胸の奥が熱く疼いた。末期の痛みだろうが何故か懐かしい感覚に囚われた。それこそ何十年ぶりかに「ここ」に還って来たからか。ゲルマン系らしく能力的には極めて優秀だが、事務的な物言いしかしない専属ドクターが言うには「いつ逝ってもおかしくない。」らしい。自分の最期の地を、やはり「ここ」に求めてしまった事を認めざるを得ない様だ。
 三十数年前、逃げる様に渡米してから、ひたすら働いた。運もあったが、自分でもここまで上りつめられるとは思っていなかった。とにかく日本を、「ここ」を、そしてあの頃の自分とあの女を、頭から追い払いたかっただけだったのだが。その年は公共放送の大河ドラマが取り上げた「新撰組」ブームとやらで、ここ植物園にまで展示場ができている。時代の流れに抗った熱い男たち、その多くが若くして命を落とした。そんな彼らから見れば、自分は宗旨変えをして、代わりに富と名声を手にした変節漢と言う事になるのかもしれない。
 「おじいちゃん、大丈夫?」ふとかけられた可愛らしい声。母親に手を引かれた5歳位の女の子。「おじいちゃん」か。五月晴れの中、薔薇の芳香に眩暈を覚えそうなこの植物園の原色に近い美しさの中で、まだ60前だが、単身異国で勝ち得た富と名声の代わりに、自分の顔には深い無数の皴が刻まれていた。強壮を誇った長身は砂漠にただ一本残った枯れ木の様に朽ち果て、艶やかだった黒髪は面影も無く暗灰色だ。「本当に大丈夫ですか?病院にお連れしましょうか?すごく辛そう。うち、この近所のお蕎麦屋なので、よろしければちょっとお休みになられてはいかがですか?」上品で落ち着いた感じのする30歳位の母親。「いや、ご迷惑をかけては。」慌てて立ち上がるが胸の痛みで情けなくも蹲ってしまう。「だめです。本当にすぐ近くだから。」支える様にして歩き出す。ああ、どうか自分に構わんでくれ、と思いながらも、力なく体を預けるしかない枯れ木の自分。そう、「あの女」もどこか、いつもおせっかいだったっけ。
 1969年、大学闘争の真只中、激しく口論する男と女。「あなたの言う、熱い想い、だけでは人はまとまらないわ!」「おまえに何がわかる。女が政治の事に口を挟むな!」いつもこうだ。心の中では彼女の助けを常に渇望しているのに。信州の寒村から上京して来た自分は、沿線にある法科が有名な私大に通う為、ここ深大寺にある蕎麦屋に住み込みで寄宿させてもらっていた。そこの一人娘が奇しくも同じ大学同期の才媛、暁子だった。意志の強さを現す真直ぐな輝きを放つ瞳、華やかでハリウッド女優の様な容姿の一方、細やかで気が回り、明るく闊達な彼女は男子学生達の憧れの的だった。田舎から出て来て、何事にも負けず嫌い位しか取得の無か
った自分には眩し過ぎて、素直な想いが口をつく事はなかった。何事にも単純で、熱くなりやすい自分が、当時世の若者を熱くしていた「闘争」にのめり込むのは自明の理であった。そんな自分を、何故か理知的な暁子がいつもサポートしてくれた。
暁子の綿密な理論構成を、自分は代弁し、行動する形で、いつしか他大にも知られる「闘士のリーダー」となっていた。「いい?今はみんな熱くなっているからわからないでしょうけど、あなたも私も大人になって行くのよ。働いて生活をしていかなくてはならないわ。国を語る事も大切だけど、自分と自分の周りにもっと目を配ってよ!」「働くべき時が来たら働くさ。おまえ一人俺が食わせて行ける!」勢い余って口をついた言葉にハッとする。暁子も一瞬驚いた顔をしたが、何も言わず自分の胸に飛び込んで来た。胸の奥が熱く疼いた。不器用に暁子を抱きしめ、比翼の鳥が結ばれた様に満たされ眠りについた。
 「もう着いたよ、おじいちゃん!」女の子の声でふと我に返る。「ここは!」そうか、ここだったのか。建替えたのか、当時の店の面影も少ないが、清廉な湧き水をポンプ式の井戸で引いているここは忘れるべくもない、あの店だった。倒れこむ様に奥座敷に休ませてもらい、蕎麦湯を出された。そう、あの懐かしい香りと、心の昂ぶりなど全てを包み込む深い安らぎと。「お薬を飲む前に、胃にやさしいからうちの蕎麦湯は良いですよ。」若い母親が心配そうに声をかける。「あなたのご家族は?」「ここは祖父の代からのお店で、祖父は私がまだ幼い頃に亡くなり、母が女手一つで私を育ててくれました。その母も昨年の暮れに亡くなり。今は入り婿に来てもらった主人と切り盛りしていますのよ。」「君のお父さんは?」「母は父の事はあまり話しをしてくれませんでした。ただ、熱く真直ぐで不器用な人だった、とだけ。」そうだったのか。自分はまさに、何も知らずに、本当に守るべきものを残したまま故国を去ってしまっていたのだ。陳腐な言い方にはなるが、いよいよ「お迎え」という奴が来たらしい。本能的にそう悟った。「君のお母さんは幸せだったのだろうか。」「何故そんな事をお聞きになるのです?母はとても強い人でしたから。そう、清廉の水の様に、いつまでも変わらずに澱む事無く。」
 「ねえ、武。うちのお蕎麦はなんでおいしいと思う?」「それはお前、親父さんが名人だからだろう。」大きなデモの前日、ギラギラと暑い真夏の昼前、先の大戦で「撃墜王」の称号を欲しい儘にしたらしいが、一言も戦争については語った事の無い親父さんが黙々と、その無骨で大きな手でそば粉をこねる傍らで暁子が言った。「ううん。それはもちろんだけど、それだけじゃないの。」「寒く、けっして豊かとは言えない土地で育まれた強いそば粉に、全てを包み込む様な深大寺の清廉の水、この二つが水魚の様に交わるからおいしいのよ。」漢籍にも造詣の深い暁子が得意顔で言う。「ふーん、なるほどなあ。」この様な会話になると闘士と言われた自分もすっかり形無しだった。「武がそば粉なら、私が清廉の水になってあげる!」思わずうつむき黙り込むしかできない無骨な男二人。その夜の事であった。唐突に私服警官二人に率いられた警官隊が店を訪れ、有無を言わさず自分は連行された。明日のデモには何としても出なくては。仲間を裏切れない。「暁子!後の事は頼んだ。」絶叫する自分。取調べの中で、計画を事前に漏洩したのが誰あろう暁子であった事を知らされた。何故!拘束されている間のそのデモはかつて無い規模で、多くの仲間が傷つき、捕らえられたが、そこには暁子の姿はなかった様だ。後日釈放された自分は、店にも故郷にも戻らず、僅かな蓄えをはたいて振り切る様に渡米をした。自分の熱く、そして青かった恋と故国への想いへの決別の瞬間であった。
 まったくツテもアテも無く、ただ故国とあの女を超越できる可能性だけを求め、人種の坩堝のニューヨークに飛び込んだ。不法就労状態でイタリア系移民の経営するレストランの皿洗いから始めた。しかし生活費は切り詰め、移民にも門戸の広いビジネススクールに通い、貪欲に実業の世界でのし上がる機を狙った。英語も生活の中でいつしか母国語と変わらず使える様になっていった。そんな中、たまたま知遇を得た米国でも有数のユダヤ系金融グループの長が、東洋的精神主義への単なる憧憬なのか、亡国の虚無感からひたすらに足掻く野心の塊の様な自分を見出し、いたく気に入り、半ば強引に自分の娘を娶らせ養子とした。その金融グループの中で、自分は故国と暁子へ復讐でもするかの如く我武者羅に働き頭角を現した。日本のバブル崩壊期には、故国の企業を多数強引に買収し、日本では悪名を馳せた。そんな中、ふいに宣告された肺癌。余命幾ばくも無いと悟った私は、延命治療などの一切を拒み、グループの全権を最大の宿敵ではあったが、最も信頼もおける副社長に委ね、妻と子達にも何も告げず、単身この深大寺へと還って来た。暁子に会いたかった訳ではない。何故か、ただゆっくりとここで眠りたかっただけなのだが。
 そうだったのか。あの時、自分との間に子ができ、一人の女として、母として、私と、子供を守ろうとしての漏洩だったのか。女は明日の夢よりも、今日の現実を確かな糧として生きるという。私は暁子を失ってから、心の虚無を埋める様に仕事だけに打ち込んで来た。もう誰かを愛する事など無いと思っていた。ただ、暁子にも筆舌に尽くせない程の辛苦があっただろう。昨今では日々世界的にメディアを賑わかせていた私に、一切連絡も寄こさずに。嗚呼、嗚呼、それこそこの国を去って以来、流す事を忘れていた涙が滂沱の如く、枯れて水気のなくなった頬を流れて行った。「おじいちゃん、痛いの?」心配そうに女の子が自分の手を握りしめ覗き込む。「大丈夫だよ。君はなんていうお名前なの?」「廉(れん)だよ。男の子みたいに変わった名前でしょう?おばあちゃんが付けたの。お母さんが清(せい)、二人で『清廉(せい・れん』なんだって。難しいね。」
 嗚呼、自分の一生はなんて幸せな輝に満ち足りたものだったのだろうか。それこそ清廉な水の中にゆっくりと体を横たえられた様に、胸の痛みがスッと去った。「ありがとう廉ちゃん、ありがとう清さん。そしてありがとう、暁子。少しだけ、このまま眠らせてもらうよ。」「あなたは!?」驚いた母親の問いには、もう答えられる自分はいなかった。ただ、ただ静かに流れる清廉の水音だけを聴きながら、比翼の鳥の翼がもう一度、三十余年ぶりにつながり、天へとゆるやかに羽ばたいていった瞬間であった。

(了)
 
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<著者紹介>
石黒 隆士(東京都調布市/38歳/男性/会社員)

 「よかったら一緒に深大寺で土鈴を作りませんか。来週までに考えておいてください」
 授業の帰りがけに村岡篤史からそう言われた時、佐伯由香は、奴隷? いや、土鈴だよね・・・・・・それにしても、この人、なんて古臭いんだろう、と思った。
 最初のデートで土鈴作りなんてあり得ない。普通は渋谷とか六本木で映画からでしょ、と呆れもしたが、すぐに考え直した。
 私、何を期待してるんだろう。村岡くんはただの友達、好きに言わせておこう。どうせ自分には関係ないし。だいたい深大寺ってどこにあるの?
 横浜に住んでいる由香にとって、深大寺はあまり馴染みのないお寺だった。
 そういえば深大寺蕎麦が有名だっけ。まあ、いいや、とりあえずお断りしよう。
 次の週の授業で篤史と顔を合わせた由香は少し気まずかったが思い切って言った。
「私には土鈴はちょっと無理です・・・・・・」
 篤史は予想より遥かにあっさり「そうですか」と答えた。そして、由香のすまなさそうな表情をどう捉えたのかわからないが、
「それじゃ、深大寺植物園なら?」
と切り返してきた。由香は再度戸惑った。
植物園?それもパスだわ、と心の内で即行却下。なのに篤史は「返事は来週で」なんて言う。いったいどういう人なんだろう。
 由香はすかさず「それも無理です」と答えていた。そこで初めて篤史の顔が悲しそうな表情に変わったのがわかった。
 村岡くん、ごめんなさい。だけどあなたって、いつもどうしてそんなに垢抜けない服装なの? それじゃまるで秋葉原のオタクじゃない? 「シャツ・イン・リュック」は勘弁です。
 由香の弟が教えてくれた言葉だった。「シャツ・イン・リュック」とは、シャツのスソをしっかりズボンの中に入れ、リュックを背負って歩いている方々だそうだ。自分がそんな人と並んで歩くなんて・・・・・・
 篤史はよく見れば、顔立ちもそれなりに整っているし、どこか育ちの良さも感じられる。
 篤史の実家は萩にあり、なんでも旧家らしい。周囲にお寺が多い環境で育ったせいか、木立に囲まれたお寺が好きで、以前、東京では深大寺周辺のたたずまいが一番落ち着くのだと話してくれたことがあった。
 そこへ由香を案内しようとして、彼は思い切り失敗したのだ。
 由香が篤史と知り合ったのは、大学三年になって入った国文科のゼミでだったが、特に親しいという訳ではなかった。ただ篤史には人を安心させる雰囲気があった。
 それでも、やはり土鈴作りや植物園は、由香にとって、あまり嬉しくなかった。
 篤史はそれからゼミで顔を合わせても何も誘わなくなったし、由香には注意を払っていないように見えた。由香はこれで一件落着したと安心していた。
 ところがあるとき、由香が学食でサークル仲間と遅い昼を食べていると、篤史が大きな紙袋を持って近づいてきた。
「佐伯さん、ここにいたんですね」
 由香に白い歯を見せながら屈託なく話しかけてくる篤史。由香の中には、土鈴作りや植物園を断ったきまずさと、それにもめげない彼の強さに少し驚く気持ちがあった。
「なにか?」
「これ、萩の夏みかんなんです。食べてください。美味しいですよ」
 篤史は紙袋の中から大きくてごつごつした夏みかんの玉を一個取り出し、由香の目の前に置いた。由香はしばし呆然とそれをみつめてしまった。内心はかなりのパニック。
 こんな立派な夏みかん、見たことがない。だけどね、私がどうしてここで夏みかんをもらわなくちゃいけないの? 恥ずかしい。
 その時、由香の横で篤史と夏みかんを交互に眺めながら、友人の真奈美がキツネにつままれたような顔をしていた。彼女はこう思っていたに違いない。
「やだ、このダサい人、由香の知り合いなの?」
 少なくとも篤史は由香たちのテニスサークル仲間にはいないタイプの学生だった。
 学食に白昼堂々、夏みかんなどという柑橘系ではマイナーな果物を持ち込むのだから只者ではない。どうせならオレンジとかグレープフルーツにして欲しかった。それならまだ救いの余地があったというものを。
「あ、村岡くん、ありがと」
 由香はやっとの思いで一言発したが、そのあとが続かない。篤史はそんな由香の困惑を全く解さず
「この中にいっぱい入ってるんですよ。実家から送ってきたんです」
 と紙袋を由香に押し付けてきた。由香にはもうそれをはねつける気力がなかった。袋の重みに負けたのかもしれない。夏みかんが七、八個は入っていたと思う。
 ああ、これじゃ、まるで近所のオバチャンたちのお付き合いじゃない。
 そのときだった。テニスサークルの王子様的存在で学内でも人気者の前島裕太が爽やかに現れたのだ。空気が一瞬にして変わる。
「あ、前島くん!」
 真奈美が叫んだ。その言葉に周囲も前島を見る。都会的に洗練された前島がいつのまにか「シャツ・イン・リュック」の篤史の横に来ていた。あり得ないツーショット。
「ねえ、みんな、これからお茶でも行かない?」
 少し沈黙があったが、二、三人が立ち上がる。
「行きましょう、前島くん!」
 真奈美が努めて明るく言った。
 ところが、由香は立とうにも、ひざの上の夏みかんが重石となって、すぐには立てなかった。仮に立ったとしても、そんな荷物を持って王子様とお茶なんて、自分の美学に反する。紙袋の柄も素敵過ぎた。
 もう、村岡くんったら・・・・・・
 気づけば由香は独り学食に取り残されていた。篤史もいつの間にか消えて、テーブルの上の夏みかんが、そのごつごつした肌を西日にさらしていた。
 自宅にたどり着くと、由香は夏みかんをリビングのテーブルの上に置いた。
「ふう・・・・・・」
「どうしたの、これ?」
 由香の母がけげんそうに尋ねてきた。
「うん、ちょっとねー」
「いまどき、珍しいじゃない。これ、きっと美味しいわよ」
「ええ?」
 由香は耳を疑った。篤史も同じように言っていたからだ。
 形がまちまちな夏みかんを大きい順に並べたら、ロシアのマトリョーシカ人形みたいになった。なかなか愛嬌のある姿だ。
 母がその中から一つを手に取って、ナイフで器用に皮をむいていく。ずいぶんと厚い皮だ。由香は母の手元にみとれた。やがてみずみずしい果肉が現れ、思わずツバを飲み込んでいたら、携帯が鳴った。由香はあわててバッグから携帯を取り出す。真奈美からメールが届いていた。
(さっきの夏みかん騒動の話題で王子様もカフェラテを飲みながら大笑い。ウチの大学にもあんなダサい奴がいたんだなって。あの人、誰なの?由香も大変だね)
 どうしてか、由香はそこで猛烈に腹が立ってきた。
 ひどい。誰がどんな権利があって村岡くんのことをけなすの?
「由香、夏みかんがむけたわよ」
 いつのまにかテーブルの皿に綺麗な黄色い房がぎっしり並んでいた。
由香は恐る恐るその一つを口に含んだ。
「うう、すっぱい」
母の目が笑った。
「それが美味しいんじゃない」
母の口ぶりは妙に自信ありげだった。
「由香がお腹にいたとき、よく夏みかんを買ってきて食べたものよ。こんなに立派なのじゃなかったけど」
 そうか、私は生まれる前から夏みかんにお世話になっていたのか、と由香は不思議な縁を感じた。
 それから数ヶ月が過ぎたある日、由香の足は深大寺へと向いていた。
 雨がそぼ降るウィークデー。由香は調布駅から独り深大寺行きのバスに乗った。
 窓の外をぼーっと眺めていたら、深大寺入口のバス停を通り過ぎてしまい、あわててブザーを押して深大寺植物園で下車した。
 凛とした静寂に包まれた緑の森。由香はその気高さに引き込まれた。
 ここだったんだ、植物園って・・・・・・
 赤い傘をさしながら由香は入場券を買って中へ入っていった。
 フラワーボックスが整然と並んでいる。ずいぶんと手入れの行き届いた空間だ。雨に濡れた木立も美しい。
 由香はとうとう自発的にここまで来てしまったのだ。
 村岡くん・・・・・・
 由香は急に篤史が恋しく思えてきて、辺りをキョロキョロ見回した。
 居る訳ないよね・・・・・・
 その翌週、深大寺の門前にある焼き物屋さんで仲良く並んで土鈴に絵付けしている篤史と由香の姿があった。
「村岡くん、それ何の花?」
 篤史の手元をのぞきながら由香が聞く。
「夏みかんの花」
「へえー。そんなのあるんだ」
「やだなー、花があるから実もあるんだよ」


(了)
 
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<著者紹介>
平岡 なを(神奈川県横浜市/51歳/女性/主婦)

       ......永く、永く、眠っていた恋人の種。
                    永い、永い、眠りから目覚めるため、花を咲かせるため、
                    愛しい人の手にふれられるのを、待っていた。


 雨の降る七夕の夜。深大寺近くのアパートに越してきたばかりの美紅(みく)は、窓を伝う雨を見つめ、ため息をついていた。美紅は二十三歳。一ヶ月前に家族から離れ、初めて一人暮らしを始めた。都内の短大を卒業し、社会人生活は二年目だった。特に美人でもなく、可愛くもなく、いたって内気でおとなしい性格で、人と話すのが苦手だ。派遣の仕事をしていて、電話でお客さんのクレームを聞いたり、注文を受けたりしていた。
 会社で電話の対応が悪いからと上司から怒鳴られ、まわりも冷ややかで助けてくれる人もなく、すっかり萎縮し、自信を失くしていた。今日も何を怒鳴られるのだろう、そう思えば思うほどミスばかりを繰り返した。人の顔色ばかりをうかがうようになり、すっかり自信を失っていた。心を開いて相談できるような友達もいなければ、やさしく慰めてくれるような恋人もいない。ふと寂しくなり、美紅はドアの鍵をおろし、傘を差して外に出た。

 午後七時を回っていた。美紅の足が深大寺に向かっていた。この前、仕事帰りに三鷹駅からバスに乗っていた時、小さな子どもが深大寺の七夕が綺麗だと言っていたのを思い出したからだ。この街に越してきてから、美紅は深大寺を一度も訪ねたことがなかった。信心深い方ではないし、神社や寺にはあまり興味がなかった。ただ、寂しい気持ちを救って欲しかった。落ち込んだり、人を憎んだりする、いやな気持ちを清らかに洗い流して欲しかった。
 深大寺の山門はかたく閉ざされていた。美紅の頭の上は、鬱蒼とした樹々の葉並が生い茂っている。薄い膜のような細やかな雨が葉並を伝って石畳の上に落ち、鈍い銀色の光を滲ませていた。山門前の参道に七夕の笹が並んでいた。七夕のあでやかな飾りつけが雨の雫に濡れ、まるで泣いているようだった。蕎麦屋や土産屋も扉をかたく閉ざし、人の気配はまったく感じられない。美紅は心細い気持ちでいっぱいになった。

 美紅は、うつむきがちに雨の音を聞いていた。やがて美紅は、山門前に流れる小さな川に沿って歩いた。道路を渡ると、水生植物園の看板が見えた。だが、そこも扉が閉まっていた。水生植物園の脇には小道があり、美紅は何かに吸い込まれるようにして、その小道を歩いた。小道は上り坂となっていて、濃く茂った樹々のざわめきが、頭の上から聞こえてきた。いつもの臆病な自分なら怖くて進めなかったが、何かの強い不思議な磁場のようなものが美紅を引き寄せていた。
 曲がり角に差しかかった時、傾きかけた看板があった。鏡のようだった。鏡は、街灯に照らされた樹々の一部を映し出していた。
 ――なぜ、こんなところに鏡が。
 美紅は、恐る恐る鏡を覗き込んだ。しかし、鏡は雨に濡れた葉並を映し出すだけで、美紅の姿がどこにも映らない。美紅は、ぞっとして振り返った。その瞬間、突然に白い光に包まれ、美紅は目がくらみ、何も考えられなくなった。

 気がつくと、美紅は大きな岩の上に座っていた。荒れた大地が広がり、それは急な斜面となっていた。ここからそう遠くない上の方に険しい山の頂が見えた。山頂付近には、明け方とも、夕暮れとも言えないような青っぽい紫色の空が淡い色で光っていた。目の下には見渡す限りの雲海が広がっていた。
 ――ここは、どこなんだろう。
 美紅は、ぼんやりした頭でそう思った。目の前に小さな池があった。なぜか、強く心が動いた。美紅は岩から降りて、池に向った。

 池には、水面いっぱいに蓮が浮かんでいた。緑の水面の中で、一輪の蓮の花が今まさに咲こうとしていた。ふっくらと蕾を膨らませ、小さくふるえていた。
 次第に空が明るくなってきた。空は青っぽい紫から、赤っぽい紫へと静かに移り変わりゆく。蓮の花は夜明けの光を浴び、淡いピンク色の花びらを静かに開いた。美紅は池の畔にしゃがみ、その蓮の花に手を伸ばし、やわらかな花びらにふれた。
 美紅の前に金色の光の輪があらわれ、その中から人が現れた。背の高い、感じのいい青年だった。青年は切れ長の目で美紅をやさしく見つめ、そして口を開いた。
「僕は、ずっと永い、永い間、眠り続けていたんだ。起こしてくれてありがとう」

「あなたは誰?」
美紅は、ゆっくり立ち上がり、青年の顔を見つめながら言った。
「僕は永い、永い眠りから目を覚ました蓮の花。きみと出逢うために生まれてきたんだ」
 青年は澄んだ声でそう言って、美紅にそっと手を伸ばした。美紅も自然に手が伸びた。青年の手が美紅の手にふれた時、美紅は青年と一緒に蓮の池の上に浮かんでいた。美紅は、青年と手をつないで蓮の池の上を歩いた。隣で青年は会社での悩みごとを聞いてくれたり、励ましてくれたり、慰めてくれたりもした。
青年は、やさしい目で言った。
「まだ、まだ、これからだよ。良い方向に自分を変えてゆけばいいんだよ」
今まで、そんなことを言ってくれた人は、美紅にはいなかった。
「あなたみたいな人に出会ったのは初めて」
美紅は、ゆっくり微笑した。そして、時間が経つのも忘れ、いつまでも彼と一緒にいたい、と思った。

 いつの間にか、日が高くなっていた。青年は微笑むのをやめ、ふと寂しげな顔をした。
「ごめんね。もう、あまり時間がないんだ」青年の顔が悲しそうに曇った。青年は視線を落とした。その先には、命を終えようとしている一輪の蓮の花があった。
 青年は、悲しそうな顔をした。美紅の心は揺れた。
「もう会えないの? どこに行くの?」
 青年は答えなかった。寂しげに微笑するばかりだった。やがて青年は金色の光を放ち、微笑だけを残して消えた。美紅は眩しさのあまり目を細めた。

 雨の静かな音が聞こえた。葉並を濡らす雨の音。美紅は雨の中に立っていた。目の前に鏡があった。寂しそうに立っている自分の姿が映っていた。美紅は目を伏せ、顔を両手で覆い、静かに泣いた。彼がいなくなったことが、寂しくて泣いた。

 翌日、日曜日の朝。美紅は昨日のことを確かめたくて再び深大寺を訪れた。雨はあがり、明るい光が雲の切れ間から差し込んでいた。美紅は、山門前を流れる小さな川の流れに沿って歩き、道路を渡った。水生植物園の門が開いていた。植物園の脇には小道が続いていた。美紅は少しためらったが、昨日の小道ではなく、水生植物園の門に向った。植物園内の湿原を歩き、小川に沿って歩き、小さな池に突き当たった。そこには、一輪の蓮の花が愁いに満ちた淡いピンク色の表情を浮かべて、ひっそり咲いていた。 
 美紅はなんとか蓮の花にふれようと無理な姿勢で身を乗り出した。地面は昨日の雨でぬかるんでいる。美紅は、小さな悲鳴をあげて足をすべらせた。その瞬間、後ろから強い力で抱きとめられた。
「大丈夫ですか」
澄んだ声がした。昨夜、鏡の向こうで出会った青年の声だと、美紅は気づいた。美紅は振り返った。そこには、蓮の花の精ではなく、ひとりの人間の男の人が立っていた。切れ長の目が、美紅をやさしく見つめた。

「もしかして、昨日の夜、ここに来ませんでしたか?」
驚いた顔で青年の方から切り出した。美紅も驚いて目を大きく見開き、ゆっくりうなずいた。
青年の顔に穏やかな微笑が浮かんだ。
「信じてもらえないかもしれないけれど、七夕の夜に、心寂しくなり、清らかな気持ちになりたくて、僕はひとり深大寺を訪れたんだ。不思議な体験をした。永い眠りから覚めると、蓮の池の前に君と似た人が立っていた。その人と別れた後、これが手のひらにあったんだ」
 青年はポケットから何かを取り出し、美紅に見せた。
彼の手のひらに、蓮の種があった。美紅は、その種の上に、自分の手のひらをそっとのせた。それから、ふたり、目をあわせ、薄紅色の微笑みを浮かべた。 


(了)
 
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<著者紹介>
吉澤 慎一(千葉県千葉県市/36歳/男性/会社員)

「何祈っているの?」という妻の声がきっかけで過去から引き戻された。
「家内安全」と答える。嘘ではない。
「随分熱心に祈ってたね」
「そりゃそうだ。僕は家長だぜ。家の安全を熱心に祈るのは当然だろ」
「そうですね」
「お父さん、カチョーなの?この前係長の試験落っこちたってお母さんが言ってたじゃない」
 小学生一年生の娘のカナが惚けたことを言う。妻が含み笑いをする。

追憶に浸っていたせいで熱心に祈っていたように見えた。家内安全を祈りつつ、高校生の頃のことを思い出していた。あの頃は別のことを祈っていた。
 僕は調布市内の都立高校に通っていた。六大学に入るのが三十人くらいの学校だった。熱心な進学校というわけでもなく、かといって底辺校でもなく、勉強したい生徒はする、そうでない生徒も進路はちゃんと考えるいうところだった。
 三年生の時に彼女が出来た。美園は同じクラスのバスケット部の子で、僕より五、六センチくらいは背が高かった。明るく活発だったけど、上背があるのを気にしてバスケをしている時以外はいつも猫背気味だった。はにかんで笑うのが可愛らしかった。
たまたま席が隣同士になって、よく勉強を教えた。僕は難関のN大を目指していて、そこそこ成績が良かったのだ。それから段々一緒に遊ぶようにもなった。恋人として付き合うようになったのは、夏が過ぎ、美園がバスケットボール部を引退した後だった。美園はようやく女としての自分に気付いたみたいだった。
僕らは受験生で二人一緒に勉強するばかりだったけど、縁結びのご利益のある深大寺にはよく行った。美園も僕もお互いが初めての恋人だったから、なんの疑問もなく「ずっと」とか「永遠」なんて言葉を使って二人の仲を祈った。

 「お父さん、まず何を見ようか?」妻と僕に挟まれてカナが言う。上機嫌で声も弾んでいる。晴れ渡った五月に両親と出掛けるのだから当然だ。
「そうだなぁ。」腕時計に目をやると針は十一時を指していた。「先にバラ園を一回りしようか。その後芝生の上にビニールシートを広げてお弁当を食べよう」
「さんせーい」妻と娘の声が交わる。
「今日のお弁当は何?」カナが訊く。
「何かな~?」妻が焦らす。
「昨日の夕飯の残りの煮物とコンビニ弁当のナイルバーチのフライ、タルタルソース掛けを弁当箱に移し変えたやつ!」僕は面白がって意地悪を言う。
「何それ~!?」カナは聞き慣れない言葉に興味を示し、「ナイルバーチ、ナイルバーチ」と繰り返す。
「変なこと教えないの! カナ、変なことを言うお父さんの手をつねっちゃいなさい!」
カナは面白がって僕の手の甲を抓る。自分の力が弱いのを補うべく爪を立てている。これが存外痛い。
「痛ッ、イタ、タ、タ、タ。何を~、やり返してやる!」
そう言ってカナの頭が僕の腰の辺りにあるのをいいことに、お尻を娘に打ち付ける。カナはよろける。妻が手を握っていなかったら転んでいただろう。
「やったな~!」
 カナはそう言うと僕のお尻を何度も打ち始めた。
「ごめん、ごめん。許してよ」
「許さない!」尻を打ち続けるカナ。こういうときの子供はふざけているのか本気なのか分からない。
「ごめん。どうしたら許してくれる?」
「肩車したらっ!」
――肩車!
 カナの言葉に対して重く鋭く独白する。三〇も半ば過ぎた男にとって、子供を肩車することはその一回一回が挑戦である。
「い、いいよ」
 わ~いと喜ぶカナの声を遠くに聞き、僕はしゃがむ。鼻からゆっくり息を吐きながら腹筋に力を込める。
 双肩にカナの体重を感じると、腹筋にさらに力を溜めて立ち上がる。腰を痛めることのないようにゆっくりと、ゆっくりと。
「たか~い」
 僕の身長はせいぜい一六〇センチメートル。それでもカナはこんな歓声を上げてくれる。
「良かったね~」こう言いながら、妻がそっとカナの背中に手を添え、落ちないようにしているのが分かる。
 こんな時間が永遠に続けば良いと思う。カナは成長し、僕らから離れていくだろう。でも僕らはずっと家族だ。

美園との「永遠」は長くは続かなかった。高校卒業後、僕はN大に、美園は体育系の短大に入学した。希望の大学に入ったものの、僕はなかなかそこで居場所を見つけられなかった。難関大学らしく、クラスの連中は聡明で洗練されていた。それに対して中堅都立から歯を食いしばって勉強して合格した僕は、自分が何か野暮ったい感じがして、皆に上手く馴染めなかった。大学で上手くいかなかった分、僕は美園に頼った。美園の前で高校時代の「頭のいい僕」を演じれば、しっくりと自分を保つことが出来た。しかし、美園には美園の生活がある。彼女の短大はカリキュラムが濃密で一週間に一回会えるのがやっとだった。僕はもっと会えないかと迫った。結局、そんな僕の様子に嫌気の指した美園が新しい恋人を作った。
その事実を知った後の後の僕は惨めだった。大学も休みがちになった。代わりに何をやるというわけでもなく、暇つぶしにマスターベーションをし、夜は独りで酒を飲んだ。自分のベッドの上の反吐の冷たさと悪臭で目覚めることもあった。
無為の毎日が続いた。高校時代に二人で歩いた場所を独り巡った。深大寺や神代植物園も歩いた。深夜、美園の家に電話を掛けた。相手が出ると怖くなって切った。酒を飲むと無性に寂しくなって一ヶ月に一遍くらいはそんなことをしてしまう。無言でも何か繋がっている気がしてしまうのだ。一年が過ぎた。ある日受話器の向こうの声が言った。「誰だか分かっているのよ。今、彼氏がいないから、また付き合う?」

三人でバラ園を廻る。人込みの中でカナがはぐれてしまわないようしっかりと手を握る。カナは僕に手を取られあっちのバラこっちのバラを見て歩く。時折花冠に花を突っ込んで「いいにお~い」と言ったり、お気に入りの色の花を見ると「まあ、なんてキレイなんでしょう」などとディズニーアニメで覚えた言葉で嘆賞したりする。
ある時は初めての恋人と、ある時は独りで歩いた場所を今は家族と歩いている。何だか妙な気分だ。

痩せ犬に骨を投げつけるような美園の言葉。携帯電話のなかった時代だ。美園は僕の電話に迷惑し、ああ言えば僕が遠ざかると思ったのだろう。
美しい思い出を自ら壊して、堕ちるところまで堕ちた僕は一つ開き直った。大学に居場所なんてなくていい。僕は単位を取るために大学にせっせと通い、家で音楽を聴き、本を読みながら残りの大学生活を過ごした。

「ご飯にしようか。お父さん、そろそろ疲れちゃったよ。」
 僕が提案すると、妻と娘は「お父さん、男のくせにだらしな~い。」と言いながらも、嬉しそうに芝生の上にビニールシートを敷く。そこへ妻の作った弁当を広げる。
「わぁ」娘が歓声を上げた。
弁当箱の中にはカナの好きなアニメのキャラクターの顔が詰まっていた。赤ピーマンやイチゴ、海苔を使ってよく似せて作っていた。
「昨日の残りなんて入ってないじゃ~ん」
「でしょ~」
 話題は弁当箱の中のアニメキャラクターの話になり、僕も頑張って、ビール片手にその話の輪の中に入る。
 
「お父さん、起きてよ」
カナに揺り起こされた。一緒に走り回った後、ビールを飲みすぎていつの間にか眠ってしまったらしい。日の光が大分やわらかくなっていた。
「お父さん、お友達が出来た。美里ちゃんっていうの。沢山遊んでもらっちゃった」
 カナは自分よりやや年上の女の子と手を繋いでいた。
「ありがとうね」と僕が言うと、女の子は、はにかんだように笑う。その笑みに見覚えがある。ふと二人の向こうに目をやると、妻と長身の女性が談笑しながらこちらを見ている。逆光に女性の顔の輪郭だけがはっきり浮かぶ。
 僕は胸に込み上げるものがあって心の中で叫ぶ。
――おぅぃ、美園。お前にとっても、この場所は特別なのかい?あの時の僕はとてつもなく格好悪かったけど、見てくれ、今はこんなふうにお父さんとして頑張っているよ。カナがいると、小さな僕がとても大きくなるんだよ......。
「じゃぁ私帰るね」美里が言うと、カナは「バイバイ」と答えた。
僕らも家に帰ろう。


(了)
 
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<著者紹介>
前田 栄一(埼玉県志木市/33歳/男性/会社員)

「あんたどこにおるがや?」
「お姐さん、堪忍。心配掛けてしもて...。」
「元気におるがなら、ほんでいいがやけど、金箔屋の旦那さん、あんたの踊りが観たいっちゅうて、ずっと待っておいでるがやぞ。いい加減帰ってきまっし。」
「あっ、明日には金澤...、帰るさけ。」
 志摩子の声は段々と小さくなり、武蔵国の面影を残す千二百年以上続くといわれる深大寺の杜、騒ぐ蝉の声に掻き消されていった。

吉祥寺の百貨店で働いていた志摩子が、初めての一人旅で訪れた金澤の"にし"のお茶屋、格子窓の奥から聞こえる三味の音に心惹かれ、芸の世界に憧れて東京を捨て芸妓の道に入って十年になる。「故郷を捨てる」ということはあっても「東京を捨てる」ということはなかなか人には理解されない。東京に生まれた人間にとっては、本来東京が故郷ということになる筈なのだが、「故郷は東京。」と胸を張って言えない何か不思議な感覚がこの国には存在していた。しかし、志摩子は東京を捨てた。自立した女になるために。
その東京に、十年ぶりに志摩子は戻ってきた。住み慣れた吉祥寺の街からバスに揺られ、ひとり深大寺へと向かった。十年の金澤生活の中で、いつの間にか日本的な美を愛でる感覚が志摩子の心には染み込んでいた。
「廓の紅の壁と、この緑は良く似合うわね。廓という非現実の世界ですら、自然に似合う、それがこの国の文化なのかもしれないわね。」
志摩子はそんなことを考えながら、深緑の参道をゆっくりと歩いた。色白の志摩子のうなじは、藍色の古風な浴衣によく似合う。参道の木々からもれる木漏れ日が、黒に赤の鼻緒のついた志摩子の下駄を優しく、しかし夏の暑さと相まって時にジリジリと痛く照らしていた。

吉祥寺駅から深大寺へ向かう道沿いの風景も、この十年で随分変わってしまった。"若者の街"、"住みたい街ナンバーワン"等と、そこに生まれたものにとってはお門違いのような持て囃され方をし始めたのも、ちょうど志摩子が金澤へと出て行った頃だったろうか。毎月のように入れ替わるテナントはまだしも、平日の昼間からモクモクと煙を吐いていたあの昭和の焼き鳥屋・"いせや"ですら、細長いのっぽビルへと建て替わるという。この街を出て行く、あの傷心だった志摩子を優しく包み込むように見送ってくれた温かなオレンジ色の電車もまた、冷徹なるステンレス製の車両へと移り変わっている。

「あなたに会いたい。」
心に重たい溜息のような想いが募ったのは、バスがようやく井の頭公園の森を過ぎた頃だった。
「『昔の恋を引きずるのは男の人の方』、だなんて云われるけど、そんなの嘘よ。恋をファッションや自己満足の道具にしか考えられない女の強がりもしくは、戯(言)...。」
 と言いかけて、大学を卒業する年、自ら選んだ恋の過ちに顔を赤らめた。
「女って身勝手ね。」
 そうお天道様に呟いたら急に可笑しくなっちゃって、巾着袋をギュッと握り締めて笑いを堪えるのに必死だった。

「幸ちゃんへ
  急に出て行くことになっちゃってごめんね。『なっちゃって』だなんて、誰かに責任押し付ける様な言い方だよね。でも私、自分じゃどうしていいかわからなくて...。鍵は新聞受けに入れておきます。落語家になりたいっていう幸ちゃんの夢、私これからも応援してるから。今は私、まずは私、ひとりで立っていける女になりたいの。『傍にいるだけで幸せだよ。』って幸ちゃんの言葉、あの時反発しちゃったけど、ホントは凄くすごく嬉しかった。そんな言葉が似合う女になったらまた会ってくれる?だなんて、ごめんね、身勝手にも程があるわよね。幸ちゃんを支えてくれる、そんな素敵な女性に出会ってね。
ありがとう、本当にありがとう。志摩子」

 置手紙をコタツの上に、私は二年続いた幸ちゃんとの同棲生活に別れを告げた。大人の女性に憧れていた私は、百貨店の化粧品売り場に就職も決まり、ひとつまたひとつと自分の気持ちに嘘を塗り重ねることを覚えていった。
 ...嘘で塗り固められた恋だったのかもしれない。当時流行り始めたインターネットで一儲けした大学時代の先輩と、六本木や青山でデートを重ねたりもした。「自立した君の生き方を僕は尊重するよ。」、眩いばかりの"東京"の夜景を背景にしてかけられる優しい言葉に私は陶酔し、そして捨てられた。
 都会での自立した女の生き方なんて、最後には空虚になるだけ。都会の夜空じゃ、輝ける星も街のネオンに掻き消されてしまう、そう思ったら、遠く離れた金澤の街で芸に生きる決心がついた。
 歴史ある街で、心づくしのもてなしをお姐さん方から学ぶ度に、自分の心が生き返ってくることを実感した。自立した女とは、人の心に触れ合って、そして見つけていくものなのだと、ようやく私の胸に響いてきた。
 そしたら急にあの時幸ちゃんが私にかけてくれた「傍にいるだけで幸せだよ。」って言葉が、たまらなく愛しく迫ってきて、気づけば東京、羽田からのモノレールに乗っていた。それから一週間ほど、今となっては懐かしい"東京"の街をふらついた。同棲時代に幸ちゃんとよく飲みに行った吉祥寺の居酒屋で、二ツ目さんになった幸ちゃんの、深大寺で開かれるという落語会のチラシを見つけて、こうしてバスに飛び乗ったの。

 お寺の緑は心地がよい。金澤という、杜と水に囲まれた街での生活が長くなった志摩子にとって、深大寺の杜はどこか心落ち着き、そして懐かしいものに感じられた。
 本堂の隅に作られた高座に幸ちゃんが座っている。着物の袂からすうっと伸びる細い腕、そしてコマを回す仕草の手の平から青い血管が柔らかく浮き出している。幸ちゃんの手はあの時のまんま。『悋気(りんき)の独楽』という、落語の名作を一人何役もこなしながら演じている。
「旦那さんのコマと女将さんのコマがくっついたら今夜はお帰りになります。そいで、旦那さんのコマとお妾さんのコマがくっついたら今夜は、...お泊りです。さぁ、廻った廻った!」
 志摩子は自分の心をそのコマに託してみたい気持ちになっていた。今も変わらぬ、いや変わらぬと志摩子が信じて止まないまっすぐな幸ちゃん。まっすぐな幸ちゃんにまっすぐ向き合えない自分自身に少々居心地が悪かった。
「幸ちゃんにもし、想う人がいるならば、考えたくはないけれど、もしも奥さんがいらっしゃるのなら、私はお妾さんのコマでいい。だからせめて傍にいさせて...、お願い。」
 コマは「コツン」と乾いた音を立ててぶつかる。
・・・
 悋気とは嫉妬のこと。
「一度は乾いた恋を求めた私だけれど、今の私が求めているのは、"コツン"だなんてそんな乾いた音じゃないみたい。」
 志摩子は湿ったこの国の夏の暑さに、襟元を流れる汗を何度も何度も拭った。
 一方で、見知らぬ土地で暮らし、十年の歳月をかけてようやくその街を"故郷"と呼べそうになったというのに、心残りの過去の恋を追いかけて、一度は捨て去った筈の、冬には空っ風の吹き荒れるこの乾いた"東京"に戻ってきたこの矛盾に、無理に折り合いをつけないでも良いような、そんな気持ちにもなっていた。
「あなたに会いたい。」
 唯それだけが真実なのだと思った。あの頃毎晩のように嬉しそうに語ってた幸ちゃんの夢、その夢をこうして一歩ずつ叶えて生きる幸ちゃんに会えたんだから...。会いたいというその気持ちの答えは、今目の前にいる幸ちゃん、あなたがそこにいるということ。

 高座が終わり、志摩子は落語を聴きに来ていた地元のご老人や、蕎麦を目当ての観光客に交じって、境内の釈迦堂へとゆっくりと歩を進めた。
外の強い日差し、うだる様な暑さとは打って変わって、コンクリート造りのその建物の中は少しひんやりと感じられた。そこに祀られた白鳳時代のお釈迦さま、千年の時を超え、明治時代にこのお寺のお堂の下から発見された仏さまだという。まっすぐに誰かを想い続けたかのような清純な眼差し。千年の暗闇の中から、夏の日差し差し込むこの地上にお出ましになったのだ。
恋とは盲目、お日さまを背に立つあなたの陰を追いかけるようなもの。想いが強まる度に眩くなるばかり。逆光線、そう、私からあなたが見えなくとも恋は恋。

「やっと会えたね。」

 お釈迦さまに対面した志摩子の目には、ただただ涙が流れていた。
 ふと差し出されたハンカチに、この人の傍で生きたいと、心に決めた志摩子がいた。そして夏の湿った風がゆっくりと、ゆっくりと二人の間を撫でていた。

(了)
 
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<著者紹介>
松田 亜世(東京都武蔵野市/28歳/男性/フォークな唄うたい)

「さっきの句碑だけど・・」
 弘子が、不意に言った。散歩した深大寺境内には多くの歌碑や句碑がある。その中で、弘子は、草田男や波郷のように著名ではないが、俳壇では重鎮だった、その人物の句碑の前に、暫く佇み、興味深げに読んでいた。
「ああ、皆吉爽雨の句碑のこと・・?」
 「みなよし・そうう。爽やかな雨。白々と明け行く刻の雨。いい俳号だなあ」など考えを巡らしながら、辰彦は目を細め、相変わらず弘子は『マニアックだな』と思った。
 二人は、近くの蕎麦屋で、新蕎麦を楽しみ、名物の蕎麦饅頭とお茶で寛いでいた。
「だけじゃなく、井澤正江との師弟の・・」
 弘子は、意外なことを口にした。
 井澤は、皆吉歿後、皆吉が創刊した俳誌『雪解』を引き継いだと聞いている。
「二人とも、地味だけど、いい句を詠んでいるよね・・」
 それほど爽雨に詳しいわけではないが、俳壇の元締めたる俳人協会の設立に携わり、副会長を務め、第一回「蛇笏賞」を受賞、印象深い句を多く残しているのは知っている。
「爽雨って、私あんまり知らないけど、例えばどんな句・・?」
「僕の好きなのは、〈ふくるると消ゆると秋の雲二つ〉とか、〈新茶くむつひのしずくに力あり〉という句・・」
「なるほど・・。いい句ねえ・・。じゃあ、井澤正江は?」
「有名なのは、〈白繭の翳れば山河はたと暮れ〉という句。師匠と弟子では詠みっぷりがかなり違うよね」
「そうね・・。でも、こんな話、あなたとするの、何年ぶりかしら・・?」
「あれ以来だからね。十年になるかなあ・・」
 辰彦は、ちょっと考え込む風情であった。
「そう・・。あれ以来・・、ねえ」
 弘子も感慨深げに頷いた。
『あれ』というのは、思い出したくもないが、弘子が俳句を捨てるきっかけになり、二人が別れる遠因にもなった出来事である。
 嫌な事件だった。こういう世界にありがち、と言えば言えたかもしれないが、弘子は勿論、辰彦にとっても痛恨事だった。
「こうして君と、再び、ここで会えるなんて、そのときは思いもしなかったけどね」
 待った甲斐があった、と辰彦は思った。
「ホントに待っていてくれたのね。今でも夢じゃないか、と思っているもの」

 十年前、二人は共に二十代後半、俳句結社「逍遥」の若手会員だった。町田の句会で、最初に弘子の句に注目したのは、辰彦だった。
 控えめな女性なのに、斬新で、切れ味の鋭い句を詠む。辰彦は、人柄を含め、次第に弘子に惹かれて行った。
 同じ句会に、師岡八重子という美貌の女流がいて、男の会員のアイドル的存在だった。しかし、句は弘子のほうが遥かに上。八重子にとって、弘子は目の上の瘤だった。
 そして、事件が起きた。弘子が「逍遥」に出した句に、八重子がクレームをつけたのである。この句は主宰から、秀句として評を貰ったのだが、季語を除き、他の結社の主宰の昔の句にソックリだと言うのである。
 八重子は、そのことを、評者である主宰に手紙で書き送った。主宰は、次号で、類想・類句の問題に触れ、「確かに似ているが、句意が全く違う。類想・類句は短詩形文芸の宿命だが、怖れてはならない。むしろ、花開くべき才能が、こういうことによって、萎縮してしまう方を怖れる」と述べた。
 八重子は、納まらない。「女を武器に主宰に取り入っている」など、弘子を誹謗中傷する心無い噂を撒き散らした。弘子は「逍遥」での活動を諦めざるを得ず、更に、現状にも嫌気がさし、俳句の筆を折る結末となった。
 辰彦は、心を痛めた。
この句は、悩んでいた弘子からアドバイスを求められ、「こうした方がいい句になる」と言い、従った結果、騒動に発展したからだった。つまり、責任の一端は辰彦にあった。
〈チョコレート苦きは秋の別れ言〉
 弘子はこの句を残し、辰彦の前から消えた。八重子が密かに辰彦に想いを寄せ、辰彦もまた美貌の八重子に惹かれた結果、自分を排除するため謀事を巡らせた、との疑いを持ったようなのだ。
「こんなことで迷惑をかけてしまうなんて、思いも寄らなかった」
 別れの日、吟行によく訪れた深大寺の寺領を散策しながら、辰彦は心から詫びた。
「いいのよ。これも私に与えられた運命」
 意外にも、さばさばした顔で弘子は頬笑んだ。何かを吹っ切りたいという姿勢が見えた。
「君への想いは変わらない。今回のことで、心に蟠りが無いと言えば嘘になるだろう。しかし、もし、僕への気持ちが残っているのなら、何時までも待っているつもりだ」
「有難いけど、そんなの夢物語に過ぎないわ。もう少し経ったら、きっと、八重子さんが、あなたの傍にいると思うから」
「それは誤解だ。僕は彼女を句友以外の何者とも思っていない」
「そうかしらね・・」
 弘子は、半信半疑のようだった。しかし、辰彦の人生にとって、弘子を失うことは、単なる一つの失恋以上の重みがあった。互いに切磋琢磨し、高めあう、句友であり、いい意味での句仇に他ならなかったからだ。
「それならこうしよう。十年後、もし、僕が今の結社にいたなら、必ず君との思い出の句を発表する。そのとき、僕への心が残っていたら、連絡くれないか」

〈薔薇散って残り香淡き寝覚めかな〉
 十年後、辰彦は弘子との思い出の句を他の二句とともに、『逍遥』に発表した。この間、辰彦は同人に推挙され、主宰の選を経ない、同人欄に載せたのである。
 暫く何の反応もなかった。以前の電話番号に連絡したが、「この番号は、現在使われておりません」という声が聞こえるばかり。
 弘子が『逍遥』を取り続けている保証はなく、仮に取っていても、その気がなければ読むことはないだろう、とも考えた。焦った。
 待つこと一月。漸く弘子から手紙が届いた。かなりの葛藤があったようだった。
「本当に待っていて下さったのですね。あなたらしいけど、馬鹿みたい」
 そう書いてあった。嬉しかった。あのまま人生を送っていたら、恐らく大きな悔いを残すに違いない。たとえ弘子が待っていてくれなくても、もう一度会い、現在の心境を聞くだけでもいい、とも思っていた。

「さっきの二つの句だけど・・」
「皆吉爽雨と井澤正江の・・?」
「そう・・、あれは一種の相聞歌というか、相聞句と取れないかしら・・」
 また予想外の言葉を弘子は口にした。心の内が読める言葉だった。暫く、俳句の世界から離れたことが、物事を客観的に見て、新しい発見に結びつくということはよくある。
「相聞句・・?まあ、主宰と会員、特に異性間の場合は一種の疑似恋愛みたいなところがあるからね。例えば、君も知っている、高浜虚子と森田愛子なんかはそうだよね」
「虚子の〈虹立ちて忽ち君の在る如し〉と愛子の〈虹消えてすでに無けれどある如し〉という句。互いを想い合う気持ちが凄いわね」
「虚子の『虹』と言う小説のモデルになって、愛子は有名になったけど・・。
〈春惜しむ深大寺そば一すすり〉という爽雨に対し、〈そのひまの空はまぼろし辛夷咲く〉という井澤正江の句は、受ける形になっているよね・・。疑似恋愛は別にしても、辛夷の花言葉は『信頼』、師への深い想い入れが読み取れる句だよな。師匠が蕎麦を一啜りする間の空が幻、というのだから・・。
 だけど、どうして相聞句だと思ったの?」
「ううん・・、別に。ただ、そう思っただけ・・」
「そう・・。でも何となく分かる気がする・・」
「会おうと決心するには勇気が要ったけど、この慌しいご時世に、十年も待つなんて。
 まるで平安時代の恋物語だわ。
 あなたがそこまで馬鹿正直だとは思わなかった。私の見込み違い」
 弘子は何が可笑しいのか、ホホホと笑った。
「馬鹿で、見込み違いで悪かったかな?」
 辰彦も笑いながら言った。空白の十年が忽ち埋め尽くされる感触があった。勿論、現実に、二人の距離を埋めるのは、それほど簡単なことではない、と分かってはいるが・・。
「そんな・・。でも嬉しかった。さっきあなたが、蕎麦を食べている姿を見て、本当に夢なら覚めないで、と思ったもの・・」
 それは辰彦も同じだ。目の前に弘子がいること自体奇蹟としか思えない。
「ありがとう・・。ただ、お互いもうそんなに若くはない。これからは、それぞれに、そして二人の間も、どうなるか分からないけど、前向きに、大切に生きて行きたい」
「賛成・・。ところで、八重子さんはその後どうなさったの?」
「僕に脈が無いと分かると、サッサと辞めて、別の結社に行ったよ。以後音信不通。今どうしているか知らない」
「そう。でも俳句を再開するにしても、あなたとは、別の結社に行く。もう嫉妬はコリゴリだから」
「それは賛成だな」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
 辰彦は、来年の新蕎麦の時期、弘子とどう過ごしているだろうか、と想像した。そして、何故か、囲炉裏の灰の中から掻き出される、一片の埋み火を思い浮かべたのだった。


(了)
 
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<著者紹介>
相原 文生(神奈川県相模原市/68歳/男性/無職)

 夜露で、健太のブルゾンは濡れていた。どこかの家の軒下にでも寝ていたのだろう。昨夜遅く、一杯飲み屋で焼酎をストレートで飲んでいたのは覚えているが、そのあとのことは霧に包まれたようで、まるで記憶がない。胃の底に汚物がたまっているような不快感で、吐き気がこみ上げてくる。ふと顔を上げると、目の前にお寺の境内が広がっている。深大寺という由緒あるお寺だ。山門には白梅がかれんな花びらを満開に咲かせている。柔らかな朝日が境内の木々の瑞々しい葉を照らしている。健太は水が飲みたかった。体の五臓六腑が水分を欲しているようだ。喉がひりひりするほど渇いている。お寺なら、水のみ場くらいあるだろうと、アルコールで浸された頭で考えてみた。
 森の木立から鳥の鳴き声が聞こえてくる。山門から本堂に向かってよろよろしながら歩いていくと、ピンクのカーディガン姿の女性が両手をすり合わせて熱心にお参りしている。こんな朝早くに境内にいるのは、健太とその女性だけではないか。年の頃は三十代半ばくらいだろう。ロングヘアーを後ろで束ねている。サンダル履きなので、近所に住んでいるのだろうと思った。健太は少し離れた太い大木の影から、その様子を眺めていた。というより、余りの二日酔いのひどさに、木に寄りかかっていたかったのだ。その女性は何か、口をもぐもぐ動かしている。お願いごとでもしているようだ。
 本堂の中には、確か阿弥陀如来像が祭られていると記憶している。深大寺からそう遠くない安アパートに住んでいるとはいえ、お寺に足を運ぶことなどまったくない。信仰心がないわけではないが、そういう生活と縁の遠い生き方をしてきた。ましてや、ここ数年の間に、自分の身に降りかかった不幸せを考えると、世の中に本当に神仏がいるのかどうか、疑わしくなってくる。その女性もきっと、何か困りごとがあって 藁にもすがる思いでこのお寺にやって来たのだろうと健太は思った。
 女性は十分間くらいも手を合わせていただろうか。ようやくお参りを終えて、踵を返した。そのとき顔がはっきり見えたが、頬が濡れていた。手にしていたハンカチで、そっとまぶたをぬぐっている。顔はいくぶん青白く、髪もほつれている。ひょっとしたら、体が悪いか寝ていないのではないかと、酔った頭で健太は考えた。
 女性は石の階段を下りるとき、ふらっと体が揺れたかと思うと、しゃがみこんでしまった。健太はその場に駆け寄って、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 女性はびっくりしたような表情で健太を見上げた。濡れた目が朝日に光っている。
「具合が悪いのでしたら、救急車でも呼びましょうか?」
健太は二日酔いで多少、呂律が回らない口調で話しかけた。
「いえ、もう大丈夫です。ちょっとめまいがしたものですから」
女性は鈴の音のような声で答えた。
 健太は手を差し出すと、女性は素直に応じて握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
 境内には緑の木々の葉がかもし出す、むせるような匂いで満たされている。
「深呼吸をすると、いいかもしれませんね」と、健太は自分から大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出した。肺の中の細胞ひとつひとつに新鮮な空気が吸い込まれ、体全体にエネルギーが注ぎ込まれるような感じがした。
「僕は二日酔いで具合が悪いんです」と健太が言うと、女性はふふと含み笑いをしてから、同じように深々と息を吸い、吐き出した。女性の顔に赤みがさしてきたようだ。都会の喧騒の中で、深大寺の空気だけはまったく別世界のような新鮮さを健太は感じた。

 肩を並べて、ゆっくりと元三大師堂に向かって歩き出した。周りは雑木林が覆い茂り、都会の中で暮らしていることを一瞬、忘れさせてくれる。健太は生まれ育った北国の田舎の風景を思い出していた。
「何かお願いごとがあったんですね。長い時間、神仏に手を合わせていたから」
健太の声は二日酔いを忘れたかのように弾んでいる。
「見てたんですか。身の上にいろいろありまして、もはや自分の力ではどうしようもないところまで、追い込まれてしまって」
 女性の声は消え入りそうだった。話によると、次のようなものだった。女性は三十五歳で、百合子という名前だった。夫が血液のガンで半年前に急死し、幼い子供を二人かかえて、途方に暮れているという。収入がなくなったため、ビル会社の清掃のパートに出ているが、親子が暮らしてゆくにはほど遠い収入の少なさ。将来を考えると、胸が押しつぶされそうで、毎日死にたいと思っているというのだ。
 健太も正直に身の上を話した。「僕もね、会社をリストラされ、収入が途絶えました。そのとき、妻は子供連れて実家に帰ってしまいました。それから、僕は毎日、真剣に職を探しましたが、四十も半ばだと再就職はとても難しく、履歴書の段階ではねられてしまうのです。面接さえ、受けられないのですからね」
 健太の口調は自嘲めいていた。
「昨夜も安酒場で飲んで、べろべろに酔い、どうやら野宿したようです」と、健太は冗談めかした口調で言い、伸びたひげをなぞった。女性は無言で、健太の話を聞いている。
 森の木立の隙間から、絵の具を塗ったような青い空がのぞいている。小鳥たちのさえずりが耳に心地よい。
 「人生、七転び八起きというではありませんか。一生懸命、生きている人間を神仏は見捨てることはないはずです。真剣に願い、できる限りの努力をしていれば、きっと良い方向にゆくと思いますよ。ぜったいにそうに違いありません。夢と希望を捨てないことです。神様は奇跡を起こすのですから」
 健太は自分でも不思議なほどに饒舌に話した。それは百合子のためというより、自分に言い聞かせようと熱弁を振るっているのかもしれなかった。これまで神仏など信じてはいなかった。しかし、これでもか、これでもかと身に降りかかる災難を思うと、最後は神仏しか頼るものはないのではないかと思えるようになった。
「今日はよかったわ、健太さんに会えて。何か生きる勇気みたいなものを与えてくれて、ありがとう。私は両親が早くに亡くなっていて、兄弟はだれもいないものだから、相談する人がいなくて・・・。夫の親とはソリが合わないし、毎日死ぬことばかりを考えていたの。どうしようもなくて、自然と神様に手を合わせていた」
 百合子は途切れ途切れに言った。
 
 時計を見ると、午前十一時を回っていた。かなりの時間を境内で過ごしたが、清澄な空気に包まれて、人生を見つめ直していると、あっというまに時間が経った。二人は山門を出た。その前の通りには門前町の雰囲気が漂い、名物の深大寺そばやお土産屋が軒を連ねている。赤や青の幟もそよ風に吹かれて揺れている。
「お腹すいてませんか? そばでも食べましょう」
 健太は百合子を誘った。
「そうですね。久しぶりにお腹がすいちゃいました」と、百合子の顔は笑っている。
二人はこぢんまりした蕎麦屋に入り、ざる蕎麦を注文した。
「私、男性の人と二人だけで食事するのは、すごい久しぶりなんですよ」
「それは光栄です。もしよかったら、これからもときどき会って食事をしましょう」
 健太は百合子の目を見ながらいった。その言葉に、百合子はこくんと頷いて、柔らかな笑みを浮かべた。開け放たれた店の玄関からは、深大寺を訪れる参拝者の姿がよく見える。うららかな日差しを浴びて歩く人たちの背中には、それぞれの人生が張り付いている。中には思い荷物を背負って、喘いでいる人も少なくないのだろうと健太は思った。ならば、困った者同士が手を取り合って生きてゆくのも悪くはない。いや、人は一人では生きてはゆけないものだから、困った者どうしが助け合ってゆくのが人生ではないかと、つくづく健太は思う。そのことを百合子に伝えたくて喉まで言葉が出かかったが、もう少し自分の身辺を整理してからでも遅くはないと考え直した。
「深刻そうな顔をして、なにを考え込んでいるの?」と、百合子は笑みをたたえながら尋ねた。
「いや、なんでもないんだよ」と健太はあわて気味に、蕎麦湯をごくりと飲み干した。

(了)
 
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<著者紹介>
芝田 賢一(北海道札幌市/52歳/男性/自由業)

 お寺、おそば、そのふたつだけでは足らず、右隣で熱心にそばを食べる男、という状況までが加わって、私はようやく佑太君のことを思いだした。そして、あの日私に訪れた痛みの記憶と、あの日からずいぶん遠くにきてしまったのだという実感、そのふたつがあいまって、私は泣きだしそうになってしまった。
「中学生のときのこと、今急に思いだしたわ」
 涙がでてきてしまう事態をさけるために、私は浩平に話しかけた。
「中三のとき、塾の同じクラスの生徒で初詣に行って、その帰りにそばを食べたの」
 そばをほおばったまま、浩平は私の方を向いてうなずいた。
 浩平の実家で開かれた咲ちゃん――彼のお姉さんの娘で、今日で四歳になった――の誕生会の後、私たちはバスで深大寺に来た。植物公園のアジサイが今きれいだからと、浩平のお母さんにすすめられたのだ。くもり空の下、私たちは植物公園をじっくりまわり、それから深大寺に参拝し、おみくじを買ったり湧水を飲んだりしているうちに夕方になった。運動不足の私たちふたりは歩きまわったことでくたくたになり、それで、せっかくだしおそばを食べて休んで帰ろうという話になったのだ。
「それ、俺もときどきあるなあ」
 自分のそばをきれいに片づけてから、浩平は言った。
「昔の思い出って、ふいによみがえってくるよな。何かをきっかけに」
 今度は私がそばをすすりつつうなずく番だった。
「なんでこんなことまでおぼえてるんだよ、って自分に突っ込みたくなるくらい、細かいところまで思い出せるんだよな。いつも大事なことおぼえてなくて困っているのに」
 私たちは笑みを交わし、それからしばらくそれぞれの思いにふけった。浩平はそば湯を飲みながら、私は残りのそばをすすりながら。

中三のときの元旦の朝、私たち四人は塾の前に集合してから、地元のお寺に合格祈願の初詣に行った。冬らしい乾いた日で、太陽は顔を隠し、空気はきんきんに冷えていた。
部活を引退したあと、私は定年退職したおじいさんが開いている小さな塾――英数だけを教える個人塾で、狭い教室はいつもこもったにおいがした――に通いはじめた。私が入ったのは地元トップの県立高校を目指すクラスで、私の他には女の子二人と男の子一人、全員が違う中学に通っていたのだが、私たちは妙に気が合って、集まると親密な家族のような空気がうまれた。授業前と授業後、小さな教室は笑い声で満ち、私は塾に夜遅くまで残りすぎて母にたびたび叱られた。
女三人の中に溶けこめるだけあって、佑太君は変わった男の子だった。床屋で短く刈った髪の毛には、いつも寝ぐせがついている。自転車に乗っているときは、川本真琴の歌を低い声で口ずさむ。グリコの健康ヨーグルトが大好物で、よく口の端を白くしたまま塾に来てしまって――途中で買い食いしてくるのだ――笑われていた。
私は、いつのまにかその彼を好きになっていた。裏のない自然な親切さとか、うしろ首に浮き出るまっすぐな骨のかたちとか(授業中、たまに目が離せなくなった)、英単語の小テストの前に、突然ぐわっと集中して単語帳に向かう時の締まった横顔とか。
けれど私は、自分のその気持ちを最後まで隠し通した。その頃の私は今より輪をかけて内気だったし、そのことが発覚してしまうと四人の親密な輪が壊れてしまう気がしたからだ。
当時の私にとって、その輪は何よりも大切だった。
初詣を終えた帰り道、年中無休のそば屋の前を通りがかったときに、食べていこうと提案したのは佑太君だった。俺年越しそば食べそこなったんだ、と。他の女の子二人も食べていないと言い、私は前の夜に食べていたが嘘をついた。参拝の行列に並んだせいで体が冷えていたし、すこしでも長く四人でいたかったからだ。
でも、そばを食べはじめてすぐに、私はそのことを後悔した。
四人そろって志望校に合格しないかぎりこの輪は失われてしまう、と私は考えていた。だが、志望校の人気と私たちの成績とを分析すると、その可能性はゼロに近い。つまり、年が明けたということは、大切な輪を失う年になったということを意味していた。参拝の間は、ただお寺に遊びにきたというふうに思うことで現実をごまかしたのだが、そばを食べているうちに、年が明けたという事実も一緒に私の中に入り込んできたようにふと感じ、一度そう感じてしまうと、もう自分をごまかせなくなったのだ。
 三分の一ほど食べたところで、私はついに箸を置き、
「みんな、受かるのかな?」
 と言ってしまった。心の中でふくらんだ不安を、抑えきれなくなったのだ。
それまで私たちの中で、その話はタブーだった。向かいに座っていた女の子二人の顔に戸惑いの色が広がった。
「そりゃそうだよ」
 横に座っていた佑太君が、食べる手を止めずに言った。
「受かるって、全員」
 私の好きな例の真剣な横顔で、さも当然のように。
 力強いその言葉に女の子二人は安心し、再びそばをすすりはじめた。一方、私は自分が恥ずかしくなって、その場から逃げだしたいと思い、その気持ちと同じだけ強く、佑太君にがっしり捕まりたいと思った。
 だが、そのどちらもできるわけがない。
途方にくれた私は、彼の椅子に無造作にかけられていたジャンパー(ふかふかした黒のナイロンジャンパーで、一枚で防寒できるその道具はいかにも彼らしかった)の袖をこっそりと掴み、かろうじてその席にとどまっていた。
「食べないんだったらもらってもいい?」
 佑太君に笑顔で訊かれて、私は思いきり動揺しながらうなずいた。そしてうなずいたのとちょうど同時に、信じると決めた。信じて力を尽くす以外、方法はないのだから......。

「初詣っていえば、俺、大学に入った年からずっとこの深大寺に初詣に来てるんだ。必ず元旦に」
 そば屋を出たときに、浩平が言った。
「すごいね。縁起かつぎ?」
「うん。浪人した年、俺ひとり家に残って勉強しながら年越していたんだけど、除夜の鐘が耳に入ってくると、前の年はきちんと初詣に行かなかったせいで受験に失敗した気がしてきてさ。一度そう思っちゃうと、なんだかそわそわしちゃって」
「その気持ち、わかる」
「だろ? それで夜中の寒い中、自転車で一時間近くかけてこの寺に来て、缶コーヒー持って行列を並んでお祈りしたんだ。それですっきりして家に戻る途中、雨が降りだしてさ。おそろしく冷たい雨が。そのせいで風邪ひいて、正月中寝込んじゃったよ」
 私は笑った。浩平は、職場で思われているとおり律儀で、しかし職場で思われているより間が抜けていて、私は彼のそういう所を気に入っている。
 浩平の話は、久々に私に訪れた思い出が残していったかなしさを、雨のあとの風みたいに遠くへ運んでいってくれた。
 結局、私たち四人のうち目標校に合格できたのは女の子一人だけで、私たちは別々の高校に入った。また四人で集まろうと言ってはいたが、一度も実現しなかった。私はその流れを、避けられないものとして、自分でも不思議なくらい自然に受けいれることができた。私なりに精いっぱい努力したという自負のおかげだと思う。たとえ奇跡がおきて全員が志望校に受かっていても、いずれは同じ結果になったはずだ。あの小さな輪は、限定された世界でしか成立しえない性質のものだったから。
私は自分の入った高校で新しい輪を築き、佑太君への想いが時の流れの中で溶けてうすまったころに、新しい恋をした。それからくりかえし新しい世界で新しい恋をして、今、すぐ疲れるくせに歩くことが好きな浩平に恋をしている。無理して話題を探す必要はなく、ただ並んで歩くだけで幸福になれることを、私は彼に教わった。
日が沈み、涼しくなった参道は心地良く、左右の雑木林のたくましい木々――中には私の頭上におおいかぶさるくらいまでに生い茂っているものもある――を眺めながらぼんやり歩いていると、エネルギーをもらっているような気持ちになる。
でも冬には、これらの木々は葉を失っているだろうし、同じように私も、失いたくないものを失わないために力を尽くし、でもやはり多くを失って、新しい年を迎えることだろう。
年が明けるとき、初詣の人々でにぎわうこの参道に、私も立っているだろうか?
信じて、力を尽くそう。
そう決めてから、私は浩平のごっつりした手をにぎり、自分が失うかわりに得てきたもの――彼自身と、すこしは成長したはずの私自身――を確かめた。あいかわらず内気なままの私ではあるけれど、それでも。


(了)
 
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<著者紹介>
中川 慶介(埼玉県 所沢市/26歳/男性/会社員)

 家から歩いて十五分。春もまだ浅い中、眠るような本堂の左に一本の木が堂々と立っている。
 ヒトツバタゴ。別名、なんじゃもんじゃの木。そう呼ばれる彼が今回の患者だ。
 彼が盛大に花を咲かせられるよう施肥をするだけなのだけど、高校を出てすぐ樹木医として働き出して三年。僕一人だけで治療する初めての患者が彼とは思いもよらなかった。この木は僕に樹木医を目指すきっかけをくれた。そんな彼に恩を返せることは嬉しいことだ。
 まず施肥のため、地面に二つの円を描く。幹を中心に枝の先端を半径にしたものと、それに三十センチほど足したもの。
 そのために一番長い枝を探していた時だ。制服を着た男女が木に近づいて来て、おもむろにカッターを取り出して幹に傷を付け始めた。
「おい! なにしてんだ!」頭で考える前に口が動いていた。「何の権利があってお前らはこの木に傷をつけてんだ! 木だってな、生きてんだぞ!」
「はぁ? なにこのおっさん。気持ちわりんだけど......あぁ、冷めちった。行こうぜ」
二人は悪びれもせずに行ってしまった。
 拭いきれないものを胸に抱きつつ作業に戻り、十分ほど経ったろうか。
幹を挟んだ向こうから、身長が高くすらっとした女性がひとり、さっきの子たちのように幹に近づいてくる。また何かするんじゃないかと横目でチラチラ見ていたら、その女性は幹の横を通り過ぎてきた。
「あの、すいません」
「はひ!?」思ってもいなかったことに声が裏返ってしまった。「......なんですか?」
「よかったら手伝わせてもらえませんか?」
そう言い、爽やかな笑みを浮かべた彼女は真っ白なピーコートを羽織っていて、下はスカート。どう見ても土をいじるには適していない恰好だ。
「えーと、別にいいですけどその恰好じゃ......」
「いいんです。こう見えても私、大学で植物の勉強しているんです。でも文字とばかり向き合って分かるものじゃないでしょう、植物って。だから手伝わせてくれないかなーと。......だめですか?」
 そこまで言われ断る理由のなくなった僕は、承諾のサインとして軍手を差し出す。
「素手じゃさすがに。それとあんまり無理しないでね」それだけ言って仕事に戻ろうとした僕を、彼女は呼び止めた。
「ごめんなさい。えーと、お名前は?」
「名前? ユウキだけど」
「じゃあ、あの、ユウキさん。この地面に書かれた円って何か意味があるんですか?」
「あるよ。この二つの円に挟まれた辺りが、大体だけど根の先がある辺りなんだ。根と枝って対応してるもんでさ、枝の広がり方を見れば根の広がり方が予測できるんだ」
「そうなんですか。なるほど」
「で、他に質問は?」僕の意地が悪い質問に、彼女はばつが悪そうに笑って顔を赤くした。
 ほとんど僕一人の仕事になるかと思っていたら、なかなかどうして、彼女は次々と施肥をするための穴を掘っていった。さすがに僕よりは遅いものの、大学で勉強しているというのはあながち嘘でもなさそうだ。
「へぇ、うまいね」
「そんなことないです」
取れてしまうんじゃないかというくらいにぶんぶんと首を振り回す彼女に、僕は魔法瓶を指し示した。
「休憩にしよう。おかげで思ったより早く終わりそうだし」
スコップをその場に置いて門前通りまで出る。蕎麦屋兼土産屋の向かいにあったベンチに座り、お茶をついで彼女に手渡した。温かいお茶が僕らの空気を溶かしたかのように話が弾んだ。
といっても、僕から話したのは高卒ですぐに樹木医の道に進んだことくらいで、ほとんど彼女の話だった。
樹里という名前だということ。僕と同い年だということ。大企業の社長令嬢だということ。東京大学に通っていること。送り迎えは車で、一人では簡単に家から出してもらえないほど不自由だということ。それが嫌で、ささやかな反抗に一人大学から抜け出し、昔住んでいた頃によく来た深大寺へやってきたということ。
そんな樹里の話を遮るように、最近の曲らしい音楽が鳴り響いた。携帯電話の着メロらしい。携帯の画面を見て樹里はため息を漏らし、一拍置いて通話ボタンを押した。
「もしもし......はい、ごめんなさい。......はい、はい、今から帰ります」
電話を切り、樹里はもう一度ため息を漏らした。
「帰って来なさいって。私、行きますね」
そう言ってバス乗り場の方へ数歩行ってから、思い出したように振り返った。
「ユウキさん、またここに来ますか? もっと色々と教えてもらいたいんですけど」
「うん。今度の日曜には来るよ」
「分かりました!」
樹里はまるで小学生のように、嬉しそうに頭の上で大きく手を振って行ってしまった。
 次の日曜日、予定通り経過を見に深大寺へと出かけると、ヒトツバタゴの下には樹里がいた。
僕を見つけた彼女は眩しそうに笑った。
その顔を見て僕の心はきゅっと縮んだ。
 それからも毎週、木の様子を見に深大寺へ行くと、樹里も必ずと言っていいほど来ていた。彼女は別になにをするわけでもなく、いつも楽しそうに植物や日常の他愛のない話を一時間くらいして帰っていった。そんな樹里の影響か、僕は彼女と会うことが楽しみになってきていた。
会う回数を重ねるごとに樹里への恋心が大きくなっていった。でも、樹里のことを知れば知るだけ、それに比例するように僕の劣等感も膨れ上がっていった。
高卒止まりで、いくら医者と言っても樹木医の僕が、東大通いで社長令嬢の樹里と釣合うのか。
 豊かな森が日々刻々と深緑に色づいていく中、僕の心は少しずつ黒く染まり、石のように重くなり、沈みこんで行った。
そんな一日一日苦しくなって行く気持ちを抱えて迎えた四月。その初めての日曜日を境に、樹里の姿が深大寺から消えた。代わりに一通のメールが携帯に届いていた。
『親に知られました。ずっと見張られています。もう行けないかもしれません』
 それからも毎週深大寺に通ったけれど、メールの通り、先週も、そして今週も樹里の姿はなかった。でも残念な気持ちの反面、これでよかったのかもしれないという気持ちも胸に浮かんできた。
 所詮、僕と樹里とでは釣合わない。
 そう。そう思い込めば、この苦しみからは解放されるものだと思っていた。けれど、ますます樹里への想いが万力のように僕の胸を締め付ける。
 そのあまりの苦しさに山門前の階段に腰を下ろしてしまった。そんな僕の横を通り抜け、本堂へと向かう男女の会話が嫌でも耳に入ってくる。
「......ってる? ここが縁結びで有名なのは昔話から来てるんだって。だから......」
 深大寺に伝わる有名な話だ。湖畔に立ち続ける青年のイメージが嫌でも今の僕と重なる。
 そのイメージを頭から追い出すように首をめぐらした。山門の向こうにヒトツバタゴが見える。まるで雪が積もったような彼。その下に樹里の姿はない。
僕はあの木の下で立ち続けているだけでいいのか?
 ......答えなんて分かりきってる。
 僕は立ち上がり、バスを待つのもわずらわしくて、調布駅へと走った。息を切らしたまま切符を買い、改札を抜け、電車に飛び乗った。
 そうさ。釣合うか釣合わないかなんて、周りが勝手に決めることだ。僕のこの気持ちにそんなことは関係ない。僕は......樹里に会いたい。
 そう気持ちを決めた僕に、一時間の道のりなんて一瞬だった。気付いた時には有名な赤門の前にいた。僕は赤門をくぐって左の、話に聞いていた建物を目指して歩いた。会える保障なんてないのに。それでも、絶対に会える、という奇妙な確信を胸に歩いた。
 そして探し始めてすぐに、建物から出てくる懐かしい人影を見つけた。
 いた!
 樹里はいつかのピーコートのように真っ白なセーターを着ていた。
樹里も僕に気付いた。色々な表情が顔を駆け巡っている彼女のところへと、僕は走り寄った。
「......はぁはぁ」
走ったからだけでなく、胸が苦しい。この苦しさをどう言葉にすればいいだろう?
「......まだ俺が知っていることを全部教えてないぞ!」
 樹里が吹き出した。その目には涙が溜まっていた。
「ばか」そう優しく樹里は言い、僕の存在を確認するようにそっと腕を回した。「会いたかった」
「俺も。......そうだ。あの木、綺麗な花を咲かせたよ」
「そう」と、静かに樹里がうなずく。
 そして僕らは、示し合わせたように歩き出した。声に出さなくても分かり合えた。
樹里に会うため急いで来た道のりを、今度は彼女の手を握りゆっくりと戻る。
 二時間ほどかけて戻ってきた山門をくぐると樹里は小さく感嘆の声を上げた。
「わぁ......綺麗」
 満開のヒトツバタゴが迎えてくれる。
あまりの見事さに、僕らはしばらく声もなく白い花たちを眺めた。
「ねえ樹里。なんで初めて会ったあの時、俺に声をかけてきたの?」
「それは、ね。単純に植物の為に働きたかった。あとユウキさん、この木の為に怒ったでしょ? ほら、高校生ぐらいの子らに。人の為に怒れるって素晴らしいことだと思うの。あの時は木だったけど」
樹里がくすくすと笑う。
「で、その時にね、ユウキさんのことを知りたくなったの。植物を守る人に悪い人はいないっていうのが持論だから」
「何だ、それ」僕もつられて笑う。「俺は樹里が話してきたとき、あまりに白い服装をしてたから、この人はヒトツバタゴの妖精かもと思った」
なにそれ、と樹里も笑い返す。
「......私ね、親に知られて、ここに来られなくなった時、あの絵巻物の話みたいだって思ったの」
「それ、俺も思った」樹里と視線が合う。「......あのさ、樹里の両親は俺を認めてくれないかもしれない。けど、絶対俺自身の力で認めてもらうから。深沙大王や亀の助けなんて待ってられない。俺は樹里のところまで、自分の足できっと辿り着いて見せるから。だから......」
 見つめ合う僕らの間を一陣の風が通り抜けていく。雪と見紛うばかりの花吹雪の中、髪に白い花飾りを着け、目に涙を溜めた樹里の顔が近づいてくる。その姿は本当に妖精みたいだ。
 白く染まる世界、僕らの心が出会った。

(了)
 
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<著者紹介>
佐々木 淳志(埼玉県さいたま市/23歳/男性/運送業勤務)

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