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「乳房」著者:羽根木肇

吉祥寺から乗ったバスに揺られながら、藤井保は、あれからどれくらい経ったかを指を折って数えてみたが記憶は曖昧だった。笠原葉子と別れたのはもう十年以上前のことなのだ。当時、葉子は京王線の調布駅からすぐのマンションに住んでいた。その頃二人は、時々バスに乗って深大寺周辺に出かけては蕎麦を食べ歩いた。滅多に旅行などできない二人にとって、たとえ少しの時間でも緑が濃いところに移動するのは、束の間の遠出気分を味わえた。
『参道をまっすぐ、山門の手前を右に、すぐ右手にある茶屋』それがが葉子からメールで指定された場所だった。
時間通りに茶屋に着くと、葉子が軒先の長椅子でラムネを飲んでいた。鮮やかな夏のブラウスを着た葉子は美しいままだった。少し痩せた気もしたが、それは髪が短くなったせいかもしれない。すぐに葉子が保に気づいて小さく手を上げた。
保は今年で五十四歳になり、葉子は五十一歳になる。保は、葉子の右隣に昔のように腰掛けた。
「わざわざ遠くまですいません」
「いや、ぜんぜん」保は店員に洋子と同じものを頼んだ。「で? どうしたの、急に」
「うん。まあ、なんとなく」葉子が曖昧に微笑んだ。
「そう」保は運ばれてきたラムネを飲んだ。懐かしい昔日の夏の味がした。
参拝客はまばらだった。梅雨明けの平日の午後に、この人数が多いのか少ないのか保はわからなかった。二人は無言で飲み物を口にした。側から見れば仲のいい初老の夫婦に見えるのかもしれない。
「お参り、一緒にしたことあったっけ?」と葉子が言った。
「神様に怒られるからって言って、この辺りまでしか入らなかったんじゃなかったかな?」
「そうかも」葉子がさもおかしそうに笑った。笑うと目が三日月になって、そこが保は好きだった。久しぶりに会う葉子の目尻には深い皺ができるようになっていた。
「今日は一緒にお参りしてみたいな」と神妙な声で葉子が言った。
「いいよ」
「じゃあ、お願いします」
二人は勘定を済ませると、連れ立って石畳を歩いた。ごく自然に、洋子が保の腕に手をかけて身体を預けてきた。やはり、少し痩せたのかもしれない。付き合っていた頃の重みとは違うものを保は感じた。少し触れただけで、それが服の上からでも、保は当時の葉子の肉体を思い出せた。
「なに考えてるの?」
「なにも」
「嘘。私、少し痩せたでしょ?」
「え? そうかな」
「わかってるくせに。最初に私を見たときにそう思って、今こうして私が身体を寄せて確信した」
「占い師だったっけ?」保はおどけて言ったが、葉子は小さく微笑んだだけだった。
「……ちょっとね、病気なの」葉子の横顔が沈みかけ……持ち直した。無理をして笑っていた。会うといつも別れ際にしていた目だ。
「そうか。まあ、お互いこの歳になればなんかあるさ。実際、オレだって……」
「乳癌。ステージⅢBだって。参っちゃった。胸の形がいいことだけが取り柄だったのに。そりゃあ、この歳になって少しは垂れたよ。でも、それだってほんの少しだけ」
保には乳癌に関しての知識がほとんどなかった。
「左のおっぱい、手術で全部取っちゃうんだって」
「そう」保は精一杯自然に相槌を打った。なにを言うべきか、わからなかった。
「ここからメスをまっすぐ入れて、悪いところ全部取っちゃうの」
葉子は人差し指で自分の乳房に線を引いて、癌の塊を手のひらに掴み出して空に投げた。
「あなた、私のおっぱい好きだったでしょう?」
「うん」実際、保はまだその感触も形も覚えていた。忘れるわけがない。大きく揉むと悦び、やさしく触れれば吐息と共に震える葉子の乳房。まさか、それが。
「私が損なうのは乳房なんかじゃない。私の魂の存在の一部なのだ」
まるで詩の一節を口ずさむようにして葉子が言った。
「あー、なんで女だけ乳癌になるのかしら? 不平等の極みよね。男も乳癌になればいい」
葉子が悲しい時や辛い時に、わざと物事を明るく言う癖があるのを保は思い出していた。
「男には前立腺癌があるぜ」保も合わせるように言い返した。
「あ、なら私たちには子宮癌があるわ」葉子がおうむ返しに言ったので、保はつい笑ってしまった。少々不謹慎だが仕方ない。二人は、久しぶりに一緒に笑った。
二人が愛し合っていた頃、あるいは分別があって然るべき年齢にも関わらず、情欲に溺れて離れられなかった頃、こんな会話をする日のことなど考えてもみなかった。なかなか踏ん切りがつかないくせに、それでも七年続いたのは、お互いがきっとどこかで、人生を共に歩む可能性をわずかでも感じていたからだろう。
「奥様は? お元気?」まるで仲のいい人の噂をするように葉子が言った。
「うん。おかげさまで。でも太ったよ。出会った頃には考えられないくらい」
「……幸せなのよ。太れるって」葉子が腕を絡め直した。「お子さんたちは?」
「うん、元気にしている」保は笑顔で嘘をついた。妻は実母の介護で疲弊していた。二十代半ばになった娘はアルコール依存症の一歩手前で、その上売れそうもないバンドマンに入れ込んでいた。息子はせっかく入った大手の広告会社を辞めて、今さら自分探しの旅に出ている。この十年余りで保の人生は少しずつ狂い始めていた。
「手を清めましょうか」
「ああ」手水舎の流水は想像以上に冷たく、こんな蒸し暑い日には気持ちよかった。
二人が参拝する順番になった。二人は静かに合掌した。保は、葉子の手術がうまくいきますように……と熱心に祈った。それくらいしかできなかった。
「さあ、済んだ」葉子が晴々とした顔で言った。
山門の石段を降りかけた時、突然、葉子が保の手を取って自分の左の乳房の上に重ねた。心臓の鼓動が手のひらに感じられた。葉子はブラジャーをしていなかった。ブラウスの薄い生地の下に、葉子の乳房の感触があった。やわらかく、弾力があり、たっぷりとした量感を讃えた懐かしい葉子の乳房があった。二人はしばらくそのまま動かなかった。山門に風が抜けると、ほんの少しだけ保の手にひらに力が入っていた。
「覚えておいてよ」
「ずっと忘れてないって」
「嘘つき」一瞬、葉子の目元が少し潤んだような気がしたが、夏の日差しのせいかもしれない。「……神様の前で、こんなことしたら怒られちゃうね」
保は、葉子のこういうところが好きだった。鼻の奥がツンとする感覚があった。
「今日は許してくれるだろう」保はわざと明るく言った。
葉子が乳房に重ねた保の手をのけて、そっと身体を離した。二人は緑の中を並んで歩いた。葉子はもう腕を絡めてこなかった。保の手のひらには、まだ葉子の乳房の柔らかな感触が残っていた。保はゆっくりと手を閉じてポケットに仕舞った。
「じゃあね。また、いつか」
葉子が立ち止まって、保の顔をじっと見た。二度と連絡はしてこないだろう、保はそう思った。どうしてか、葉子の声がそういうふうに聞こえたのだ。
「うん。葉子も。手術がんばって」
「ありがと。でも、がんばるのはお医者様で私じゃないわ」
「でも、葉子もがんばるんだ」保は葉子の目を見据えて言った。
生きて帰ってくるだけで、それだけでいいんだから。そう伝えたいのに、うまく言葉が出なかった。なにを言っても安っぽい気がした。葉子が無口になって少し早足で歩き出した。保も無言で後に続いた。それから十数歩。振り返ると少し弾んだ声で葉子が言った。
「このお寺って、縁結びにご利益があるの知ってた?」
保は小さく首を振った。
「だから、一緒にお参りに来なかったのよ」葉子が、また三日月の目をした。

羽根木 肇(東京都世田谷区)