大阪府豊中市/61歳/男性/無職)