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「菩薩の深情け」著者:有薗花芽

 深大寺にほど近い高校で、私はひと夏だけアルバイトをした。
 大学の夏休みは長いので、そのうちの一か月を英語補習のチューターで、時間つぶしと小遣い稼ぎの両方をする算段を立てたのだ。
「菩薩さま」と私があだ名をつけた英語科の教諭は、さえない中年女性だった。どこと言って特徴のない顔、まんべんなく脂肪がついて輪郭のゆるんだ体形、それを目立たなくするための地味な服、そんなものが全部、彼女の印象をぼんやりとさせていた。
チューターのアルバイトは楽しかった。おっとりとした校風らしく、生徒たちはみな明るく素直で、すぐに私を姉のように慕ってくれた。あまりに気楽なので、むしろ拍子抜けするぐらいだった。
その中年の女性教諭は、いつも補習授業の開始と終了の時に見回りに来た。彼女は、生徒に向かって話す時には、どこか母親じみた口調になるのが常だった。そして補習終わりには決まって、私に冷たいお茶とお菓子を差し入れてくれて、世話好きであることもうかがわせた。いかにもしっかり者の主婦然としたふるまいから、私はてっきり、彼女は結婚していて、子どもも一人二人いるような、その見た目と同じぐらいに平凡で安定した家庭生活を送っているものとばかり思い込んでいた。
そんな彼女が、実は天涯孤独と知ったのは、アルバイトの最終日のことだ。
彼女は、補習が終わったあと、よかったら一緒に深大寺まで蕎麦でも食べにいかないかと誘ってきた。正確に言うと、その日、蕎麦をごちそうになったあとで、私は彼女に「菩薩さま」というあだ名をつけたのだ。
補習が終わり、私たちは一緒に高校の裏門から出た。当たり障りのない会話をしながら、真夏の日差しを辛抱して十分ほども歩くと、いかにも楽しげに土産物屋や蕎麦屋が立ち並んでいる深大寺の参道に出た。いったいどの蕎麦屋に入るのだろうとキョロキョロしていると、彼女は迷いもせずに一軒の間口の狭い店の前で立ち止まり、慣れた手つきでのれんをめくって中に入った。「いらっしゃい、あら!」という声に、彼女は、「いつもの、よろしくね」とだけ声をかけて、案内も待たずにさっさと二階にあがった。よほどの常連なのだろうと、私も店の人に軽く頭をさげながら、あとに続いた。
二階にはこじんまりとした和室があって、思いがけずひとりの先客が待っていた。
「よ、こんにちは」
そう挨拶をしてきた、少しだらしのない印象の中年男性に私は一瞬ひるんだが、すぐに、彼もアルバイトをしていた高校の教諭だと気がついた。たしかテニス部の顧問だったはずだ。私が補習授業をしていた教室のすぐ下の校庭で、なにやら大声で号令をかけていたから、練習する場所を変えてもらえないかと頼んだことがあったのだ。
「日本史を教えている塩見です。今日はお相伴にあずかることになり、おじゃまします」
 私は少しまごつきながら、ペコリと頭をさげた。
「はいはい、おとなしくね」と、彼女は塩見先生に向かってハエでもはらうかのように、ぞんざいに手を振ると、私にはていねいに見晴らしの良い窓際の席を勧めてくれて、注文でもしにいったのか、また階下におりていってしまった。
 塩見先生と二人で残された私は気まずかった。
「ええっと、ここ、みなさんで良く来られるんですか」
「あ、ああ、うん。味が良いからね。みんなでっていうか、あの人はああ見えて、好き嫌いが激しいから、一緒に来るのは俺と、あとは、来年定年になる物理の先生ぐらいかな」
「じゃあ、私は気に入ってもらえたんですね」
冗談めかして私が言うと、塩見先生は、禿げあがったひたいに手をあてて言った。
「そりゃあ、もちろんだよ。それもかなり、気に入られたんだと思うね」
「それは良かった」
まもなく彼女がまた二階にあがってくると、それを合図にしたように、気の利いた一品料理がずらりと並べられ、それを肴に、まだ午後の陽も高い時間だというのに、私たち三人はビールを飲んだ。
「ああ、おいしいわ」
目を細めて満足そうにグラスを傾ける彼女を、私は珍しいもののように眺めた。上気した彼女の顔は今までになく生気を帯びていて、私はそのことになぜか妙な羞恥心を覚えた。たまらず窓の外に視線をそらし、夏木立の緑を眺めているふりをする。いつの間にか塩見先生は勝手にビールから日本酒に移っていて、手酌でガンガン飲んでいるなと思っていたら、突然ごろりと畳の上に転がって、気持ち良さそうな寝息をたて始まってしまった。
彼女は、「いいのよ。いつものことだから」と、こともなげに言った。
それから、まるで英語の文法でも説明するかのように淡々と、自分のことを話しだした。彼女は、この辺の地主だった古い家の一人娘なのだそうだ。目が不自由だった父親と、足が不自由だった母親の世話を、ずっと一人でしてきたから、それで婚期を逃してしまったのだという。ずいぶん長い間おつき合いをしていた男性もいたのだけれど、結婚できずに別れてしまったこと。両親ともにもうこの世にはいないから、今は天涯孤独になってしまったこと。そこで話はプツリと途切れて、彼女は少し酔いでもしたのか、しばらく窓の外を見つめてぼんやりしていた。
 会話が途絶えてしまうと、それまで気にならなかった塩見先生の大きすぎる寝息が、やたらと耳についた。
「塩見先生は、独身なんですか?」
ふと思いついて私が聞くと、彼女はフフと笑って私の問いには答えずに、こう言った。
「この人はね、だらしなく見えるけど、いえ、実際だらしのない人なんだけど、とても純粋で、こんなに心のきれいな人は他にいないのよ」
 私は仕方なくだまってうなずいた。
 彼女は、瓶に少しだけ残っていたビールを自分のグラスにあけてしまうと、私に言った。
「さっき、蕎麦がきは食べたけど、最後に温かいお蕎麦を一杯ずつ頼みましょうか」
「ええ、そうですね。塩見先生は起こしますか?」
「大丈夫、この人、蕎麦が来たら自然に目を覚ますから」
彼女の言った通り、湯気のたつ蕎麦が三杯運ばれてくると、塩見先生はパチリと目を開けて、むっくりと起きあがった。
「良い夢は、見られた?」
彼女が思いのほか優しい声で聞いたので、私はドキリとした。
「夢は、夢は見ていない」
 塩見先生はそう答えると、ううんと言いながら伸びをした。
 蕎麦を食べ終わったのを潮に、私たちは店を出た。いつの間にかお会計は全部、彼女が済ませていて、私はひどく恐縮したのだけれど、塩見先生は飄々と一言だけお礼を言うと、レジ横で売っていた蕎麦ボウロを二袋買い、私と彼女にお土産だと言って一袋ずつくれた。
外に出ると、真夏の夕暮れはまだまだ明るかったが、暑さはだいぶましになっていた。彼女と塩見先生は、もう閉まってしまった深大寺の山門には目もくれず、すたすたと歩いて参道の一番端までくると、まるで当たり前のように、深沙堂に足を向けた。否応もなく私もあとに続き、深緑に守られるように建つお堂の前に二人と並んで、手を合わせた。
 彼女と塩見先生は、合掌したままじっと動かず、つぶった目をなかなか開こうとしなかった。とっくに祈り終わってしまった私は静かにあとずさって、案内の看板を読むふりをしながら二人を待った。彼女のふくよかで安定感のある姿と塩見先生のか細くて貧相な姿は、並んでいると意外にもしっくりと似合っていて、まるで長年連れ添った夫婦のようにさえ見えた。私の心は嫌な感じにザワリとした。この中年の二人は、縁結びの神様の前なんかで雁首揃えて、いったい何を祈っているというのか。
塩見先生は独身ではない。さっき蕎麦ボウロを渡してくれた時、左薬指に指輪があるのを、私は見てしまった。
ようやく祈り終えた彼女は、ぐるりと私をさがすように振り返ると、ハッとするほど穏やかな慈愛のこもった眼差しを向けてきたのだが、私は彼女がその口元に、悟りきってなどやるものかと言わんばかりの艶然とした微笑みを、浮かべてみせたのを見逃さなかった。
それで、私は彼女に「菩薩さま」とあだ名をつけたのだ。とっくに悟りを得ているのに、自分だけ成仏はできないからと、衆生を助けるためだけに現世で修行を続けている菩薩さまの話を、どこかで聞いたことがあったのを思い出したからだ。

有薗花芽(大阪府)